喫茶ランドリーから公共性と建築論を掘り下げてみる(商店建築連載の雑記②)
5月より雑誌「商店建築」にて、連載「商業空間は公共性を持つか」が始まった。
色々な人にインタビューを行い、商業空間が公共的になる意義と方法を考えていく予定だ。
6月号は「喫茶ランドリー」の運営者の一人である田中元子さん(株式会社グランドレベル代表取締役社長)にお話を伺った。
雑誌「商店建築」2020年6月号 p212-213掲載
「喫茶ランドリー」は言わずと知れた公共的な商業空間のトップランナーであり、このテーマの連載をやるなら、避けては通れないパイオニアだ。
グランドレベルに着目し、自分たちの視点でできるお手製の公共性「マイパブリック」を掲げ、喫茶ランドリーにて日々実践を重ねられている。
01. 具体的な空間から公共性を議論する
雑誌紙面では空間の具体的な設えに話題をギュッとフォーカスした。
6月号に限らず基本的には建築空間を連載の主題にするつもりだが、それには理由がある。
公共性をデザイン分野で議論すると、どうしても善意と善意の交換のような、ウェットな話で終始してしまうことが多い。
もちろん、関係者の個性や参加意識は大切だし、それを向上させるための参加型のデザインはとても重要だ。
しかし、その視点から議論を続けると空間の話がどんどん後退してしまう。最低限のスペースと家具、そしてヒューマンリソースさえ揃えばどこでも公共的になるという結論は、建築設計の立場からすると生産的とは言えないし、現実もそんなに雑ではないと思う。
また、建築空間とヒューマンリソース・地域文化では、刻むタイムスパンが全く異なる。
建築空間の更新スパンは30~60年程度でそれほど偏差はないが、ヒューマンリソースや地域文化は数百年単位で持続することもある一方、ものの数年で消え去ることもある。有能な運営者が突然いなくなったら全く機能しない空間、地域文化が衰退したら新築でも壊さなくちゃいけない建築は、資源の有効利用という意味でも肯定しがたい。
タイムスパンとリスクの異なる建築空間とヒューマンリソース・地域文化はキッチリ分けてから議論を始めるべき、と僕は考えている。
喫茶ランドリーも、田中元子氏のカリスマ性で成り立っていると思われがちだ。
確かに元子さんはすごい人だが、それとは別に喫茶ランドリーには空間デザインの工夫がいっぱいある。
建築空間にできることは限られている。でも少ないわけではない。
喫茶ランドリーの空間的工夫は、今後公共的空間を目指す商業空間にとって重要なはずだ。
02. 喫茶ランドリーの空間的な面白さとは?
まず、喫茶ランドリーの空間のポイントを挙げてみよう。
①②は連載紙面でも触れたとおりだ。
③は②とも関連している。
喫茶ランドリーは名前こそ「喫茶」と「ランドリー」だが、この2つのプログラムにこだわりがあるわけではなく、異なるプログラムを(分節しつつ)併設することで生まれる効果を期待しているらしい。
そのため、以下の記事にもある通り、喫茶ランドリーの空間は運営者と利用者の采配によって様々な使われ方をする。
喫茶ランドリーは喫茶でもあるし、ランドリーでもあるし、オフィスでもあるし、駆け込み寺でも、結婚式場でもありうる。
(それがなぜ可能なのかは、連載紙面のテキストと図から読み取ってもらえると嬉しい)
④については、喫茶ランドリー店内を彩る数々の物品が関係している。様々なジャンルの本やレコード、家具、オフィス用品からオモチャのようなものまで、色々すぎる物品が店内に飾られている。
物品をエレメントと考えれば、門脇耕三氏のエレメント主義を思い出す空間づくりだ。
エレメントを強調した建築設計は最近頻繁に見かけるが、多くの場合、設計者の美学に基づき洗練されたエレメントを離散的に配置する。洗練されたエレメントと鑑賞者が関わることで、間接的に設計者の美学を奥ゆかしく感じ取る、というのがこのタイプのデザインの仕組みだが、設計者の美学が前提にあるがゆえに、その空間でエレメントとなれる物品は限定されてくる。
一つ一つのエレメントが空間を構成する原子(アトム)であると考えれば、いわば洗練された少数の原子によって構成される「閉じたアトミズム」の空間だ。
一方、喫茶ランドリーのエレメントは一つ一つが全く洗練されていない。
むしろ、元子さんが「わざと平凡な照明を並べた」というように、いずれのエレメントも特定の美学や洗練、ドグマやコード、文脈を避けるように配置されている。そのため「なんとなくどのような物品が置かれても、どのような人が入ってきても良さそうな場所」が出来上がっている。
上記の洗練されたエレメントと比較するなら「開いたアトミズム」を指向した空間だ。
厳密に言えば、特定の個人(元子さんなど)の視点で空間が設えられている以上、完全に「開いた」状態であることはあり得ない。開くことを指向してもその人の個性は回りまわって、言い換えれば逆説的に表出してしまうからだ。
