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「今」という時間の価値について『ナビレラーそれでも蝶は舞う』

Netflixで配信されている韓国ドラマ「ナビレラ-それでも蝶は舞う」を完走。
全16話と思い込んで観ていたら全12話だったので心の準備なく最終回を迎えてしまった。

ともあれ、とにかく泣いた。特に最終回。
先日「マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜」で号泣したばかりの私だけど、「ナビレラ-それでも蝶は舞う」でも激しく感情を揺さぶられ涙が止まらなかった。


このドラマは、スランプに陥っている23歳のバレエダンサー  イ・チェロクと、バレエへの憧れを捨てきれず70歳にしてバレエを習い始めるシム・ドクチュルの絆と成長の物語だ。
設定を聞いただけで良い話になりそうな予感のするドラマだが、期待に違わず温かく優しい気持ちにさせてくれる物語だった。


さて、この作品で心打たれたポイントは2つあって、ひとつは、ドクチュルの夢を諦めない姿勢。これはドクチュルとチェロクの成長をベースに描かれる。
もうひとつは、年老いていく親とそれを見守る家族の葛藤。特に、ドクチュルと彼の長男ソンサンの関係が印象的だ。
そしてこの2つのポイントの根底にあるのは、生きる上で最も貴重な「時間」という資源についてのドクチュルの想いだ。

その辺りを中心に、「ナビレラ」の感想を綴っておこうと思う。



1. 人生における後悔は「やったこと」より「やらなかったこと」

70歳のドクチュルは、40年間郵便配達員として勤め上げ家族を養ってきた。
好きなことをする余裕などなく、生きるためにただがむしゃらに働いてきた彼は、友人の死をきっかけに、幼い頃からの憧れだったバレエに挑戦することを決意する。

ところで、死ぬ時に後悔することは「やらなかったあれこれ」だというのはよく聞く話。きっと劇中のドクチュルも同じような思いだったに違いない。70歳の彼は自分には残り時間が少ないことも重々承知しており、これが最後のチャンスだと思い至る。


それにしても、ドクチュルはとても魅力的な人間だ。
特にドクチュルの人に希望を与える力がすごい。
それは彼の年の功でもあると同時に、ドクチュルという人間が持つすばらしき資質、つまりは人に対する愛情とか思いやりがベースにある。

また、彼が人に希望を与えることが出来るのはドクチュル自身が希望を持って生きているからに他ならない。それに加えて、強い好奇心と情熱。そして諦めないという強い意思が周囲の人々を変えていく。

この、愛情深いドクチュルに最も助けられたのが、もう一人の主人公チェロクだ。
類い稀な才能を持ちながらも、様々な事情を抱え思う通りにバレエに打ち込めないでいたチェロク。彼が再起したのは、ある日突然現れた「バレエを踊りたい」と懇願する老人、ドクチュルとの出会いがきっかけだった。

まったくのバレエ初心者で、世話好きの老人であるドクチュルをうるさく感じていたチェロクだが、彼のバレエに打ち込む姿を見てあることを思い出す。
それは「踊りたい」とう情熱。

一方のドクチュルは、夢を追いかけるために、孫ほどの年齢のチェロクと正面から向き合い謙虚に学ぶ。そしてその姿勢がチェロクの心を溶かし、結果としてチェロクを正しい方向へ導いていく。
ドクチュルにとてチェロクは師であり、チェロクにとってドクチュルはメンターだった。



さて、このドクチュルとチェロク。
年齢のみならず、見た目にも凸凹で相入れるところはなさそうに見えるけど、交流を重ねるうちに心が通じ合っていく。というより、ドクチュルがグイグイとチェロクの心に入り込んでいくという感じ。自分の持つ強みで相手の弱さを支える二人の補完関係は、ある意味理想の人間関係。

どちらかのためだけではなく、双方が「高く舞うため」にお互いを思い合い、切磋琢磨していく姿に心動かされないわけがない。


個人的には物語が進むにつれ、チェロクがドクチュルを「ハラボジ」と呼ぶ度に、そしてドクチュルが「チェロク!」と明るく叫ぶ度に、二人の深まる絆を感じ、それだけで胸が熱くなるというか、涙が出そうになってしまった。

