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Review 3 ビリビリ

 その風景の描写にまず、痺れた。

 空と大地が夜の帳に溶け合う間、私たちを乗せたバイクは砂漠を走り抜ける。いつの間にか、星が瞬いている。ひとつ、ふたつ。銀色の星が詰まった宝石箱をゆっくり開くように、砂漠の夜が更けていった。

 なんて美しい表現だろう、と思う。それが随所にある。絵画を鑑賞するのに鍛錬が必要なように、風景を眺めるにも鍛錬がいる。山に魅せられ自然と向き合ってきた小松由佳さんの熟練の視線は、こんなにも豊かで優しい。

 今回「読書感想文企画」で課題図書の中から、ヤマザキマリさん絶賛、という帯に惹かれて読んだ。『人間の土地へ』。

 以前自分のブログでヤマザキマリさんの『国境のない生き方 私を作った本と旅』のことを取り上げて、その「地球規模の地図を持つ、渡り鳥の人生」に憧れを抱いたと書いたことがある。ヤマザキマリさんのことは「地球人」として大変尊敬している。

 『人間の土地へ』を著した小松由香さんも、あきらかに「地球人」のおひとりだ。読み終えてヤマザキさんの絶賛が改めてわかる。

 2006年の、日本女性初のK2登頂、という大ニュースはよく覚えている。「すごい人がいるんだな」と思ったが、その出来事は物理的にも心理的にもその時の私の人生から遠く、一緒に登攀とうはんした人は恋人なのかな、などという、下世話なことしか考えられなかった。生きて帰ることができないかもしれない場所に、ともに命を懸け、互いに信頼できる相手といったら夫や恋人、親子くらいしか思いつかなかったのだ。世界最高峰のいただきに挑戦するということはチームでの挑戦であって、メンバーは自分で勝手に決めるものではないことを、この本を読んで知った。

 K2での出来事には、最初の何ページかが割かれている。というよりそれしかない。えっ、その話じゃなかったんだ、と思う。驚く。それだけでおそらく一冊や二冊本が書けるだろうに、話はそれから、なのだった。

 物凄い偉業を成し遂げた、その後。その後が、何重もの意味で凄まじい。

 思うに小松さんは「生きて帰れないかもしれない」という思いで山を見つめたことはないのだろう、と思う。冷静に計画を練っている時や現実的に危険な状況の時、ふと頭をよぎることはあったかもしれないが、山がそこにあって、山に行こう、と眺める時には絶対にそうは考えない人なのだ。常に「死ぬかも」ではなく「行きたい」と思う。焦がれる。

 それは山以外でも、きっとそうなのだ。「できないかも」「失敗するかも」とは考えない。「行けるなら行く」「やれるならやる」。チャンスさえあれば、それがなすべきことと腹を決める。そして生と死の天秤があれば絶対に「生」にベットするのだ。

 小松さんは「K2」後、植村直己冒険賞を受賞した。いくつかの山に登った後は、登山家としての人生を選ばず、写真家として生きることを選んだ。山よりも、山の麓で暮らす人間に興味が向かったのだという。そして砂漠へ向かう。

 砂漠は山に似ているのかもしれない。過酷で人を拒絶する。条件によっては住むのも許す。小松さんが心惹かれるのは、「剝き出しの自然の中で生きる人々」だ。小松さんは写真家になるべく旅を続け、いつしか同じ土地に毎年通い始める。同じ土地―――シリアの砂漠に。

 ここからの展開はドラマや映画を超える。ページをめくるたびに繰り広げられる事象は小松さんしか経験のできない、稀有な体験に満ち満ちている。

 異国で、生活環境も宗教も食べ物も価値観も何もかも違う人と惹かれあう。劇的だ。しかし彼女は決して自分自身を見失うことは無い。「恋に落ちた」とか「彼の世界に飛び込む」といった情熱とは距離を置く。その儚い気持ちを大切にして、山に「また来るね」と言うようにその思いを自分の内部に引き入れ、そしてまた山に会いに行くように彼の住む地に行く。おそらく最初のころは、互いに好きだとも言わずに。彼は土地そのもので、土地と彼は引き離すことができない。山を愛する彼女にはそんなことは自明すぎる自明なのだ。

