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Rihlaの頁が尽きるまで(風野湊)

【カテゴリ】小説
【文字数】約9000文字
【あらすじ】
サハラ砂漠の片隅に、本まみれの変な安宿があるらしい――そんな噂に惹かれた『わたし』は、モロッコの小さな村にあるデューン・ロッジへとやってきた。その安宿にまつわるもうひとつの噂を確かめるために……。2050年の旅情を描く、未来の紀行小説。
【著者プロフィール】
風野湊。旅と小説の個人サークル『呼吸書房』として、2012年より文学フリマに出展。過去作に、学生時代の半年間一人旅に基づく紀行文『旅人よ立ち止まれ』や、幻想短編集『永遠の不在をめぐる』など。
現在は熱帯雨林の樹木変身譚を執筆中。
旅先では猫を愛でつつ読書に耽れたら幸福。
個人サイト:https://kokyushobo.com/

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2050年3月21日
 
 夜明け前に礫砂漠へ差しかかった。

 道の状態は悪く、バスはときどき引きつけを起こしたように揺れた。わたしは、隣で寝息を立てている旅行者を起こさないように、注意深くカーテンの隙間から外を覗いた。薄明に染まりはじめた空と、黒く切り抜かれたような地平線が見える。視界に障害物は何もない。サハラ、とわたしは吐息だけで呟いた。
 地図上に瞬く現在地によれば、ここからは五十キロほど一本道が続く。その先にわたしたちの目当てがある。モロッコ南東部の外れ、サハラ砂漠の北端に広がる、シェビ大砂丘だ。
 茜さす砂の海をゆくラクダのキャラバンや、砂丘の麓に佇むテントや、オフロード車でのアクティビティを夢見て、世界各地から多くの旅行者がこの地を訪れてきた。わたしもまた例に漏れず、砂漠の夢に惹かれた一人だったが、加えてもうひとつささやかな目的があった。旅人の間で囁かれる、奇妙な噂の舞台に宿泊することだ。

『サハラ砂漠の片隅に、本まみれの変な安宿があるらしい』

 幸い、長期旅行の途中で時間には余裕がある。ここのところ移動ばかりだったし、休憩も兼ねて、しばらく読書を楽しむつもりだった。
 日が昇りきり、空の青も鮮やかになった頃、バスは砂漠沿いの小さな村に停まった。わたしも含めて数人が下車した。

 予約した宿へ向かおうとすると、同乗者の一人が英語で声を掛けてきた。「君もデューン・ロッジか?」そうだと答えれば、彼はほっとしたように目尻を和ませた。「俺もそうなんだ。一緒に行っても良いかい」
 彼はノイと名乗り、大学の学期間休暇を利用した一人旅なのだ、と嬉しそうに話した。三日も滞在したらすぐ次の街へ向かうという。

「もっとゆっくりしたら良いのに」
「帰りの飛行機が六日後なんだ。安い便はそれしか取れなくて」
「マラケシュはこれから?」
「そう、ここに三日、マラケシュに二日。忙しい。そっちはどれくらい?」
「しばらく長居するんだ。ビザが切れるか、飽きるまで」

 ノイは大仰に「最高じゃん」と呻き、いずれ来る学生生活の終わりを嘆いた。「なあ、どんな仕事したら卒業後も旅行を続けられるんだ?」間接的に無職なのかと訊かれた気もするが、適当にごまかしておく。話題を変えることにする。

「どこから来たんだ?」
「ラオスだよ」
「ヴィエンチャン?」
「そうそう、その辺り」

 正確には違うが大体その近所だ、という言外の意味を悟り、わたしはちょっと申し訳なくなりながら笑う。
 小さな村にも関わらず、通りには宿の看板がいくつも並んでいた。さすがは砂漠観光の拠点といったところだろうか。民家の傍には野良犬のような気軽さでラクダが座り、長い睫毛をゆっくりと瞬かせていた。

 デューン・ロッジは、村の外れにあった。宿の玄関は開け放たれ、レセプションに人影も見えている。宿の外観を撮影したかったので、ノイには先に行ってもらった。後からいつでも撮れると思っていると大体忘れるのだ。
 日干し煉瓦で作られた外壁と、砂を帯びてなお鮮やかなモザイクタイルの装飾柱をひととおり撮ってから中に入ると、ノイはまだレセプションに居て、なぜか助けを乞うような眼差しを向けてきた。宿のスタッフもわたしを見た。

