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私はひねくれ者

ひねくれ者!
この言葉の存在をすっかり忘れていた。
長年海外に住んでいる上に40を超えると、時々長いこと使っていない言い回しや言葉が日本語ですぐに思いつかなかったりする。
最近久しぶりにこのnoteでどなたかが書いた文章でこの言葉を再発見した。

そして思った。

そう!
私こそが真のひねくれ者じゃん!
と。

私は夫にだけは、素の自分をさらけ出す。
そして彼が聞かなければいけない私の心の闇は、深い。
というか醜い。
私は他人をそう簡単には信用しない。
とてもいい人そうな感じの良い人なんかは、絶対に下心があるんじゃないかとか、「感じの良い自分」に酔っていたいだけじゃん、とか、感じ良すぎてなんだか気持ち悪い、とまで思うことがある。
良い行いをしている人たちなんて実は、他人に自分は善良な人だと思ってほしいだけ。自分が気持ちよくなりたいだけ。偽善だ。結局はすべて自分のためだけにやってるんだ。人間と言う生き物に、というか生き物すべては真に他人に良かれと思って何かを成しえることなんてできないんだ。
生き物すべて、結局は生き残りたい本能でこの世に君臨しているわけだから。

多分、本音ではそう思っている自分がいる。

こんな風に思うのは、自分がそうだからなんだと思う。
私は人当たりが良く(しているつもり)、表面的には優しい人のように振る舞っている。会話ではなるべく相槌をうち、共感の感想を述べ、一緒に笑う。あなたは物静かで優しい人だね。と何度も言われたことがある。

でも実は、上に書いたような感情が心の中でギトギトしている。
そして優しくみえるのは、人に自分の悪口を言われたくないからだ。
面と向かって言われても思いっきり落ち込むし、陰口を言われてもすごく傷つく。私は人に自分の悪いところを指摘されたり、口論したりするのが滅法苦手だし怖い。怖いので、目立たないようになるべくいい子でいるように心がけたし、勉強も親や先生に文句を言われないようにがんばったし、仕事も欠点を克服しよう(または隠そう)と必死でがんばった。自分とその他大勢の間に壁を作って自分を守った。そして気の強そうな、自分が傷つくようなことを言ってきそうな人が近くにいたら、ほぼ本能的になるべく自分が下手に立った態度をとり、ヘラヘラしてその場を凌いだ。

いやあ、ひねくれてるなあ。

そうやって乗り越えてきた人生を狂わせたのが、子育てだと思う。
だって子供はどうしたって親の思い通りには育ってくれないから。
コントロールできない小さなヒトが、自分の日常に突如出現して、私の壁が揺らぎはじめたわけだ。
こんな私に、よく今まで子育てができたな。
我ながらよくがんばっている。うんうん。

今までの自分の人生の中で、どんなに醜くても自己中心的でもお門違いでも要点が逸れていても、自分の思っていることをギャーーっとぶつけられるのは夫だけだ。
なぜなら、彼は(私を含め)人にどんなに嫌なことを言われても、私みたいにどん底まで凹まない。これでも落ち込んでるんだぜ、とは言うが、態度には全く見せないし、かなりケロッとしていることが多い。
何週間も落ち込んで、ぐるぐる、ぐるぐる言われたことについて思い悩んで、なかなか立ち直れなくなる私とは全く無縁の強さがある。その強さに、私は今も昔も憧れる。

あ、でも夫もかなりひねくれてるところもある。
そこらへんは似た者同士かもしれない。
それとも人間、みんなそうなんだろうか。

ちなみに先週末に書いた甥っ子の誕生日会では、なんとあの苦手な甥っ子が私に、叔母さんちょっときて、レゴ見せてあげると言ってきた。そして成り行きで一緒にレゴ作りをすることになったのだが、何年振りだろう、あの子のことを可愛いな、と心から思えたんだ。
ここ数年、どうしても可愛くなくて、好きになれなかったことにかなり罪悪感を感じながらもやっぱり嫌いだった甥っ子くんだけど、少しだけの間だけでもちゃんとした叔母さんになれた気がしてほっこりした。
こんな大人げない叔母さんでごめんよ。

皆さん今日もお疲れ様でした。
おやすみなさい。

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