そして、ラスト、成功したチェロクとドクチュルの再会シーン。
これは涙なしでは見られない。ドクチュルとの出会いによって羽ばたくことができたチェロクの凛々しい姿と、体が覚えていたバレエのポーズで迎えるドクチュルの姿。

視聴者が観たいと切望した、そして、二人の絆の強さが最大限に描かれた、とても良いシーンだった。


2. 年齢とともに逆転する親子関係が緩やかにせつない

ドラマの世界では、「自分の夢を叶えたい子供とそれを反対する親」あるいは「親の期待や価値観に押しつぶされそうになっている子供」が自分の意思で道を切り開くという設定が定番だ。


が、このドラマでは立場が逆転している。
「自分の夢を叶えたい親とそれを反対する子供(家族)」「子供(家族)の反対に自分の夢を実現すべきか葛藤する親」が、自分の意思を貫くという構図だ。

世間一般における幸せな老夫婦像といえば、夫婦で旅行をしたり、孫たちに囲まれてニコニコと暮らすといった感じ。ドクチュルの子供たちもこの価値観に違うことなく、両親には人並みに幸せな老後を送ってほしいと心から願っていた。

しかし、ここには盲点がある。
それは子供達はだれも老人になったことがないということ。

たとえば、親が子の価値観を押し付けることができるのは、自分に子供だった経験があるからだ。その行為(価値観の押し付け)が正しいかどうかは別として、経験値をベースに提案すること自体は合理的と言える。一方で「老人の経験」がない子供たちの老人の幸せに関する価値観は、ただの想像でしかない。老人が本当は何を望んでいるか、世間一般の常識をベースにするしかないのが現実だ。

そういう意味では、親が子に価値観を押し付けるのと、子が親に価値観を押し付けるのでは事情が違う。
子供達は「老人の幸せ」について当の老人である親以上に知っているわけではなく、「親の心子知らず」とはちょっと意味と使い方が違うけど、「親の希望子知らず」ということなのだと思う。



さて、70歳のドクチュルは、子供たちが期待するいわゆる世間一般の老後を望んでいない。新しいこと、しかも老人が始めるには身体的負担が大きくリスクのあることに挑戦しようとする。それは子供の頃かの夢だったバレエダンサーになること。死ぬまでに一度「空高く舞いたい」と切望している。


はじめは大反対していた家族(特に長男ソンサン)も、ドクチュルの熱意と決意の固さに折れることになるのだが、ここで強く感じたのは、子供というのはいつまでも自分の中に「理想の親像」を持っているのだなということ。

どんなに年老いても、自分の親にはいつまでも昔のままの親、つまりは自分を守り育ててくれた強い親、尊敬できる親でいてほしいと思っている。親の人生なのだから、親としての責務を果たした後は親の自由であっていいはずなのだが、誠に勝手ながら、子供にとっては、いつまでもどこまでも、僕・私のアボジでありオンマなのだ。


実際のところ、ドクチュルは子供達の心の拠り所としてその役割をずっと果たしてきた。それは年老いた今も変わらない。

長男ソンサンが会社で窮地に立たされた時のドクチュルの言葉にそれが表現されている。

お前には野手の私がついている


これは、野球好きだったソンサンが子供だった頃にドクチュルに言い聞かせた言葉に由来する。

おまえが投手で父さんは野手だ
お前がヒットを何本打たれたとしても 何も心配することがはない
父さんがしっかり守っているから
お前がマウンドを降りるまで父さんがいる
だから絶対に諦めるんじゃないぞ



ソンサンにとって父とは「いつも後ろで見守ってくれる」存在だった。

しかしサンソンは、そんな父がアルツハイマーを患っていると知り強いショックを受ける。
夜遅くまで連絡のつかないドクチュルを探し、闇の中でじっと座っている彼を見つけたソンサンが、父ドクチュルを抱きしめ涙ながらに言う。