「すいませんね、ちょっと待ってもらえますか」

 おや、とわたしは耳元に手を添えた。フランス語だ。すぐにぴんと来て、わたしはフランス語の語彙を記憶から引っぱりだした。

「翻訳の故障ですか?」
「そう、砂塵でね。何度修理に出してもすぐ駄目になっちまう」
「通訳しますよ」
「ありがたい。お二人ともチェックインで? そしたらパスポートを」

 宿の翻訳が故障していることと、わたしが通訳することを伝えると、ノイはほっと息を吐いた。

「助かった。俺の翻訳、いま充電切れてて。英語じゃ通じなかったんだ」
「だと思った。あのバス、コンセント無かったから」

 二人分のパスポートを手渡すと、彼は申し訳なさそうに顎髭を撫でた。

「うちのオーナーは英語できますって彼に伝えといてください。午後から交代しますんで」
「了解です。彼の翻訳は充電が切れてるだけだから、大丈夫ですよ」

 客室へ案内される道すがら、スタッフのこまごまとした説明をわたしはノイに通訳した。——ここがキッチン、自炊に使ったら片付けること。シャワーの水は節約すること。食堂、朝食は七時から。洗濯機はこれ。洗剤は村の商店で売ってる。砂塗れのスニーカーをそのまま突っこむと壊れるからやめてくれ、等々。

「あと、チェックアウトは十時までです。説明はこんなものかな。なにか質問があったらどうぞ」
「本とかって置いてあります?」

 できるだけさりげない声で尋ねたつもりだったが、彼の返答には一瞬の間があった。

「本棚なら談話室にありますよ」

 ありがたい、と答えてわたしはすぐに話を打ちきった。
 客室は中庭に面していた。直射日光が降りそそぐ表の庭には植木鉢ひとつ無かったのに、四方を壁に囲まれた中庭は、まるで小さなオアシスのように、到るところ植物で溢れていた。樹木は青々として、木陰には花が揺れている。ふっと枝葉がざわめき、見上げれば、幹に爪を立てた白茶の猫がこちらをじっと見つめていた。
 仮眠するというノイと中庭で別れ、わたしは客室に鞄を放り投げると、談話室に直行した。
 そして、本はそこにあった。旅行者たちの噂で聞いたとおりに。
 談話室の壁沿いに並ぶ、古びた三つの書架。天井近くまでぎっしりと並べられた本。背表紙に踊るアラビア語、英語、フランス語、ギリシャ語、ベトナム語、日本語、ドイツ語、マレー語、ロシア語、数えきれないほどの言語たち。

『サハラ砂漠のどこかの宿に、変な本棚があるんだと』

 最初に噂を聞いたのは、たしかバンコクでのことだったように思う。世界中のバックパッカーが屯する安宿街には、あらゆる旅の噂が集まる。もちろん、大半は近隣の実用的な情報ばかりだ。劇場広場前のバーはボッタクリだから近づくなとか、近隣諸国の陸路による国境越えについてだとか、ガイドに載らないような田舎の観光情報だとか。けれども、半年、一年、数年に渡って各地を渡り歩くような連中が口の端に上らせる噂話は、地理的な距離を一切考慮しない。

『バンコクの後はヨーロッパ周遊? 北アフリカも? そりゃいいねえ、良い季節だ。わたしも四ヶ月前までモロッコにいたんだよ』
『俺もまた行きてえなあ。三年前に行ったきりだ』
『もちろんサハラも行くんだろ? そういや、こんな話を聞いたことがある——』

 わたしはその噂を笑って聞き流した。だが、サハラの本棚に関する奇妙な噂話は、時と場所を変えて、わたしの前に現れつづけた。バルセロナの安宿で、クレタ島の大衆食堂で、バンクーバーの古書店で、断片的に。

『サハラのどこかに図書館みたいな安宿があるらしい。オーナーが蒐集家なんだとか』
『モロッコのなんとかロッジには、活字に飢えたバックパッカーが何ヶ月も居座っている』
『デューン・ロッジの奇妙な本棚は、一見、何の変哲もない。ただ世界各地から集められた紀行文が並ぶばかり。けれども時折、その書架には、この世に存在しないはずの本が紛れこむという』

 その噂を聞いてモロッコ行きを決めた訳じゃない。たまたま良いチケットが取れて、砂漠に行こうと決めてから、ふと思い出したのだ。砂漠の片隅にあるという、奇妙な本棚と宿のことを。

