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19歳にして初めて小説を読んだんだが (6/8 夕方)


初めてというのは嘘で、「かいけつゾロリ」とかは読んでました。今日は先輩に勧められた「アルジャーノンに花束を」を読んだので、その読書感想文と自分語りです。

本文
白痴、あるいは幼児からの成長を数ヶ月に圧縮し、それを経過報告という主観で、チャーリー本人の変化を活字で描写する起伏が楽しかった。チャーリー程では無いが、自分も知性を欠く先天性の"特別"を持っていて、実際特別支援級クラスで過ごしていた時期もある。年不相応な発達の遅さ、または成長の頭打ちで、彼同様、幼少期から"出来ない"を罰され、自分の姿が他所の子や、求められる規律や常識に比べて歪んでいて、劣っている実感はあった。だから、チャーリーが幼少期の失態を回想し、パン屋の同僚からフレネミー的な態度(ニュアンスが若干違うような気もするが)を取られている様子は、自分の幼少期から現在まで続く、"うすのろ"の世界と、全てが強くシンクロした。

 チャーリーのパン屋の同僚、昔通っていた学校の他人は、チャーリーの鈍臭さ、そんな軽い言葉で表すことに忌避感を覚えるくらいの人間的欠陥を笑い物にして、自分を安心させていた。笑い物にされたチャーリーも、自分自身を笑い、それがコミュニケーションの最適解かのように、彼らを"ともだち"と呼んだ。僕もそれは同じだ。心だけ出なく身体の成長も遅く、芳しくなかったこともあり、小学二年生頃から、人に見下してもらって、ナメられることで相手のプライドを傷付けず、嫌われるリスクを回避する事。それが自分がコミュニケーションを取るための最適解だと、早くから結論付けていた。

ただ、不幸中の幸いなことに、第二次性徴前の僕の顔は、面倒見のいい女の子が世話を妬いて、過ぎた真似をして僕を泣かせた悪ガキを、その子が代わりに糾弾してくれるくらいの可愛げがあった。この成功体験は、よりこのナメられコミュニケーションの有用性をより強固なものにし、今日に至るまで、自らを"ガイジ" "アスペ"などと嘲笑し、それに他人を便乗させることで、僕を見下しやすくするお膳立てまでするようになった。到底これが健康的とは言えないが、現状これ以上の最適解が見つからないので、こうするしかないのだ。僕なんかが対等に話してしまえば、きっと他人のプライドを傷付けて怒らせてしまうだろうから。

 話を読書感想文に戻そう。手術後に知性が向上したチャーリーは、彼らがそういう嘲笑の意識で、自分と向き合っていた事に気付く。「きっと研究所、いやそれ以外の皆も僕を笑い物にしている」と解釈する。そこも同じなのかよ、と突っ込みたくなる。著者のダニエル・キイスは本当に健常者だったのだろうか、あまりに出来損ないの思考や行動の解像度が高いような気がする。まるでチャーリー本人が実在して、その記述を読んでいるような感覚だった。
 
 チャーリーは数ヶ月でメタ認知的な思考ができるまでに知能が向上したが、一方僕はこれに数年掛かっている。そして僕はここ数年、僕を嘲笑させることで、"ともだち"という縁を繋いでいる他人から発される言葉の影響で、僕を笑い物にしないで向き合ってくれる(はずの)他人すら、チャーリーのように疑ってしまう。
「きっと皆も僕を笑ってるんだ、大事に思ってくれてないんだ」「僕を哀れに思わないで」「いや僕は哀れだ、だからいっそ哀れんでくれ」
意味の無い内省が頭蓋骨に響いた。

 人間は知能が発達していくと、過去の環境や境遇に、改めて結論や妥協案を付けて救われようとする。そうしてそれに準じた行動を起こすことで、人生を進めるのだ。と、チャーリーの圧縮された成長を見て思った。パン屋を離れて、友達が友達じゃなくなっていく時、"賢くなった"あるいは"プライドを持った"ことで、過去の友達はチャーリーを邪険に扱い、面白く思わない素振りを見せるようになった。これは自分の未来だと思った。というか、このパン屋をやめた時点で、チャーリーのIQは僕を上回っていたように感じる。これより先のチャーリーの抱える悩みや焦燥は、僕が現在抱え、これからより強くなっていくという見込みのあるものと、極めて近い形をしていたからだ。成長後、幼児の自分が成人の自分を訝しげに俯瞰する事なんて、その最たる例だ。
 
