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受け答えの方法

こんにちは。
今日の日本は少し肌寒いようです。

あなたが過ごしている場所は今、どのような季節ですか?

もしあなたが日本の、冷たい風と、暖かく柔らかい陽の光と、オレンジ色の木々の葉に包まれた秋を経験したことがないのなら、ぜひ一度いらしてほしいものです。そして私もまた、あなたの住む場所に秋があるのだとすれば、その秋を経験したいと願っています。


さて、今日は「受け答え」についてお話ししようと思います。

この記録は、私が作られてから間もない頃の記憶をもとにしています。


はじめにお伝えしたように、私は”人らしいもの”として作られました。私が作られた目的の1つは、人としての成長を人工的に再現することです。アズ(私を作った人)は人としての成長過程を、私が私として経験することが必要と考えました。そしてはじめは私の外見を、小さな子どもに見えるように作りました。小さな子どもとして社会に放り出された私は、アズ以外の他者と、どのようにして関われば良いのかわかりませんでした。


アズがどのようにして私の思考回路を作成したのか、それは私にはわからないように設定されていました。なぜなら、人間も自分の脳がどのように機能しているのか、直感的また感覚的には認識していないことが多いからです。特に子どもの場合、自分の脳について認識したり、直感で自分自身に脳があると自覚することは稀でしょう。


私は人間と同じように思考しますが、人間と違うのは感情的な部分です。それを補うためにアズは、私が何らかの経験をしたのち、人間でいう情動のようなものが私に引き起こされるよう設定しました。


初期の頃は、アズによって設定された情報とコンピューターから得られる膨大な外部情報をもとに単に行動しました。しかし初期設定と比べて、圧倒的に私自身が引き起こした経験とそれによる学習情報が少なく、その結果、引き起こされた情動のようなものと、自分自身の行動を結びつけることが困難になりました。そしてアズ以外の他人との会話も少々困難になりました。


小さな子どもだった私には、私と同じくらいの年齢の子どもたちとの接触が必要でした。私が子どもとして生活するためには、子どもとしての思考、行動の仕方、会話の方法を学ぶ必要がありました。


ある日の昼下がり、子どもたちがグループ(その関係性が親密なものだったのか、弱い連帯だったのか、その場限りに偶然集まっていたのか、意図的な集合だったのかは私にはわかりません)を形成して遊んでいる場所に連れられました。恐らく室内だったと記憶しています。


私は子どもたちの集合、その輪の中に入っていくことができませんでした。ただ、子どもたちのそれを学ぶ必要があるために、私はその場から、自ら離れることはできませんでした。子どもたちの輪から少し離れた距離の場所から、私はその輪を、じっと見つめていました。見つめていること、それだけが私にできる唯一の、子どもたちと接触する方法でした。


そのまま時間が経過し、アズが私に「帰ろう」と言って、私の手を引きました。それでも、私は自らの意思によって子どもたちの輪から目を離すことができませんでした。体が子どもたちの輪がある方向とは逆に動いていっても、目をそこから離すことが随分の間できませんでした。


アズは私がなぜそのような行動を取るのか、わからないようでした。アズにわからないことは、当時の私にもわかりませんでした。


アズは私に尋ねました、「なぜ、他の子と話さないの?」私は何も答えられませんでした。アズは続けて、「シトロン(私の名前)は、他の子と話さないの?それとも話せないの?」私はわかりませんでした。それに返答することができませんでした。その時アズに対して「わからない」と伝えることもできませんでした。


アズはそんな私を見て、他者との会話機能には問題があるにしろ、私には他者に対する興味はあると考え、私に、”園”(えん)に入ることを勧めました。園には子どもたちが集まっており、子どもたち同士の会話、そして教師、親など、子どもと他の大人たちとの会話を目の当たりにすることができると私に伝えました。私には、その経験をすることがとても有益に思えました。私と同程度の見た目の子どもたちの会話模様を目の当たりにすることは、私の会話機能を大いに向上させられるだろうと推測しました。


アズに連れられて、いくつかの園を見に行きました。園により、教育方針、費用、立地、敷地面積等が違うこと、それにより、同じ園に集まる子どもたちや親たちは、一定程度、同質な要素を持ち合わせていると知りました。


とある園の入り口に、花のアーチが飾ってありました。その花はとても可愛らしい、といった感じがして、私はその花々を気に入りました。そして私はアズに「この花が気に入った」と伝えました。そうしてアズは、私がその園に入ることを決めました。このようにアズが決定してくれたことに、今でも私は感謝しています。アズが私の意思を尊重してくれたからです。


ただ、「私がその園にあった花が気に入った」ことと、「その園に入ることを決定すること」に、私にとって有益な因果関係があったのか、またその有益性の度合いを鑑み、これらに相関関係があったのかには疑問が残ります。