 小松さんの筆致に甘さはない。でもこれは明らかに超弩級の愛の物語だ。

 なんてカッコいいんだ。

 そんな小松さんだからこそ、異国の人々が宗教の違いや民族や国の違いを超えて、彼女を愛し、守ってくれるのだなと思う。

 しかし彼との関係も、彼の故郷とのつながりも、全く容易ならざるものだ。小松さんが体験したのは「蹂躙の歴史」と「紛争」そのもので、政治と歴史に翻弄される国と人と土地の中で、彼女自身もどんどん巻き込まれていく。古代の遺跡のある、中東の、アラブの、激動の地で。

 強く印象に残っていることがある。いずれ小松さんの夫となるラドワンさんの兵役中に反政府運動が起こり、いよいよ自分の身内に銃を向けなければならない状況が現実になりそうになったときのことだ。彼は決死の覚悟で隣国ヨルダンに逃れる。しかし難民としての生活があまりにも辛く、結局は危険を承知で本国シリアに戻ってしまった(その後も紆余曲折波乱万丈があるのだが)。

 人間として生きるとはどういうことか、ということを小松さんは問いかける。過酷な状況から命からがらのがれ、難民キャンプにたどり着いてほっとし、「命は保証されるのだからいいだろう、まさか死ぬかもしれない恐ろしい弾圧の場所に戻りたいとは思うまい」と誰でも思う。私もそう思った。

 しかし、最低限の食事だけを与えられて、難民キャンプ以外には行くこともできず、あらゆる「自己決定権」がない、自由が全くない上に仕事もその後の展望も何もない、という状況は果たして「生きている」と言えるのか、と小松さんは問う。短期間ならその解放の日を目指して耐えることができるかもしれないが、それがいつまでとは誰にも言えないのだ。

 ところで、急に話が変わって申し訳ないが、朝の連続ドラマ「おかえりモネ」が最終回を迎えた。今回の朝ドラは、主人公百音ももねが、気象予報士として新しい事業を起こす話だった。

 だいぶ前のことだが百音が東京で仕事をしている時、百音の元上司で彼女が気象予報士を目指すきっかけとなった気象キャスターの朝岡覚あさおかさとし西島秀俊にしじまひでとし)が、たまたまモネを訪ねて来たモネの父親(内野聖陽うちのせいよう)に、なぜか突然自分の胸の内を話しかける場面があった。他局のドラマで同性パートナーを演じたことのある2人とあって、印象に残るシーンだ。

「僕は転勤族の家庭で育ち、土地に対する気持ちがわからない。危険な土地なら離れてしまえばいいだろうと言う考えがあった」

 朝岡はそう告白する(言葉は記憶によるものでその通りではない)。この言葉は自分が天候悪化を予想しながらも甘さから徹底した周知を行えなかったがために大きな被害が出てしまった経験を憂いたことによるものだったが、その基本的なところにそうした「土地への執着が理解できない」ということがあった、という場面だったと記憶する。このシーンは別の意味で強烈な印象を私にもたらした。

 震災の時、私は外国にいた。そのころ知り合った人と原発の事故の話になり、東北には知人が沢山いるから心配だと話すと相手は言った。「なぜ引っ越さないのかわからない。命の方が大事だ。あなたも知り合いなら、早く逃げろ、引っ越せと言うべきだ」と。

 私はその言葉に違和感を覚えたが、何も言えなかった。それは知人が決めることだから、とは言ったかもしれない。「危険なら逃げる」という人にも背景がありそれもひとつの考え方だ。

「なぜ引っ越さないのか」「なぜ危険と知って戻るのか」その答えは当人にしかないが、しかしおそらくは「生きる」ということと直結しているから、なのだと思う。ただ生存することだけが「生きる」ということではない、と言うことだと思う。