余談だが、チャーリー・ゴードンのIQは初め68で、最盛期には185となっている。一方僕のIQは77そこらなので、この時点でIQと成長曲線の位置は、僕とほぼ同じ場所だったのだろう。確かに本書にできる高い共感は、この事件以前、もしくは回想や退行後が殆どだ。天才時のアイデンティティ・クライシスなんて、僕は理解はできても共感は出来なかった。きっとこれから経験するのだろう、と楽観的な結論を付け加える。

 最近脳裏に過ぎる欲望がある。それは"もっと尊重されたい、他人と対等でありたい"という、僕なんかが持つべきでない欲望だ。マズローの欲求五段階説で言うところ、自己実現欲求に当てはまるだろうか。そんな欲望を持つ資格なんて、人に迷惑をかけてばかりで、"うすのろ人間"な自分には無いと思ってしまう。思ってしまうというか、そう思っておけば、僕を馬鹿にしないと気が済まない他人や、ある種の観念から、心無い言葉を掛けられるリスクが避けられると考えている。エゴイストの防御措置だ。

 いっそのこと世界の中心で「おまえらみたいな普通で優秀な連中が、俺を嘲笑してることくらい分かってんだ。何かする度に"やっぱ障害者だな"とか"それはお前が全部悪い"って言って、悲しくないわけないだろう!」と叫んでしまおうか、出来るわけないのだ。何故なら僕はもう自分で自分を嗤っている。自分は良くて他人はダメだなんて、そんなダブルスタンダードは美しくない、他人はよく使うが、僕は自分の気付く範囲であれば、そのような破綻したロジックを用いるつもりはない。

 少年から青年へOSをアップデートする際は、問題にならなかった"価値観"というアプリケーションが、青年から大人へアップデートする事になった瞬間、上手く動かなくなってしまった。"出来るだけ不快感を与えないようにコミュニケーションを取る.exe"も"上手く行かなかったらすぐ自殺すれば無問題.exe"も、大人という新しいOSをインストールしようとした途端、動かなくなってしまった。
 
 そうして僕は今、焦っている。今まで信じてきた価値観や死生観、他人とのズレを修正するために作った、他人の感情と行動を、外部情報から推測してシュミレーションする習慣。それら全てが通用しなくなってきている。
 そうして僕は今、迫られている。小学二年生の僕が考え、今日に至るまで信じて来た偶像を捨てて、新たな価値観や他人像をつくる事を。自分も他人が対等で、自分と最大多数が幸福に過ごせる主観的世界のために。


ついしん:
大学のとても賢い先輩から勧めてもらった、ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」という名作を読んで、あまりにも感情が動いて、手を動かしたくなったのでここに書きます。読書感想文の形を取った自分語りだと思ってください。というか、小説/文学というものは素晴らしいですね、僕は前述の通り、19になるまでかいけつゾロリ以外の小説は、ほぼ読まないで生きてきました。読んでいた本といえば、昔かぶれていたビジネス書や実用書、あとは美術や言語関係の専門書くらいです。せっかく本を読むくらい体力を使うのだから、なるべく学びの多いものにしたい、と考えて選んでいました。ですが最近、速読技術が上手いこと身に付いて、文庫本程度なら学校帰りの電車で座ってれば読み終わる程度にはなったので、色々本を読んでみようと思ったのです。しかも聞くところ、文学には救いがあるらしいとのことで、鬱病が酷く、何もやる気のわかない5月を利用しようと、おすすめ本を人から募って、そこから新たに読みたい本も見つかったりして、しばらくは読む本に困らなさそうです。本当にありがとうございます。そして本当に全部読みます。
  もし良かったら貸してくれると嬉しいです。買うお金が無くて読めてないものも多いので。文学というものは素晴らしいですね、こんなに救われるとは。僕はこの媒体にとてもハマりました。映像や絵画、音楽とも違う救われ方、1番体感で近いのは湯巡りでしょうか。疲れながら疲れを癒すような、憂鬱をすすりながら憂鬱が落ちていくような感覚です。世の中の人間は、こんなに感情を動かされて、内省できる媒体を知りながら、どうして平然に(見えるような)暮らしをして、表現活動をしようとしないのでしょうか。僕には読書という感動を通して、ますます他人、皆さんが分からなくなってしまいました。もし良かったら、またおすすめの本を教えてください。ここ1ヶ月で読んだ本を中心に、かなり気に入った本を列挙します。参考までに知って欲しいです。

「斜陽」「不良少年とキリスト」「アルジャーノンに花束を」「死にたくなったら電話して」「TUGUMI」「人間失格」「白痴」「野火」「アフターダーク」「ヴィヨンの妻」「侏儒の言葉」

坂口安吾、太宰治 辺りが好きみたいです。エンタメ、推理、ホラー、恋愛 よりも、独白っぽいものが好きです。共感性の高い本も好きです。

サムネ:ISO1638400さん撮影

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