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卒業ソングから少子化を考える

 卒業ソング、というのがある。

 35年から40年ほど前。
 それ以前の卒業ソングといえば「仰げば尊し」かユーミンの「卒業写真」か金八の「贈る言葉」くらいだったが、昭和60年頃から急激に「卒業ソング」というジャンルの曲が増えた。

 斉藤由貴、尾崎豊。特にこのあたりは、タイトルもまんま「卒業」(ちなみに斉藤由貴と尾崎豊は一時熱愛不倫騒動で世間を騒がせた)。
 その後「卒業ソング」とされているものは、ストレートに卒業をテーマにしたものばかりではなく、別れや旅立ちにまつわる曲が卒業をイメージさせ、定着したものも多い気がする。

 時代とともに移り変わるその曲たちは、残るものもあり、消えていくものもある。

 かつては、音楽に触れる機会はテレビやラジオが多かった。そしてみんながテレビを見ていた。だから「卒業ソングと言えば?」という質問があれば、年輩者はみな同じような曲名を答えることが多いと思う。

 現在、サブスク配信主流の現役の卒業生世代が答える曲名はバラバラだ。

 私は松田聖子や斉藤由貴や尾崎豊を口ずさんで卒業した世代だが、それらの曲に必ずしも気持ちがフィットしていたわけではない。ただ、卒業シーズンになるとやたらと特集されて世の中に溢れた。

先生あなたはか弱き大人の代弁者なのか
(中略)
この支配からの卒業
闘いからの卒業

尾崎豊『卒業』

 これなんか、大人が子供を押さえつける力が今よりずっと強力だったからこその歌詞だ。今はすっかり「か弱き大人」が定着しちゃって、先生は大変で気の毒な職業だと小学生までもが認識しているから、かえってこういう歌詞は出てこないだろうなと思う。しかも卒業したって支配が終わらないことを子供のほうがわかっている。もう盗んだバイクで走りだしたりしない。夜の校舎で窓ガラスを割って回ったりしない。
 今はきっとRADWIMPSの「正解」のほうがしっくりくるんじゃないだろうか。

あぁ答えがある問いばかりを 教わってきたよ
そのせいだろうか
ぼくたちが知りたかったのは いつも正解など大人も知らない

RADWIMPS『正解』

 制服の胸のボタンを
 下級生たちにねだられ
 頭搔きながら逃げるのね
 ほんとは嬉しいくせして

斉藤由貴『卒業』

 斉藤由貴の「卒業」。松本隆作詞、筒美京平作曲の黄金コンビ。「好きな人からボタンをもらう」という風習も、確かにあった。私たちはイメージできるけど、今の子供たちもこんなことをやるのだろうか。

 セーラーの薄いスカーフで
 止まった時間を結びたい
 だけど東京で変わってく
 あなたの未来は縛れない

斉藤由貴『卒業』

 うーん。やっぱり東京に行くんだね。

 ちょっと話がそれるが、上の「卒業」の出だしが「制服の~」から始まるから、いつもどっちが「制服」だったっけ?と思う。斉藤由貴が「卒業」で松田聖子が「制服」だ。

 松田聖子の「制服」は、今思うとすごい曲だ。Aメロ、Bメロ、Cメロ、サビ、Dメロ、サビ2と目まぐるしい変化のある曲調だということに、改めて気づいた。そしてすんばらしく情景と物語が浮かぶ。見事な歌詞だ。さすが、呉田軽穂(ユーミン)作曲、松本隆作詞という贅沢品。

 卒業証書抱いた 傘の波に紛れながら
 自然にあなたの横 並ぶように歩いてたの

 四月からは都会に 行ってしまうあなたに
 打ち明けたい 気持ちが・・・

 でもこのままでいいの
 ただのクラスメイトだから

 失う時初めて 眩しかった時を知るの

 (中略)

 桜が枝に咲くころは
 違う世界にひとりぼっち生きてる

松田聖子『制服』

 そらで歌詞が打ててしまった。びっくりだ。
 頭の中に完ぺきに歌詞がインプットされているということは、脳が若かったのかそれだけ耳にしたのか。

 それにしても、この歌詞の彼の行き先はやっぱり東京な気がする。
 ど―――うしても東京にいくんだね!

