見出し画像

願いごと

 このところ毎週楽しみにしている番組がふたつあります。

 ひとつは大河ドラマ『光る君へ』。
 もうひとつが『リー研』、書きのたね@ブルボンヌさんのスタエフのライブ配信です。

 ひーさん(ユハコさん)との掛け合いも絶妙なこの番組、なんとテーマは「スピリチュアル」。
 どれほど楽しみにしているかというと、火曜日の12時には確実にスタンバイしているくらい楽しみ。毎週火曜日が来ると「今日、リー研だ」とそわそわするくらい、楽しみ。

 他にも楽しみにしているnoterさんのスタエフがあるのだけれど、このたねさんのスタエフは毎週必ずライブ配信、というのが嬉しいです。昼休みに聞けるように設定されていて、12時~13時の間の40分ほどの時間帯が私には聴きやすく、最近はほぼ皆勤賞になっています。
 たまに、昼に配信ができないときなどに、その日か翌日の夜にゲリラ的に「Barリー研」が開催されるので、そこも逃さないように気をつけてます(でもこれはたまに逃しちゃいます)。笑

 なにがそんなに魅力なのか。
 スピリチュアルがそんなに好きなのか。

 確かに、夜のリー研では酔っぱらいながらカードを引いてくれるたねさんは魅力的なのだけれど、それだけではないんですね。
 とにかく語りが上手い。トークがとてもいいんです。
 スピリチュアル系のスタエフやYouTubeはいくつもありますが、その中で突き抜けて「開いている」のがたねさんのスタエフだと思います。
 開いている――ウエルカム度が高い。

 たねさんは、noteもそうなんですが、さすが接客業が長いとご自身で仰る通り、トークが内輪で閉じてないんです。たねさんのnoteを見れば一目瞭然なのですが、コメント欄の賑わいが凄いです。

 たねさんと同じように驚異的なコメント数を誇る千世さんのnoteもそうなのですが、ただ面白いだけじゃなくて、なんだかコメントしたくなってうずうずしてしまう文章を書かれるかたのnoteはやはり独特です。その雰囲気が、そのまま、スタエフに現れている感じ、といえば伝わるでしょうか。

『リー研』では確かにスピリチュアルなことを語るわけですが、スピリチュアル濃度は濃いめの時と薄めの時があります。私はスピリチュアルは好きですが、どっぷりは好きじゃないのです。日常の中に程よく取り入れたいタイプです。そんな手合いにも優しく、聴き手リスナーがどんなスタンスでも受け入れて、なおかつ、双方向にやり取りして楽しい気持ちにしてくれるたねさん。凄いなと思います。

 えーさて、どうしていきなり『リー研』の話をしたか、と申しますと、前回のリー研は「Barリー研」で、そこで私が選んだカードが「願いが叶う」という非常にいいカードだったんです。
 たねさんが言うには、「主語は自分にして、願望を語ってください。紙に書いても良し」「なんなら、もう願いはかなった、という体で書くのがよし」「ムリかも、なんて耳かき一杯分も考えてはダメ」と。

 はいはいはいはい!と心の中でせっかちに返答して、鼻息も荒く大急ぎで「願いごと、願いごと」と考えたわけです。
 が。
 主語を自分にして願いごとをするって、意外と難しい、ということにハタと気が付いてしまったのでした。

 みなさん、願いごとって、すらっと、さらっと出てきますか。

 世界各国に類話がある『三つの願い』という民話をご存じでしょうか。フランス、イギリス、エストニアなど、いろんな形のいろんな話がありますが、『長靴をはいた猫』でおなじみのシャルル・ペローのものが有名なようです(シャルル・ペローの童話集の中のタイトルは『愚かな願い Les Souhaits ridicules』)。
 『ペロー童話集』は、ペローがグリム兄弟やマザーグースよりも前に民話を蒐集し、わかりやすく(少々教訓的な)童話を作って童話集にしたもの。

 『三つの願い』は、大雑把にいうと、超自然的な存在に願いを3つ叶えてあげるよと言われた夫婦のお話です。民話では、商売はきこりだったり料理やだったり。夫婦は普段言い争ってばかりいる「意見の一致をみない」夫婦だったり、願いごとが叶うと聞いて急に欲張りになり、ケンカになってしまう夫婦だったりするのですが、ペローの場合は貧乏なきこり夫婦がローマ神話のジュピター神に出会う話のようです。