 私はあの時その人にそう言いたかったのだ、と、この本を読んで思った。先祖代々の土地、家、墓所、仕事、コミュニティすべてが土地に密着していて、「生きる」ということと「土地」が不可分である人がいる。土地を離れることがそう簡単には行かない人もいる。土地を離れたら本当の意味で生きられない人がいるんだと思う、と。

 紆余曲折の末、小松さんの彼も、その家族も、ほとんどが国外に出て難民とならざるを得なかった。それは何十年もかけて築き上げた彼らの世界の崩壊だった。彼らの魂の危機だった。その本当の意味を、国も宗教も異なる私たちは知ることはできないのだと思うが、小松さんの体験を通してその端緒に触れた以上、断腸の思いで難民となった人々に思いを馳せたいと思う。

 「同じ地球に住む人間として分かり合おう」と言うは易い。小松さんは「わかり合えないことこそ、理解した方がいい」という。多様性というのはすべてを受け入れることを指していない。たとえ受け入れがたくても相手の信条を尊重することは容易くはないが、本来それが多様性を尊重すると言うことだ。今の日本には言葉だけの「多様性」が独り歩きしているような場面も多々あるのかもしれない。それを考えさせられたのは、小松さんと彼が日本のお寺で講演をしたときのエピソードだった。双方譲らず気まずくなる。これを回避する、あるいは緩和する方法を工夫していくほかはないのだろう。

 最後にもうひとつ、印象に残ったことがある。小松さんがイスラムの家庭の中の女性の住まいに入ったところだ。これは非常に興味深かった。

 神坂智子さんという漫画家さんは多くのイスラム社会を舞台にした漫画を描いている。主に歴史に基づく架空のお話だが、紀行文やエッセイの漫画も多く、若い頃よく彼女の漫画を読んだ。しかし現代のイスラム女性が普段どのように生活しているかについては、すべて読んだわけではないのでわからないが、ほとんどなかったように思う。だからずっと、イスラム社会で女性がどんな暮らしをしているのか、どんなふうに感じているのか、知りたかった。

 しかも小松さんが潜入(?)したのは、都会のイスラム女性ではなく、ベドウィンの血を引く砂漠の民の一族だ。これはなかなかないことだろうと思う。小松さんはアジア人とはいえ、現代の西洋文明を享受している人間として当然な疑問を抱く。イスラムの社会は女性にとって生きづらくないのか、と。男に隠され、外に出られず、活躍もできない、自由もないではないか、と。しかし彼女たちは家庭を守ることが幸福だと答えた。

 男たちが小松さんに決して政治的な本音を語らなかったように、女たちもまた、正直ではなかったのかもしれないし、もしかしたら男性と同じ様には教育を受けられず、情報から遮断され、自分たちの生活に疑問を持つこともなかったのかもしれない。

 真実はわからないが、小松さんは彼女たちの心をありのまま受けとめる。そうね、この社会では、そうなのね、と。しかし自分はやはり、とても彼女たちと同じ暮らしはつとまらない、と。

 現在、シリアは政府の弾圧や反政府運動などの激化によって国民の半分以上が家を失うような事態で、多くが難民となり、苦難を強いられている。

 小松さんはたとえ土地を失っても、人が「土地」となって引力となることを願い、本書を結んでいる。これまではテレビのニュースを見ても「どうしてこんなことが起こるんだろう」「歴史が」「政治が」「国際社会が」と相当他人事だったが、この本を読んでからは「小松さんの旦那さんの故郷」という若干知り合い気味なリアリティが生まれ、「小松さんと旦那さんの家族が大変だ」という、やたら具体的な心配へと変わってしまった。小松さんが果たす役割は大きい。遠い出来事と敬遠する話を「知り合いの話」に近づけ、私たちの心を引っ張る。

 この本は、外国人の伴侶を持つ方の、ほのぼのすれ違いエッセイなどとは一線を画す、痺れるほど硬派なメッセージに満ちている。少しでも状況が好転することを祈りつつ、次の小松さんの本を待ちたい。

 













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