見出し画像

伝えない表現

 他人に、わかってもらう必要のない表現がある。それは純粋に自分のためだけのものだ。伝えようという努力はそこには必要なく、ただただ自分が追及する世界をどこまでも探って行く。それはとても孤独な世界で、ものすごく孤独な作業だ。

 表現するというのは、もともと自分のためにだけ行うものだ。自分だけが見ていたパーソナルな作品が、他人の目に触れられて、作品を重ねていくにつれ、自分意外の視点を得たりして、だんだん作品がその人から離れてゆく。自分も自分の作品を客観的に見て作って行く事になる。公共性が生まれる。関係性が生まれる。もはや表現は、表現者のものではない。
 そういう表現は仕事になる。人と人を繋げる役割をはたし、人の中に何かを残す。
 
 しかし、伝えない表現は、人にわかられることを避ける。わかってほしくない表現なのだ。自分だけがわかっているべきものなのだ。他人に安易に語られたり論じたりされたくない。
だから、大体そういったものは、難解で、よくわからなくできている。
 それで、わからない、などと感想を言うと、頭が悪いな、などと言われたりする。彼の作品は、彼の頭の中をわかるくらいこちらが努力して近づかなければわからないものらしい。
 しかし、それは不可能で、たいてい煙にまかれて、なにがなんだかわからないままなのだ。
 私はずっと、こういう手合は、プライドが高くてバカにされるのが一番イヤで、何かケチをつけられないように、わかりにくさの鎧をまとっているのだと思っていた。
 しかし、実はそうではない部分もあるのかもしれないと、考えはじめている。
もちろん、そういう部分も多少あるとは思うが、公共性をもたせない代わりに、特別な意味をまとわせ、わかる人にだけ気付く暗号のような言葉でやりとりすることはわりにポピュラーだ。誰か勘違いして、わかってしまった解釈などをすると、また、すっと離れる。
 永遠に中心には近づけない円運動のようなものだ。そうやって何か特別なものを共有したいという欲求。決してわかりあえない、わかりあいたくない関係性の中にある空虚なもの。
 ひたすら自分の中の世界を追及する事で、知りようもない他人の世界は宇宙の彼方ほどに遠い。安易に"いいね"がつく世界とはまるで違う。

表現なんて、伝わらなくても、いいやん。
だって、これは自分のためのものだから。
自分だけが知っている世界のことを、
自分にだけわかるようにかけばいいんだ。
好きにすればいいさ。
自分が喜びさえすれば。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?