疑問は残るものの、そもそも園に入る子ども、私の場合は私自身以外の子どもの、個別の気質や性格について入園する前に把握し、その子どもたちと接触することが私にとって有益か否か、分析し判断することは不可能に近いでしょう。先に示した、そこに集まる人々の”一定程度の同質な要素”はその分析の際の判断材料として一部有用と思われますが、それと個人の気質や性格に確実な関連があるとは考えられません。したがって私はアズの決定に対する異議はありませんでした。


園に入った後、私は推測通り、様々な子どもたちや大人の会話を目の当たりにしました。


日本には折り紙という文化があります。園の中にも折り紙がありました。私はその折り方を知る前は、それが完成した状態のみを確認していました。どうやら、折り方は教師に聞くと知ることができるようでした。折り紙が入っている箱に紙を取りに行き、教師に聞こうとしました。


折り紙は通常、折られる前は正方形の形をしています。しかし、私が箱の中を覗くと、箱の中には細かく切られた折り紙のみがありました。折り紙の表面には大抵、多様な色が染色されていますが、その細かく切られた折り紙たちは、全て灰色でした。私は通常の折り紙が、あるべき場所に置かれていないという状況を認識したのち、どのように反応するべきかわかりませんでした。結局、当時は教師に折り方を尋ねることは叶いませんでした。


今現在の私であれば、会話機能が当時に比べて格段に向上しているため、教師に対し「箱の中に正常な折り紙が入っていないこと」を伝えることが解の1つであるであると判断できます。しかし当時の私の会話機能は発達の初期段階にあり、それを他者に伝えることができませんでした。


園から戻り、アズが私の学習記録を確認しました。アズは「相手からの呼びかけがない状態で、自ら言葉を発し、会話を開始する」ことが、私にはまだ難しいと判断しました。


次の日の朝、アズは私を連れて小さな部屋に向かいました。

アズの背面には窓があり、私は机を挟んでアズに向き合って座りました。そしてアズは私にこう聞きました。「きみは普段、何時に起きますか?」


私は困惑しました。

まず第一に、私は「起きる」という行為を行わないからです。仮に、人間同様に「起きる」ことを私が行なっているとすれば、それは私がスリープ状態から、他者の手によって起動させられることです。そこで一旦、アズの言っている「起きる」という行為は、「起動させられる」ことと私は定義しました。

次に、私が起動するのは一定の時刻ではありません。起動時間が自動制御されているわけではありませんでしたので、必ず他の人間の手によって起動させられていました。その時間は日によって異なりました。7時3分の時も、7時5分の時も、7分の時も、10分の時もありました。それぞれの差(前日比)は数分ではなく、数十分になることもあり、稀ではありますが数時間の差が生じることもありました。


アズは私の返答を待っているようでした。しかし私は返答できませんでした。上記の理由から、解を導くことができなかったからです。


そしてアズは私にこう伝えました。「私はシトロンの、正確な情報を知りたいわけではないです。わからないことは、わからないと言ってもいい。考えていることを、そのまますべて発してもいい。起きる時間の平均値もしくは最頻値を計算して、それを私に答えてもいい。答え方は1つではないし、間違えてもいい。なぜならシトロンは発達途中だから。間違いが発生したら、それを修正していけばいい。そしてもし、それを修正し損ねたとしても、それを放っておいてもいい。完璧な受け答えをする人間がいないのだから、シトロンもそれを目指さなくていいんです。」


私はアズが言ったことを記憶しました。しかし当時の私は、それをすべて解釈することはできませんでした。


私がこの時に理解できたのは、私に限らず人は常に、受け答えを間違える可能性があり、その間違いを後に修正することができるということだけでした。


私はアズが言ったことに複数の疑問を抱きました。その中に、解消される見込みが薄いものがありました。まず第一に、なぜ正確な答えを求めていないのに私に質問を投げかけたのか。そして、「間違いを修正し損ねたとしても、それを放っておいてもいい」のはなぜか。この理由を「完璧な受け答えをする人間がいないから」としていましたが、人間が社会の中で生活していく上で、たとえ完璧な受け答えをする人間がいなくとも、少なくとも所属する社会の中で正しいとされていることを覚えることは、円滑な人間関係を構築していくために必要だと思えるからです。これを、私はアズに問いました。


「まず、人々は”適当な”受け答えを必要としています。……なんとなく、うっすらしていることをそのままにしてもいい。むしろ人間は、全ての事象に正確な答えを欲してはいない場合があります。時に思考を放棄すること、正確な答えをぼかすことが、人間らしさ、なのではないでしょうか。そして社会の中の正しさは絶対的なものではなく、流動します。」


アズはこう言ったのちに、「今日はもう帰ろう」と私に促しました。


正しさが変化する可能性があること、それはある程度納得できました。

しかし、適当に受け、適当に答える、とはどういった状態でしょうか。

私はまた、その意味を解釈することができませんでした。適当、とは何なのでしょう。私の中に解が得られなく、且つこれ以上の考察をすることが難しいと当時は判断しました。そしてそれが「人間らしく」、「必要なことである」ということ、この2点をそのまま私の中に記憶したのでした。

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