しかし、「閉じたアトミズム」と「閉じているが開いた状態を指向しているアトミズム」では大きく異なる。
事実、喫茶ランドリーのエレメントはその時々で動的に変更されており、常に「開いた状態」になるよう運営者によって調整(元子さんの言葉を借りれば「チューニング」)を行っている。
そういう意味では、喫茶ランドリーは「閉じていないアトミズム」と言い直すべきかもしれない。
⑤はより公共性論に近づくハイコンテクストな話になる。
元子さんのマイパブリックは、既往の公共性論と比較すると、とても面白い。
以降は「03. My PublicとPrivative Public」では⑤のマイパブリックについて、「04. 行動と行為」では②の行動と行為について、掘り下げてみよう。
03. マイパブリックとPrivative Publics
元子さんはマイパブリック(私設公共)を説く。
これは、上から与えられた公共性に期待せず、我々自身が自分でお手製の公共性をそれぞれ作り、それを重ね合わせて都市全体の公共性にしようという考え方だ。
この引用からも分かる通り、元子さんは公共性の理想実現を(ある意味、そして良い意味で)信じていない。
理想的な公共性という実現からほど遠い夢より、アイレベルであることや実践可能であることに重きを置く。
では、次にアレントの引用を見てみよう。
アレントの公共性論はいわば形而上学、つまり「世の中の成り立ちを俯瞰するように推察し確からしい概念体系を示す」思考方法に基づき、ある理想的な公共性(上の引用では「出現の空間」が該当)のあり方を説く。
それに対し、元子さんの公共性論は形而上学に基づかない。
それぞれの人が見たものこそを確かなものとし、個人の範疇から超越する領域にはあえて触れない。メイヤスーやハーマンから言わせれば「相関主義的な公共性論」とも言えるかもしれない。
他方、元子さんがインタビューの際「顔が見える」ということを強調しているのも印象的だった。
要約すると「顔が見える時点で誰もが公共(的)なのだから、個々人それぞれが公共性(マイパブリック)の最小単位」ということだ。
これは以下のアレントの指摘に符合する。
公的領域、つまり公共的空間のポテンシャルを持つ領域の条件は「見えること」であるとアレントは述べる。
人の顔や行為が見える、だからこそ公的領域は公共的になり得るし、互いの自由を認める公共的空間になるべきであるというのが趣旨だ。
この視点で考えると元子さんのマイパブリックはアレントを正当にフォローしている。ただし、公共性の大枠を捉えるにあたってアレントは(自身の批判の対象でもある)俯瞰的な視点に基づき形而上学的に論じるのに対し、元子さんは徹底して自身の視点の可能性と限界にシビアだ。
そう考えると元子さんは、アレント以上にアレントに原理主義的な気もしてくる。笑
ここでもう一つ、別の指摘を加えたい。
前の引用のうちの「個人が作る私設公共=マイパブリックは、「みんなのもの」という責任を負わない。作り手本人がよかれと思うものを、やれる範囲でやる。」というところに再度注目してみよう。
前述の通り、元子さんの公共性論は理想的な公共的空間がワンパッケージで実現することを期待していないし、理想的な公共的空間であることを主張するいくつかのパブリックスペースに疑念すら感じている。
この「公共性は私的視点から作られる不完全なものであり続ける」という概念は、改めて「プライベイティブ パブリックス(Privative Publics)=欠如した(私的)公共」と表現できるのではないだろうか。
My PublicをPrivative Publics=私的公共であると改めて定義してみる。するといくつかの面白い点が見えてくる。
一つは元子さんが私的領域と公的領域の二項対立にあまりとらわれていない理由が見えてくる、という点だ。
私的領域の生活でも、誰かの目にはとまることはあるし、その時点で何かしらのMy=Privative Publicであると元子さんは論じる。
マイパブリックを改めてPrivative Publicsという語義矛盾とユーモアを含んだ言葉に置き換えてみると、元子さんのマイパブリックは私的/公的を横断する概念であることが分かる。
また、この公共性論(Privative Publics)は僕がCAP(Club Alt. Publicness)で展開する公共性論=Alternative Publicness論(AP論)にも通じるところがある。
(詳しくは以下の過去記事、雑誌掲載内容を参照)
商店建築2020年5月号p256-257にもAP論の概要掲載
AP論では、不完全な公共圏(Alternative Public=AP)が無数に重なることで、総合的に公共性が実現される社会を想定している。