 そう。
 かつては都会の大学に行くのは地方イケメンにおけるモテ武器のひとつだった。それはつまり、地方にある企業ではなく都会のイケてる企業に勤める可能性がある、ということに他ならない。万が一地元にUターンでも、大卒は初任給から違う。都会帰りはまた魅力が増す。将来が有望という証だ。

 これはもう、それから遡ること10年前に流行した「木綿のハンカチーフ」のモチーフでもある。

 「卒業」→「女子は地元に残り、男子は地元を離れる」。

 この先は二手に分かれる。

 ①「友達のままでいる・告白して玉砕する・卒業と同時に別れる(振る)」。
 ②「告白してうまくいって・すでに長年つきあっていて、遠恋」→「別れる(都会の綺麗な女性に囲まれて田舎の女は忘れられ、振られる)」

 結局別れる。うまくいかない。

 この図式が確固としてあるので、斉藤由貴も「守れない約束はしないほうがいい」と「この卒業をもって私なりにこの気持ちにけじめをつける」となり、松田聖子も「どうせ別れるから好きと言わないでおくわ」になる。

 時代が反映された卒業ソング。
 昭和平成初期は「卒業」することと「支配からの解放」「恋愛の終わり」が密着していて、それが定番だったのだなと思う。つまり当時の青春とは「自由への闘い」と「恋愛」そのものだったのだ。

 時代が下って今に近づくにつれ、卒業ソングの多くは闘争や恋愛要素より仲間意識や友情のほうにシフトしている。

 バレンタインデーも、女の子が男の子に告白するためにチョコを渡した時代は遠くなり、今は「友チョコ」が主流だと聞く。時を同じくして「卒業ソング」も、センチメンタルな恋の感傷より、自分が生き辛さを抱えながら頑張った日々や、一緒にいてくれた友達への感謝、励ましや応援の意味合いのほうが優勢のようだ。恋愛は歌詞の一部に出てくるだけになる。大人へはシニカルな視線を向けるだけだ。

 これはどうしてこうなったんだろう、と思う。
 憂いているわけではなく、闘争や恋愛こそ青春と言いたいわけではなく、単純に興味深い。

 個人的な見解だが、結婚年齢が遅くなったことが原因ではないかと推察する。

 1985年ごろはまだ女性の結婚年齢が早く、25歳はクリスマスケーキで売れ残りと言われた時代だった。

 当時、女子は高校を卒業するとかなりの数、就職をした。

 そうなると、恋をしていられるのは高校までで、卒業したら本格的に結婚に向けた相手を探さなければならなくなる。その際、同級生の男子はたいてい進学をしてしまうので、結婚相手にはならない。もしくは、相手が大学を卒業して就職をするまでの間、相手をつなぎ留める必要が生じる。

 就職をして社会人となっているのに相手の卒業を待つのは結構リスキーだ。相手が既定の年数で卒業するかどうかも、ちゃんと就職するかどうかもわからない。社会人となった自分には、お見合いの話だってくるし、すでに仕事をしている経済力のある男性との出会いも多い。自分のチャンスを横目に彼を待っていたら、タイムリミットは刻々と近づく。

 社会人と学生ではそもそもの価値観がズレるのも必至だ。

 そんなリスキーな恋愛、それが特にスマホもない時代の遠距離恋愛だとすれば、最初から告白などしないで「まあ、いい思い出にしよう」となっても仕方があるまい。

 つまり昔の女子は高校時代から「結婚」を視野に入れて恋愛をしていたということだ。高校時代が恋愛のピークだとすれば、必然的に恋愛に対する比重が高まっていたのではないか。

 その点、男子はほとんどが進学していたから、女子のような切迫感はない。その時点で男女の間に認識の深い溝がある。

 現在、高卒で就職する女子はぐっと少なくなり、専門学校でも大学でも、まずは進学してから就職をするのが圧倒的多数となった。

 そうすると、恋愛機会は高校を卒業してもあるし、実際問題、自分も都会に行く身になれば、仕事にも夢を持てる。彼と一緒に上京も夢ではないし、そこからが恋愛相手探しのスタートであっても全く遅くない。初婚年齢も初産年齢もどんどん遅くなっているし、なんなら結婚しなくてもなんら不自由はない。
 そうなったら、若い時代に恋愛をする必然性がない。自由なオトナであれば恋愛はいくらでも楽しむことができる(はず、と思いこむ)。

 友達と別れるのは寂しいよ、でも自分頑張ったな、と思いながらなんとなく今日と明日が陸続きのまま卒業して、気が付けば婚活アプリを手にしている人も多いのかもしれない。

 以前知り合った女性が言っていた。

「時代が変わったとか、学生時代は友達と思い存分楽しんでなんて、悠長なことを言っていてはだめだよ。私は娘に学校で相手を見つけるように言ってある。幼馴染なんかは、超~大事。男女参画とか男女平等とか言うけど、私は学校卒業した後なんて、実は昔と大して変わってないと思ってる。出会いは意外とないの。みんなそこのとこ、わかってないと思う」

 飽くまで彼女個人の意見だが、なるほどと思わされるものがあった。

 以前とは違う理由で、再び卒業ソングで恋愛を歌う時代が来ないと、少子化は止まらないのかもしれない。
















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