 談話室には誰もいなかった。日差しの中で砂埃がゆっくりと動いていた。わたしは書架の前に佇み、さまざまな言語で綴られた背表紙をしばらく眺め、視界の翻訳を有効にした。焦点を合わせた文字が揺れ、わたしの母語に組み変わる。左端の書架から順に、わたしは背表紙を読んでいった。パウサニアス『ギリシア案内記』、玄奘『大唐西域記』、マルコ・ポーロ『東方見聞録』、イブン・ジュバイル『旅行記』、ジョン・マンデヴィル『東方旅行記』、イブン・バットゥータ『三大陸周遊記』。本の佇まいには統一感がまるでなく、箔押しされたハードカバー装丁が数巻続いたかと思えば、その隣にくたびれたペーパーバックが差してあったりした。
 やがて背表紙の行き先に新大陸が加わった。どうやら書架の分類は年代順らしい。ウィリアム・ダンピア、ブーガンヴィル、キャプテン・クック、フォルスター、アレクサンダー・フォン・フンボルト。彼らの後にはゲーテ、アンデルセン、文豪たちの紀行文が続き、それからメアリー・シェリー、イザベラ・バード、女流作家たち。背表紙の凹凸を指先で撫でながら、隣の書架へ目を転じる。この辺りから知らない著者名が急増し、わたしは二十世紀と飛行機の到来を知った。

「あんたの目当てはそこにはないよ」

 出し抜けに声が掛かり、わたしは思わず肩を竦ませた。決まりの悪さを隠しながら振り向くと、明らかに寝起きとわかる若者がマグカップ片手に近寄ってきた。彼だか彼女だかは裸足だった。どおりで足音がしないはずだ。オーナーにしては若すぎるし、おそらく同宿の旅行者だろうと思う。
 若者はわたしを一瞥もせず、右端の書架を指した。

「探すならそっちだ。最近の『ロンリープラネット』とか、ガイドブックも何冊か入れてあるし、年代的にも近い本が多いから。まあ、みんながこの本棚ばっかり使うもんだから、他に比べると時系列の分類がぐちゃぐちゃだけどね。ちゃんと元の場所に戻せよなあ」隣りあう三冊を一度に抜いて、若者はわたしに奥付の発行日付を見せた。「1955年、2040年、1984年。ほらね」

 わたしは曖昧に頷いた。

「なにか探してた訳じゃないんだ。ちょっと適当に見てただけで」
「ふうん」

 コーヒーを一口啜り、若者は面白がるように片眉を上げた。

「荷解きもしないでここに直行してくる旅行者はみんなそう言う。なにか後ろめたさでも?」

 若者はリフラと名乗った。こちらが尋ねてもいないのに、リフラは身の上話をべらべらと喋った——安宿の出会いではよくあるように。曰く、四年ほど放浪していること、この宿に泊まるのは三度目で、今回はかれこれ三ヶ月ほど“沈没”していること。わたしが観光ビザの期限を訝しむと、リフラはあからさまに話題を変えた。見た目ほど若者ではないのかもしれない。

「あんたが聞いた噂はどんなだった?」
「……サハラの隅に図書館みたいな宿があるとか。活字中毒のバックパッカーが居座ってるとか。世界中の紀行文があるとか」

 少なくとも、居座るバックパッカー、については部分的に当たっていた訳だ。

「は、図書館ではないよねえ、少なくとも。この部屋を埋め尽くすくらいにはならなきゃ」
「いまどき、こんなに紙の本を置いてあるだけで、宿としては相当めずらしいよ」

 わたしは絨毯に腰を下ろし、書架の下段から本を抜きだしてみた。適当なページに焦点を合わせる。文字が揺れ、翻訳されようとして、失敗した。意味を成さないめちゃめちゃな言葉の羅列に、眉をしかめて翻訳を切る。話者の少ない言語ほど自動翻訳は精度が落ちる。「たしかに」とリフラが相槌を打った。「電子で読む方が訳もずっと確実だし」

「ここのオーナーは蒐集が趣味なのかな」
「どうだろ、少なくともここの本棚の半分以上は、旅行者が置いていった本だよ。紀行文の寄贈で宿泊料をいくらか割引してた頃があったんだってさ。話題作りに」
「話題作り……」
「長期旅行者なら、本の一冊や二冊はだいたい持ってるしね」

