ゆるフェミニストの憂鬱――LGBTへの差別がまかり通る世の中とは。

ここ数日気になって仕方ない、ニュースがある。『新潮45』に掲載された、杉田水脈議員の差別発言・暴言を擁護する特集にまつわる議論。

杉田氏の「LGBTは生産性がない」発言が取りざたされていた際も、気持ち悪さがぬぐえなかった。そして、今回の『新潮45』の擁護記事で、さらに気持ち悪さが露骨になった。

私はLGBTではないし、異性愛者だけれども(バイセクシャルの気はあるが、とりあえず現状は異性愛者)、この、なんとも言えない不愉快さ、胸糞悪さはなんだろう?と、ずっと考えていた。モヤモヤしすぎて、いよいよnoteにまで書く衝動に至った。

気持ち悪さの正体ーー男根主義者の匂い

この不可解な気持ち悪さの正体は、なんだろう。

おそらく、それは、杉田氏を擁護する・支持する人たちの論調―ー例えば、LGBT(性的志向)の問題と、痴漢(性的嗜好)を同列に並べ、どちらも蔑む言説に感じる、なんともいえない不愉快さ、気持ち悪さ、怒り、憤りだ。

わたしは、しっかり理論づけて戦うような、実際的に活動もするような、ストイックで過激なフェミニストではない。ストイックな硬派フェミニストの方々には尊敬の念を抱くし、私の周りにもそんな人はいたし、今も関わりはある。

しかし、私の場合は、人生の紆余曲折をへて、老若男女さまざまに出会い、世の中それだけでは解決しないという考えに至った。社会的制度で優位な男性を、敵と規定して闘っても、結局その闘争は収集が付かない。むしろ男性も同様に、制度に支配されている存在だという共通理解のもと、あらゆる立場の人が、性別や年齢、立場を超えて、自分らしく生きられる世の中に、変えていくのが本物という考えだ。

今や、ゆるゆるの、自称「ゆるフェミニスト」であり、古典的なフェミニストの先生たちからみれば、転向派といってもいいくらいだ。

だけど、長年フェミニズムやジェンダー研究、ジェンダー批評を学んできた経験から、違和感に対する感覚は残っている。マッチョ思想、ハラスメント的な差別の匂い、力関係、暴力の気配、排他主義の、原理主義者の、、、それが何かわかる。

杉田氏を擁護する、支持する人たちに感じるものは、「男根至上主義」というやつだ。そうとしか思えない。

およそ根拠のない、屁理屈な、同じ原理や論調で、
典型的な異性愛者以外を差別、排除しようとする。

そういう人たちは、大体、男尊女卑思想で、ジェンダーもばりばり古臭いものを支持し、「男性はうまれもって男にうまれているんだから、男らしく生きるのが当然だ」といい、また一方で、「女性はうまれつき子宮があるんだから、子供を産むのは当然であり、産まないのは非生産的だ」「女性には女性にしかできないことがあり、それを生かしていきるほうが幸せだ」とか、固定的性役割を主張する。極端に行けば、「女性は産む機械」だとか、云えちゃったりするのだ。

「生産性」の話を持ち出すと、世の中の女性、みんなを敵に回すようなものだ。女でも、子供を産まない、結婚しない、結婚しても産まない、産めない人、すべてを否定する。そして、産んでる人も、「生産性」なぞといわれると、「私たちは繁殖用のメス牛かなにかか?」と馬鹿にされてるようにに感じる(・・・種牛はどうなってるんだ?!とか言いたくなるよね、まったく。)

ああ、気持ち悪い。

大体、芋づる式にそういう思想がくっついてくるのが無意識にわかるから、LGBTの人じゃなくても、気持ち悪さを感じるのだ。

わたしが想像するに、大体、永田町の政治家やその周辺で、特に保守的、右寄りの脂ぎったおじさんたちが、こういう思想であり、

わかりやすい例であれば、立場の弱い女性記者に、パワハラして、取材するたびに「好きだから、キスして」「胸を触らせて」とか言ったりして、引責辞任した馬鹿もいた。

世の中の風潮への危惧――なぜこんな言説が雑誌に載せられる?