それぞれのAPは不完全である在り方こそが個性であり、個々人は様々なAPを移動することで、人や文化、資源、公共サービスにアクセスする。
元子さんが論じるマイパブリックとすごく近い概念だ。
一方、マイパブリックとAP論は以下の点で異なっている。
僕としては喫茶ランドリーのように高次元な実践がなくても、もっと素朴な人間の関係性(もしくは関係しうるかもしれない潜在的な公共性の状態)から公共性を認めていきたいという気持ちがある。
そのためAP論はあえて大風呂敷を広げているつもりだ。
(潜在的公共性については、下の記事内「06. 別の展望:「潜在的公共性」を蓄積する都市」を参照)
04. 行動と行為
連載紙面でも述べた通り、喫茶ランドリーは自由な「行為」を発生させるために「行動」を巧みに利用している。
この話を掘り下げるにあたって、まず「行動」と「行為」を改めて定義しよう。
このように、社会から規定され、定められる動作やふるまいを「行動」と呼び、自由意思による自由な「行為」と対置して説明される。「行動」の意味は幅広く、いわゆる僕らが思い浮かべるような行動というよりは、礼儀作法や労働、身だしなみなど、文化や社会、空間によって定められていることを強調している。
よって、改めて以下のように行為と行動を再定義してみる。
商業空間における一連の経済活動も行動の一種だ。
入店し、商品を選び、レジに行き、購入し、店を出る。決まった動線に従い、決まった動作を繰り返し行うこと、つまり行動によって商業空間は出来上がっている。
一方、「行為」との対置からも分かる通り、「行動」は公共性には反するものとして捉えられることが多い。
公共的空間は各々が自由に「行為」できることを目標としているので、社会によって規定され支配される「行動」は人間の自由な意思を反映していない、とされるからだ。
ここでもう一つ、斎藤純一の「公共性」から以下のテキストを引用する。
つまり、行動は必ずしも行為を妨げるものではなく、行動と空間という反復し再生産され定められたものの上に自由な行為が発生するということだ。
また、このテキストが面白いのは、行動と空間をセットにして扱っているという点だ。
確かに行動は人間によってその都度行われるものなので、空間のように安定して存在するものとは異なるものに思える。しかし、反復され再生産され続ける、自由意思の介在しない定められたものであると捉えれば、「行動」は常に、そこに、個々人の意思に関わらず、ブレることなく存在するものとして、空間と一緒にセットで考えることができる。
この点、喫茶ランドリーは商業空間の「行動」を上手くデザインし、自由な「行為」の発生につなげている。
例えば、コーヒーを注文するためにレジに行くという「行動」が、レジの周辺にいるスタッフやランドリーのお客さんと話すキッカケを与えてくれる。話をしなくても、スタッフがしている作業がチラッと見え、なんとなく互いの理解が深まったりする。
僕も伺った際、レジ近くでスタッフの人と話し込み、祖母の郷土料理のイブリガッコを購入した。
(その他にも様々例はあるが、そこは雑誌紙面を見てもらいたい)
ところで、この「行動」から生まれる「行為」は、喫茶ランドリーに限ったものではない。
喫茶ランドリーほど意図的に洗練されたデザインとして「行動」があるわけではないが、特定の商業空間をフィールドワークすると、自然発生的に生まれた「行動」→「行為」が数多く発見される。
この画像は、僕が所属する川添研究室の学生と一緒にやった商業空間のフィールドワークの一部だ。
「行動」によって支配されているように見える商業空間も、よくよく見てみるとイレギュラーに発生した「行為」にあふれている。また、それらの「行為」は偶然発生しているのではなく、平面的もしくは断面的に見れば、空間・「行動」からの影響関係を描くことができる。
もちろんそれらはあくまでイレギュラーな「行為」なので、中にはその商業空間にそぐわないものも存在するが、洗練させれば喫茶ランドリーのように、さらに自由な「行為」を発生させることも可能だ。
(空間と行動から発生する、普通より自由な行為という意味で、上の研究では「Ex.行為」と呼んでいる)
05. 商業空間とパースペクティヴ主義
「行動」と「行為」からさらに、深掘りという名の脱線をしてみよう。
スペインのコルドバという街にメスキータという寺院がある。
有名な観光スポットなので知っている人も多いかもしれない。
この寺院の特徴はなんといっても「イスラム教のモスクでもあり、キリスト教の教会でもある(ついでに観光客が自由に入れる観光スポットでもある)」という、このご時世では考えられない両義性だ。
写真:筆者撮影
メスキータは長い改修の歴史を経て、上記のような不思議な状況を成立させている。