 中庭に続くドアから、猫がするりと入って来た。さっき樹上で見かけたやつだ。リフラが歌うような声で呼びかけると、猫は尾をぴんと立てた。リフラは得意満面な顔で猫を抱きあげた。
 わたしは本を閉じ、元の位置へ戻した。おそらくは、安宿には珍しい大量の本の印象と、紀行文寄贈の話題が混ざりあい、旅行者の間で妙な噂が息づくようになったのだろう。とはいえ、ここまで多様な国の紀行文が一堂に会するのは、国立図書館でもそうそう無い。しばらくは読む本に困らなそうだった。

「ほんとのこと言わないから言ってあげるよ」

 わたしは肩越しに振り向いた。リフラがわたしを見下ろしていた。

「確かめに来たんだ、あんたも。この本棚には、存在しない本が紛れこむっていう、ばかばかしい噂を」

 息継ぎのように口を閉ざし、リフラは静かな目で笑った。

「チャンスは一度だけ。誰もいない真夜中にしか見つからない。わたしは見つけた」

 わたしが何も言えずにいる内に、リフラは猫に頬擦りをし、「一緒に朝寝しよ」と甘く囁いて、談話室を出て行った。ドアを閉める間際に「あ、それ片付けといて」と軽く言われた。わたしは床へ置き去りにされた哀れなマグカップを丁寧に片付けた。

 翌日は、砂漠へ出かけた。ラクダに乗って片道三時間の一泊ツアーだ。参加者はわたしとノイと、隣の宿に泊まっている老夫婦。ガイドは二人。ノイは砂漠に大はしゃぎで、ラクダの背上で小一時間ほど歌っていた。後で聞くところによれば、故郷の流行歌ということだった。
 砂漠の只中に用意されたテントでわたしたちは一夜を明かし、日の出とともに灰青から茜へと燃えあがる大砂丘を歩きまわった。その後、朝食の席でノイがいないことに気づいた。出発時間になってもノイは戻ってこなかった。ガイドの二人が探索に出て、わたしたちは顔を見合わせながらキャンプにじっとしていた。ラクダたちが暇そうに頭をもたげていた。
 一時間も経たずに、ガイドはノイを連れて帰ってきた。ノイは笑いながら遅刻を詫びてみせたけれども、涙の跡を隠しきれていなかった。

「楽しくなって、どんどん先に歩いてたんだ」

 無事に宿まで戻った後で、ノイはわたしにこっそり打ち明けた。

「夜明け前から、砂丘をどんどん越えてさ。ひとつ砂丘を越えても、すぐにまた砂丘がある。どこまで続くんだろうと思って、砂丘から滑り降りたりもして……気がついたら来た方角がわからなくなってたんだ。どこを見ても砂しか見えない。誰の声も聞こえない。手ぶらで来ちゃったからGPSも使えない。もうこのまま帰れないかと思った。めちゃめちゃ怖かった……迎えが見えたとき泣いちゃったもんな」
「そりゃあ一生の思い出だ」

 わたしがからかうつもりで笑うと、ノイは目をぱちぱちして、それから大きく頷いた。

「間違いない。一生忘れない」

 次の街へ発つノイを見送り、わたしは長期滞在を宿に申し出た。宿泊費の割引について交渉しながら、老齢のオーナーは眼鏡の向こうで黒曜石のような瞳をきらめかせ、厳かに呟いた。「部屋なら空いてる。気が済むまで居れば良い」
 わたしは宿に引き篭もった。朝夕の涼しい時間だけ、棗椰子が揺れる畑や村の通りを散歩した。睡眠は昼に取った。そして夜は、本を読んで過ごした。
 夜の談話室には、いつも人がいた。オーナーが膝に猫を乗せてくつろいでいるときもあれば、リフラが絨毯に寝転んでいるときもあった。旅行者とも何度か顔を合わせた。午前三時、読み終えた本を棚に戻そうとして、先客が四人もいたときは流石に驚いた。わたしは彼らと、好みの著者やおすすめの本についてしばしば語りあった。

