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うつ病の自分が悩んできた人間関係について

人間関係で悩んだことがない人は、多分この世の中にいないと思います。ただし、悩みやすい考え方があって、それを修正しない限り、ずっとこの世の中は生きにくいままなんだということを、32歳にして最近、初めて気がつきました。

例えば、職場の上司でも親でもいいんですが、失礼なことや、不愉快な言動をしてくる人がいますよね。

それに対して、「なんであの人はそんなことを言ったんだろう」と永遠に考え、「きっと自分が悪いからだ」「きっと自分が低脳だからだ」と落ち込むと、おそかれはやかれ、うつ病になります。ちなみに、これは実体験です。

もしくは「おれは悪くない」「あいつがクズだから悪いんだ」と怒りに頭を支配される場合もあります。これは、最悪の場合、暴力沙汰を起こしてしまう可能性があるので、未成年じゃない限りは、かなりリスキーです。これも実体験です。自分は双極性障害だと診断されているのですが、躁状態のときは、恨む相手を殺さないようにするだけで一苦労でした。

一方で、不愉快な言動をしてくる人に、「そういう言動をされると悲しい気持ちになるので、やめてくれませんか」と言えたら、どうでしょう。かなり怖いかもしれませんが、もし言えたら、きっと早い段階で火種は潰せたかもしれません。

それでは、過去の自分は、なんで言えなかったのだろうと考えてみると、「勇気がなかった」ことが主な原因だと思っています。何の勇気かというと、まず「嫌われる勇気」です。

心のどこかで、その人に嫌われたくないと思っていると、その相手のご機嫌とりのようなことをしてしまいますし、悲しい気持ちに蓋をして、その場をやり過ごしてしまうことにもなりかねません。

また、「〜しなければならない」という常識や一般論にばかり囚われていると、自分の感情に蓋をしてしまうので、自分の意見を言うことなどできるわけがありませんよね。

「目上の人の言うことは絶対従わなければならない」「後輩なら先輩の言うことは絶対守らなければならない」と思っていたら、上司からどんなに酷い言動をされても、NOという意見を言うことなんてできません。

「親孝行をしなければならない」「親の言うことは絶対」といった思い込みがあれば、両親に非があるようなケースでも、我慢してご機嫌とりをしたり、嫌なことでも我慢しなければいけなくなります。

真面目な人が精神疾患になりやすいというのは、事実だと思います。かといって、元気に暮らしている人が不真面目だというわけではありませんが、白か黒ではない「曖昧さ」を許容できるような考え方をしているとストレスに強いのではないかと思います。

例えば「廊下を走るな」というルールがあっても、もし怪物が襲ってきたら先生だって走りますよね。どんなルールや法律にも「但し書き」があって、「※ただし、〜な場合は例外とする」といったような、余白があります。

また、憲法は国の最高法規と言われていて、それに反するような法律・ルールが作れませんが、それと同じように、絶対に優先して大事にしなければならない事柄が人生にもあって、それは「自分の幸せ」「自分の健康」「自分の喜び」なんだと思います。

それを考えると、「親孝行をしなければならない」と思って、嫌々、親からの愚痴や不満のゴミ箱になったり、気を使って仕送りをしていたとしても、それが「自分の幸せ」「自分の健康」「自分の喜び」を害しているのであれば、その行動は今すぐにでもやめた方がいいし、それを批判されても、全く気にする必要はないんですね。自分の人生なんですから。

ただし、白黒思考を止めたとしても、「親に愛されたい」「親に愛されなければならない」という気持ちがあって、「嫌われる勇気」を持つことができなければ、自分の心に沿った行動はできません。そうです。この問題は複合的に絡み合っているんですね。

特に、愛情不足のまま大人になってしまった場合だと、その愛情を親だけではなく、友人や恋人、会社の上司などに求めてしまい、相手にとって都合の良い行動ばかり優先させてしまったり、相手の愛情を確かめるような、冷静に考えれば、「かまってちゃん」的な行動をしてしまうことにもなりかねません。

また、その欠乏感を、肩書きや年収など、社会的な成功や「勝ち負け」で埋めようとしてしまうことにより、運が良ければ、一時的な成功を手に入れられるかもしれませんが、無理をしてしまうことで息切れを起こしてしまうこともあると思います。また、そういう考え方をしていると、「努力しなければ自分は愛されない」というロジックが成り立ってしまうので、努力しようとしても頑張れないという人もいるかと思います。

自分の場合は、学生時代、医者になれば価値のある人間になれて、周りからも愛されると思い込み、医学部を志望校にしたものの、勉強量が足りず、落ちてしまいました。大学生の頃は、ミュージシャンになりたいと思っていたものの、それは周りにチヤホヤされたいとか、見下してきた人を見返したいとか、そんなことを考えるばかりで、全然練習していない癖に、音楽事情に詳しいだけの痛い人になっていました。

愛情の欠乏感は、愛情でしか埋まらないんだと思います。そして、愛情は誰かから貰うものではなく、誰かに与えようとすることで、井戸のように心の底から湧き上がるものなんですね。自分の場合は、愛猫を撫でているときや、妻に手料理を振舞ったり、愛犬のトイレを掃除しているときに、愛情を感じています。10月の終わりまではハムスターもいたのですが、死んでしまいました。苦しくも、自分が精神的に不安定になり睡眠薬を過剰摂取して救急隊が家に来た2日後のことでした。死んじゃったら、もう二度と会えないですし、寂しいですよね。ハムスターはそんな命を粗末に扱う自分を咎めてくれたのだと思います。だから、妻も健康で、猫を撫でる元気がある内は、死にたくないなーと思うに至りました。今では健康オタクです。

そして、そんな風に考えている内に、今まで精神を壊すくらい悩んできた「両親」や「会社の上司」、その他、「優しさの欠ける人たち」のことなんて、どうでもよくなりました。その人たちに愛されなくても、自分自身で愛情を生み出すことができるし、妻や猫と犬と楽しく過ごす時間がメインなんだから、外野は関係ないやと思っています。

きっと「嫌われる勇気」が身についたっていうことなんだと思います。そして、あとは、「自分の幸せ」「自分の健康」「自分の喜び」を最優先に考え、ときには一般常識や通念に反した行動だとしても、適法だと判断するという「図太さ」「強引さ」が必要なんだと思っています。

自分の場合、会社の仕事を放り出して休職してしまったわけですが、あのまま働いていたら、自殺するか誰かを殺していたと思うので、「自分の幸せを優先できてよかった!」と今では思っています。常識的に考えれば、仕事を放り投げて会社を休むなんてありえませんが、自分の健康を守るためなら適法です。代わりなんていくらでもいます。代わりの人材を用意できない会社にも帰責事由がありますし、何も100%自分が悪いなんてことはあるはずないんです。交通事故と同じです。

もちろん、上司や親が悪口を言っているイメージが頭に浮かぶことが全くないわけではないですが、頻度はかなり減りましたし、反論というか、気にしないようになりました。

文章にまとめると、そんな難しいことじゃないような気もしますが、自分の場合は、適応障害になってから、その1年後に気分変調症、そのまた1年後に双極性障害と診断されて休職、それから1年以上の時間を経たので、合計で3年以上かかっている計算です。愕然としますが、正直なところ、あんまり記憶がありません。多分、自分のことじゃなく、他人のことばかりに意識を向けていたからなのではないかと思います。

現在も治療中ではありますが、希死念慮を抱くことは無くなってきましたし、もっと体調がよくなるように、毎日を大切に過ごして生きたいと思っています。

最後までご覧いただき有難うございました。










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