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学校

学校を卒業して、数年が経つ。


あの頃を振り返ると、何故か偏った記憶ばかり思い出してしまっていた。

だから、あの頃の記憶と自分にもう一度向き合ってみることにした。

あの頃は、当然のように早起きをし、学校にいく日常で、
相当のカロリーをそこで消費していた。

当時はそ学校での時間が重くて、
1秒1秒をがむしゃらに、そして精一杯に過ごしていて
思い返せば、
どの言動も幼稚で、すごく危なっかしくて、それでも慎重で、、、

失敗や反省がばかりだ。

一見、中身のない充実した青春だったようにみえるし、
ついこの前まではそうだと思い込んでいた。


そこでの時間は、そんな個人の青春の記憶とともに、
どこか足がつかない。
そんな感覚を持っていた。

勉強は苦手で、授業もよく居眠りをしていたけれど、
そこに劣等感を抱いたことはなくて、

多すぎる人数で群れることは得意ではなかったけど、
個々で話すとたのしいもので、
友達や先生とも仲それなりに良くやっていて、

だけど、いくつもの自分の感性が勝手にかかるストッパーのせいで、言葉にして伝えることをしなかったり、

学生という肩書や制服というお揃いの布に分厚く守られていることに、
心から安心しつつ、社会や大人に対して憎たらしく文句をいったりもしたけど、
学校という箱から抜け出したい、いや、まだここにいたい。
なんて、反抗的でわがままな無知とは別に、
学校という小さな社会とのリズムの合わなさを、

そっと、そっと、

感じていたんだと思う。多分。


勉強みたいに知識を入れることが嫌いなわけではない。
人と関わり、小さな役職を得たり、その中にいること苦痛なわけではない。
学校という、分厚く守られた存在が悪いとも思わない。

ただ

自分とのリズムが合っていなかった。


苦手な部分を理解されることはなくて、
ここには当たり前だけど人しかいないわけで、個々の態度や視線、言葉の矢が行き交う。

親や友達からの少しの期待と、複雑な視線と希望を浴びたりもして、
そこで生まれるギャップに追い付けない心に蓋をした。


こうやって向き合ってみると、やっぱり思春期の個人に思えてきたり


1つ言えるのは、

その合わないリズムは、卒業して、社会に出ても変わらなかった。



普通が何かは分からないけど、
普通に働いて、普通に遊んで、
それなりにストレスがありながらも生きたかった。


このリズムに合わせられないわけではない。

けど、そこにいる自分は永遠に嚙み合わない違和感と共に、
空中を歩いているのだろう。


だから、あの頃から将来の夢は、

自分の存在できる居場所を見つけること。


どれで、とりあえずパスポートを持って飛行機にのったんだ。



こうやってもう一度むきあうと、少しずつ自分の辻褄があうものですね。

あおむしははらぺこ より

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