 滞在二ヶ月目のある晩、わたしは客室で2025年初版の紀行文を読み終えたところだった。自動翻訳と辞書を組みあわせて読めば、馴染みのない言語でも、叙情的な美しい本ということは察せられた。口絵に印刷された街の写真も味わい深く、次の目的地にしても良いかもしれないと思う。どこの旅行者がいつ持ちこんだ本なのかは分からないが、どうやら電子化もされておらず、出版元の国でもとっくに絶版のようだった。この地に来なければ一生読むことはなかっただろう。満足感とともに、満月が照らす中庭を通り、談話室に向かう。今日はそろそろ寝ようか、それとも新しい一冊を選んでからにしようか——そう考えながらドアを開けて、眼前に広がる闇にわたしは足を止めた。談話室は無人だった。明かりもすべて消えていた。滞在中はじめてのことだった。
 やがて目が慣れると、窓から差しこむ月明かりに調度品の輪郭が浮かびあがった。わたしはまごつきながら机上のランプを点し、書架の前に立った。背表紙を読んでゆく。二ヶ月も足繁く通えば、本の顔ぶれは流石に覚えている。見知らぬ本が一冊だけ紛れていた。見た目には普通の本だった。背表紙のタイトルに焦点を合わせる——ギリシャ語から翻訳——『楽園より』。わたしは鼓動が早まるのを感じながら、本を抜き取り、ページを繰った。章題の傍に日付が付されていた。

 2218年9月26日。

 それはリフラのいたずらか、もっともらしい夢か、あるいは誰かが、ただのSF小説を持ちこんだだけなのかもしれない。きっとおそらくはそうだろう。けれど、その本は二度と見つからなかった。わたしは確かにその本を読みはじめたのに、談話室のソファでいつのまにか眠りこんでしまい、目を覚ましたときにはもう手の中は空っぽだった。(その本の内容は章末尾に要約しておいた。翻訳の精度も良くなかったし、わたしの記憶違いも多分に含まれているだろうが、遠い未来、この紀行文を誰かが読むことがあれば、わたしの体験が真実だったのかどうか分かるだろう)

 翌朝、朝食の席で、リフラが昨晩未明にチェックアウトしたと聞かされた。村に大勢いた友人の誰にも行き先を告げず、半年近い滞在を終え、どこかへ行ってしまったのだ。
 リフラが泊まっていた部屋は、あんなに私物と生活感で溢れていたのに、一晩ですっかり片付けられていた。わたしは拭い難い寂しさを感じた。窓の傍にひとつだけ洗濯バサミが落ちていて、現実を証明するように、静かに朝日を反射していた。


付記 ——『楽園より』要約——

2218年9月26日、エーゲ海の片隅にある宿の一日。
ゴースト(原文ママ)がチェックインに訪れる。
彼らの姿は裸眼では見えないが、機器を通せばふつうに会話もできる。彼らの身体は故郷に横たわっており、意識だけが仮想空間越しに現実と交流する。ゴーストは体験を求め、宿のスタッフが五感を提供する。時には生身の旅行者も協力するらしい。
そして現実の彼らは、ゴーストに感覚をシェアしながら、魅力的な一日を過ごす。チェックイン時の要望に添い、ある者は海で過ごし、ある者は路地を散歩し、ある者はシーフードレストランを梯子して。この間、ゴーストからの言葉は(なぜか)現実側には届かないよう設定されている(翻訳の間違いかもしれない?)。チェックアウトが済んだ後、宿はゴーストからのレビューを受けとる。提供された一日の評価は、もちろん一般に公開され、高評価の宿は常に予約で埋まっている。
もはや距離は意味をなさない。地球の裏側からであろうと、一瞬で、異国の風を肌に感じられるようになった。
それでも人間は旅行を続けている。ゴーストとしても、現実の肉体としても。
わざわざ重い身体と荷物を引きずって遠い異国まで出かけるのは少数派になりつつあるが、どうやらゼロにはなりそうもない。
安全と快適の外に出たがる奇特な人間は、いつの時代にも居るものだ。

そうでしょう?


(“わたし”の瞼がゆっくりと閉じ、力の抜けた指先から本が落下する)

(本は絨毯の上に落ち、一度弾んで、夜風がページを捲る)

(風が止み、本がかき消える。二千年分の紀行文が蒐集された書架のどこにも、その本は見当たらない。“わたし”が本を抜き取ったときに生じたはずの隙間も、今は消えている)

(少なくとも、今は。)





(了)

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あとがき

ここまでお読みいただきありがとうございます。風野湊です。
以降はあとがきとなります。本文の追加はありません。物語を楽しんでくれた方に、投げ銭的にご購入いただければと思います:)

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