0843.愛情という幻想を実体に顕現させるために
「おかあさん、おれ、ボウリングに行ってみたいんだけど」
「いいよ? 行ったことなかったっけ?」
「うん」
「じゃあ夏休みになったら行こうか。いつからだっけ」
「木曜日から。木曜日、おかあさん仕事?」
「うーんどうかな。仕事はあっても午前中に終わらせるから、午後からは遊べるよ」
「じゃあさじゃあさ、毎日午後から遊ばない?」
「そうだね、今年の夏は毎日遊ぼうか。うん?去年は遊ばなかっけ?」
「遊ばなかったよ」
「去年、わたしなにしてたんだろ」
「おかあさん、仕事してたよ。仕事部屋にずっといたよ」
「そうか……」
そうかも。そうだったかも。
8月は休む!遊ぶ!って決めたとしても、なんだかんだと仕事をしていたような気がする。もう子どもたちもそれほど手がかからないし、「仕事してるから」と部屋にこもってしまえば、あえてそこに踏み込んでくることもない。
仕事が楽しい、仕事が大好き、仕事のことだったらいろんなアイデアが思い浮かぶし。そう、わたしはこんなにもはたらくのが好きなワーカホリック気味の女なんです。と、自分のことをそっちよりに定義づけていた。
でも、わたしの意識がここ数年とはちょっとちがうんだ。
仕事は……べつにしたくないとは思わないけれど、今年は比較的行動制限がゆるくなったタイミングもあったので、いろんなところに行って楽しかったその余波が残っているのだろう、なんだか子どもたち(といってもうたちゃんは受験生なので、かんくんと、だけれど)といっぱい遊びたい気分なのだった。
ボウリングに連れて行ってあげたこともなかったのか、わたし。ダメじゃん。
でも彼は小2のときから土日は一日中野球づけの環境で生きてきたので、それこそ夏休みとかお正月とかしか一緒に遊んだりはできなかったんだよね。かつ、わたしは会社員だったわけだし。
だからあまりレジャーをした記憶がない。
いかにわたしはスムーズに仕事に専念できて、彼らをうまく学童なり児童館なりよそへ預けるなりして、言い方は悪いけれど「厄介払い」して、スッキリと自分の時間が確保できるか。それだけが、長年のわたしの最優先事項だった。
仕事をする。やりがいのある、スキルと才能を活かせる、わたしらしい仕事を。そしてお金を稼ぐのだ、という世界観。
わたしはなにをやっていたのだろう。わたしはなにがしたかったのか。
かんくんをボウリングに連れていってあげよう。野球の応援をたくさんしよう。受験生のうたちゃんはいつも遅くまで塾にいるので、リビングで灯りをつけて待っていよう(彼女は怖がりだから)。おいしい夜食もつくっておく(彼女は食いしん坊だから)。部屋には花を飾って、ハチが帰ってきたらちょっとお酒を飲みながら、つまみながら、いつもの会社の愚痴を聞いて、毎日同じネタで笑ったりしよう。
たぶんわたしは仕事に生きているのではなく、さりとて子どもや夫のために生きているのではなく、そんな「〇〇のために」、なんていう陳腐なくくりにおさまらないくらいの大きな大きな宇宙と自然と人類の織りなす壮大なタペストリーの、ほんの1ミリくらいの場所で、日々を営んで、生きて、生きて、そしてそのときがきたら死んでいって、それでいいのだと思う。
三砂ちづる先生の女性論・男性論は、解剖生理学的な視点でもなくフェミニズムの視点でもなく、女性の身体を十全に生きてきたひと特有の、匂い立つような官能の力と柔らかでしなやかな生活者であり学者であるという軸がある。
上野千鶴子先生の後継者はいっぱいいそうだけど、三砂先生のこのプリミティブな論調で男女について書けるひとは、他には見当たらない気がする。
おお、ボウリングの話がまた壮大に……笑。
これを読んでくださっている、おそらく良いひとであろうあなた(笑)の日々の営みも、どうか愛しいものでありますように。
明日から夏休み!ダー!あんにょん!
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