 「せっかくだからよく考えなければ」と言っている間に、目先の願望(「ソーセージが食べたい。どうせなら1本が長ーいやつにすればお得なはず」)に最初の質問を使ってしまい、それを責めた妻に怒った夫がとっさに悪態(「お前の鼻にくっついてしまえ」)をつき、結局はそれを取り消してもらって3つの願いを使いきってしまうきこり夫婦。

 子供のころは、なんだか理不尽な話に感じていました。
 神さまには「今のはナシ」というのは通用しないらしい、とも思いました。とにかくそんな機会が自分に訪れたら、よーくよーく考えて願いごとをしなければ。元の木阿弥みたいなことは嫌だ――そう思っていました。

 そうだ。
 全部の願いを、ひとつの文のなかにぶっこめばいいんじゃない?
 接続助詞「て」を使えば。

 家族や親せきが健康で安全に暮らせて、息子の学業がはかどって進学就職結婚もうまくいって、夫の仕事がうまくいって、なんかどっかからお金が舞い込んで、本づくりが上手くいって本が誰かに好きになってもらえて吉穂堂やフリマで買ってもらえて、戦争や諍いが終わって、災害が無くなって、みんなが笑顔になって、世界が平和になりますように。

 ハァハァ・・・これ願いごと何個計算??
 息子の将来の就職結婚まで含めてるし。
 世界平和って、誰にとっての平和が正解?誰かに都合がいいことは、誰かにとって都合が悪いことになるよね??災害が無くなるというのは宇宙の道理的にちょっと無理じゃ・・・
 あっ。ムリって思っちゃった。 
 耳かき1杯より多い、というかむしろ壮大に思っちゃった。

 ・・・
 ・・・
 とりあえずまずは気持ちだから!

 それでもって、これを主語「自分」にするんですよね。

 私は――
 私はですね――

 あれ?

 私は――

 「私」の部分は本のところくらいだけど、それだって「誰かにしてもらって」成立することだから――

 そうだそうだ。
 たねさんが「誰かのことでも、誰かがそうなると私が嬉しい、という感じにすればいいんですよ」と言ってたはず。

 家族や親せきが健康で安全に暮らせて、息子の学業がはかどって進学就職結婚もうまくいって、夫の仕事がうまくいって、なんかどっかからお金が舞い込んで、本づくりが上手くいって本が誰かに好きになってもらえて吉穂堂やフリマで買ってもらえて、戦争や諍いが終わって、災害が無くなって、世界が平和になって、みんなが笑顔になって、私はとても嬉しくて幸せです。

 ペローは童話の最後に、分別の無い人、そそっかしい人、心配性の人、ころころ意見の変わる人などは願いごとをするのに不向きで、願いごとを使いこなすことができない、という教訓を付け加えているのだとか。
 つまりは、せっかく幸運を得る機会に恵まれても、それを活かす知恵がなければ無用の長物、ということです。

いやそれ、私な。

「ひとつの文章に全部ぶっこめば」は、完全に「1本の長いソーセージ」。

 そして思いました。
 願いごとを考える、ということは、考えること自体がとても幸せなことで、幸せだから考えることができるのだと。
 今、もう、自分は幸せなのでした。
 きこりの夫婦と同じです。

 ま。そうはいっても、せっかくの機会です。
 どう考えても欲張りな願いは、オーダーとして相応しくなさそうです。そこで、絞り込んでこんなふうに願ってみることにしました。

 私は、本を作って、吉穂堂やフリマで、noteで知り合った人や私の本が好きになってくれた人と会うという素晴らしい体験をしたいです。

 どうでしょう。いいんじゃないでしょうか。
 なんだかいまからもうメッチャ叶うような気がしてきてます!!
 きてますきてます!

 スピリチュアルというと捉え方は人によってさまざま、いろいろな考えがあるけれど、まあ何はともあれ楽しむのが正解、と私は思っています。

 自分にとことん都合のいい願いごとを考えるのは、とても楽しいことなのよ(☜『光る君へ』のまひろ=吉高由里子の口調で)。



 早速、また新しい巻が届きました――

今回は入稿がスムーズだったうえに
装丁の出来が良いとサトちゃんに褒めてもらった逸品














この記事が参加している募集

noteでよかったこと

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?