なぜ、今、杉田氏の暴言や、それを擁護する言説が世間で流れ、物議をかもしていることに、こんなに不愉快さを感じるのか。

もう一つの不可解さとして、
そんな言説や暴言を肯定するような内容が、
大手出版社の雑誌に特集されるという、風潮への危惧だ。

なぜ、こんなめちゃくちゃな言説が、雑誌にのって、まかり通るの?という感じ。こんなものを雑誌に載せて、平気な出版社もヤバいが、そんな空気があるからこそ、売れると思って特集するわけだ。

ネトウヨ的思想の持ち主の増加、右派、保守派への回帰?

また戦争がくるぞ、やばいぞ、ヤバいぞ、って、ただの古臭い左翼活動家の人たちの過剰な警告かとも思っていたけど。

こういうの平気なのを見ていると、本当に今の政権や、今の世の中の流れは、大丈夫か?って不安になる。

多様性多様性いわれるけど、ぜんぜん多様性じゃない、現代日本か?っておもう。

排他主義や、ポピュリズムが、見えないところで、悪意となって膨らんでるのか?と。

政府はマスコミを縛るような法律を作りながら、こんな差別的な言説は独り歩きする。この世の中。

杉田氏を支持する記事をかいた小川榮太郎って人は、文芸評論家、専門は日本近代文学と肩書にあるが、私も長年文学研究やっているが、聴いたこともない名前だ。なんの活動している人かもわからない人だけど、モリカケ問題で朝日新聞を攻撃する本を書いて、朝日新聞から訴訟を起こされている人物だという。もう完全、現首相の旗持ちとしか思えないようなキャラ。

『新潮45』もこんな人のこんな記事を掲載するからには、現首相や政権からなにか利得をもらってるのか?プロバカンダか?と邪推するほどに、ヤバい記事だと思う、今回は。

もっとも、新潮社の中でも抗議する人たちはいるようで、新潮社文芸部のツイッターが、『新潮45』の特集記事を批判する声をリツイートし続けているのが話題になっている。あらゆる抗議の声をリツイートって、ある意味、斬新で力のある抗議だよね。自分は語らず、他者の重層的な声を集めて、抗議の網を編んでいくような。

戦わずして、越えていく――表現や生き方の可能性

こんな時、自分はなにができるだろう?と自問する。

正直、転向派ゆるフェミニストとしては、こういう男根主義者の論争に反論するだけ、時間の無駄であり、不毛な戦いになるとわかっている。それは、これまでの硬派フェミニストの人たちがまっとうに、真っ正直に戦ってきた汗と血と涙の歴史から、学んだのだ。

フェミニズム運動がもたらした成果は、実際的にいくつもある(たとえば、男女雇用機会均等法や、働く権利にまつわる環境整備)。

が、2000年代に到達した今も、未だに個々人の意識や社会制度そのものに、色濃く様々な差別や差別意識が残っているのを見ると、これまでと同じやり方でいいのか?と疑問なのだ。同じ土俵で真っ向から戦っても仕方ない、と思わざるを得ない。

私が思い描くのは、戦わずして、すでに実現したり、形を体現してみせる方法。無意識をゆさぶる方法。

議論や、二元論をこえた、表現。

それは、自由な理想を、形で提示するものかもしれない。
そういう生き方を体現していく、というやり方。
LGBTの人をはじめ、あらゆるマイノリティの人が、自分の生き方を堂々と社会に示していく。仕事、プライベート、家族、地域社会において、体現していく。「わたしはこういう生き方で、私らしく、幸せに生きる」と。その姿に、固定観念に縛られている人たちも「こんな生き方もあるんだ!」と感化されていく。

もしくは、鏡で相手にみせるかのように、
挑発し、氾濫し、無意識を揺さぶる表現かもしれない。
現代アートの手法で、よく取られる方法。
映画、小説、パフォーマンスでも、ありうる。
言葉や議論をこえて、無意識をゆさぶり、なにが本当なのかという問いを考えさせる。

そういう形の活動、できないものか。今は、まだアイディアだけで、どうしたらよいか、わからないけど。少しずつ模索していくつもりだ。

こうやって、記事を書くことも、一つのメッセージかと思い、不可解な気持ち悪さについて考察してみました。


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