ここで注目したいのは、メスキータがイスラム教にとってもキリスト教にとっても不足のない空間であるということだ。イスラム教のモスクだからキリスト教が我慢しなくちゃいけない部分があるというわけではない。というのも、平面図で見るとキリスト教の教会はメスキータのちょうど中央に位置しており、教会がちゃんと尊重された平面計画になっているからだ。
メスキータ平面図(青枠が教会部分)
引用元:https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/45/96/85/src_45968502.jpg?1477141874
では、イスラム教が我慢している部分があるかというと、そうとも思えない。
メスキータは床が大理石の部分とレンガの部分があるが、大理石の床部分、つまり膝を着いてイスラム教のお祈りをしやすい場所に限ってみれば、ミフラーブ(メッカに向けて空いているモスクの中心的窓)の軸線が中央を通っている。
実際、アイレベルで空間を体験すると、列柱空間により見通しが悪いというのもあり、平面的に中央にあることよりも大理石の床の中央にあるということの方が印象に残るし、床に膝をつけてお祈りをする作法が伴えばなおさらだ。
メスキータ平面図(白抜き部分が大理石床、青線がミフラーブ軸線)
引用元:https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/45/96/85/src_45968502.jpg?1477141874
つまり、メスキータにおいてイスラム教とキリスト教が一緒に存在するのは、物理的空間をシェアしているからではなく、全く異なる空間・世界(への視点)と行動(作法)を享受し、享受した空間・世界と行動を前提に行為をしているからである、ということになる。
その結果、メスキータにおいて神仏習合のような宗教の合成は怒っておらず、イスラム教はイスラム教、キリスト教はキリスト教でしっかり分かれて併存している。
視点が異なれば、同じ物理的空間にいても全く違う世界を享受する、これはパースペクティヴ主義や多自然主義に類似する実感だ。
ここでE・ヴィヴェイロス・デ・カストロの「食人の形而上学」から下のテキストを引用する。
カストロによれば、アメリカ先住民は人間と動物の魂や精神には違いはなく、むしろその器である「身体」によって独自の視点(パースペクティヴ)が生まれると捉えている。
また、西洋由来の多文化主義とは異なり、視点とは関係のない外的自然や物理的実体があるとは考えず、そもそも自然すらも、もしくは物理的な実体という観念すらも、視点によって異なってくる多自然主義=パースペクティヴ主義(≠多文化主義)こそが、アメリカ先住民の存在論である、と論じている。
カストロの込み入った議論をこの一節のみで網羅するのは不可能だが、
このテキストを参考に、上で述べたメスキータの議論を建築におけるパースペクティヴ主義の一つとして再構築することは可能なのではないだろうか。
カストロにおける「視点・身体」はメスキータにおける「(空間への)視点・作法(もしくは宗教における文化)」に対応させ、「自然」を「空間・世界」に対応させることができる。
それぞれが持っている身体=作法・文化によって、自然=空間・世界への視点が異なる。
結果、イスラム教徒とキリスト教徒では物理的空間という視点(これもそもそも視点の一つとして回収される)では同じでも、享受する自然=空間・世界は全く異なり、
別々の空間に断絶されつつ共存するというビジョンが浮かび上がる。
このようにパースペクティヴ主義的に建築を捉えなおすと、冒頭の喫茶ランドリーにおける「喫茶でもあるし、ランドリーでもあるし、オフィスでもあるし、駆け込み寺でも、結婚式場でもありうる」ということの理由が見えてくる。
喫茶ランドリーに訪れた人は、それぞれの目的(喫茶、ランドリー、オフィス・・・)に合わせた行動をとる。
すると、彼らはそれぞれ全く別の視点から喫茶ランドリーとそこにある関係性を捉え、同じ場所でありながら全く別様の空間に浸る。
そして、その中でふと、別の行動・空間を享受した人と隣り合わせになる機会があり、そこを起点に全く新しいコミュニケーションが生まれることもある。
商業空間が行動を自由自在に利用し、
複数多数の空間・世界を同時併存的に埋め込むことができれば、
資本主義的かどうかは関係なく、商業空間にある種の潜在的な公共性を実現することができるはずだ。
[お仕事の依頼や相談は下記連絡先まで]
nishikura.minory@gmail.com
MACAP代表 西倉美祝
ウェブサイト : https://www.macap.net/
インスタグラム: https://www.instagram.com/minoryarts/
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?