父さんは僕にとって いつまでも高い山だ

それを絶対に忘れないで


この場面では涙が溢れて止まらなかった。


この一件で、ソンサンは父親が「尊敬の対象」から「守るべき存在」に変わったことを静かに悟る。

親子の立場が逆転していくのは年を重ねれば避けられないこと。
悲しいけれどそれは誰にも止められない。
時はこうやって親子の関係を変えていく。

緩やかに、そしてせつなく。


3. 「時間」の価値に思いを馳せる

70歳でアルツハイマーを抱えるドクチュルにとって、肉体的限界を迎えるまで、そして記憶を失うまでの持ち時間それほど多くはない。
だから焦っているし、なんとしても「高く舞いたい」「やり遂げたい」という決意をしている。

ところで、「若さ」に価値があるとされるのは、肉体的な若さもさることながら、人生の持ち時間が多いからだ。
しかし、当の若者がそれに気がつくことは簡単ではない。なぜなら、「若い頃の時間」は失ってみて初めてその価値がわかるものの典型だからだ。
だからこそ、70歳のドクチュルの言葉は重みがある。

たとえば、チェロクの同級生でサッカーの夢を絶たれ、やさぐれていたホボムと、ドクチュルの会話にもドクチュルの「時間」への想いを感じる一言がある。

「サッカーのプロテストを受けるには、まだ準備できていない」と慎重な姿勢を崩さないホボムに対して、ドクチュルが言う。

私の経験で言うと 完璧な状態は一生来ない


そうなのだ。
「ちゃんとできるようになってから」「準備ができたら」などと言っていたらいつまでたっても始まらない。

そもそも「完璧な状態」にするのは何のためなのか?

恥をかかないため?
それとも先延ばしにしたいがための言い訳?

どちらにしても、この尻込みは有限である時間を無駄にする。
前に進むためにまずは一歩踏み出すこと。これに勝る進歩はない。
模索しながら前に進むのが正しい道の歩き方なのだ。
そうしなければ、人生の持ち時間なんて、あっという間になくなってしまう。

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ところで、チェロクの恵まれた体格とほとばしる若さの対比として、白髪・顔に刻まれたシワを持つドクチュルの姿も、ある意味「時間」を表現していると思う。

つまりはドクチェルの体や顔には時間の経過が刻まれ、同時にそれが彼の残り時間の少なさを物語っている。
だからこそ、「今、この時」の価値が浮き彫りになる。

最終話のラストに、ドクチュルが、またはこの作品が伝えたかったことが、韓国語字幕でメッセージとして視聴者に届けられるが、そこでも同じことが語られている。

지금도 늦지 않았습니다
일흔의 덕출이 그랬듯 당신도 할 수 있습니다
(訳)
今でも間に合います。
70歳のドクチュルがそうしたように、あなたにもできます



このメッセージ然り、ドクチュルのように「今すぐ行動」することこそが本当に大切なことなのだと思う(と、ドラマ鑑賞後自分に言い聞かせている)。
人生で一番若いのは「今、この瞬間」なわけで、だからこそ「今から始める」のが最善なのだ。

 
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最後に俳優陣について。

チェロクを演じたソン・ガンのバレエシーンを観て、あまりの完成度の高さにバレエダンサーが俳優にチャレンジしているかと思ったが、そうではなかった。役になりきるために重ねたであろう彼の弛まぬ努力が映像からヒシヒシと感じられた。

それにしても、恵まれたスタイルとルックスが際立つソン・ガン。
このドラマで初めて彼を知ったけど、ソン・ガンが出演するNetflix作品「恋するアプリ」「Sweet Home」近々チェックしてみようと思う。

そして、やはりこのドラマの鍵はドクチュルを演じたベテラン、パク・インファンの演技の素晴らしさ。ソン・ガンの演技が光るのも、パク・インファンの存在があってこそ。ドクチュルの愛すべきキャラクターがあってはじめて、チェロクの魅力が引き出されていると感じる。

また、「マイ・ディア・ミスター」からの「ナビレラ」だったので、「マイ・ディア・ミスター」でパク常務を演じたチョン・へギュンが、長男ソンサンで出演していたのは個人的にはツボだった。

ベテランががっちり脇を固めたこのドラマ、見応えありの良作です。


*こちらはマイ・ディア・ミスターの感想です。



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