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2022/02/20「いい」はどこだ。展

 初めて、友人達と4人で展示を行った。今回、展示をやってみて何が面白いかというとそれぞれが今回の展示に対し共通の「いい」をもっていない(展示の内容や表現したい事はちゃんと4人で吟味して共有してます)。
だから説明をするにしても4人それぞれの意見での説明なので、整合性がない一味違う展示になっていたと思う。
それが楽しかった。
そんな中でここでは、私の見解での展示について思っていたことや感じたことを語っていけたらと思う。
時間のある時に読んでみてください。


展示について

今回の展示のテーマは「いい」についてだ。

「良い」、「好い」、「( ・∀・)イイ!!」だったり「~がいい」、「~だからいい」みたいななんとも曖昧な表現だ。しかしこれを「感じたことがないよ」という人はいないだろう。誰しも必ず感じたことがあるはずだ。

このテーマで考えようとなった時、咄嗟に頭に浮かんだのは
SNSで流れてくる共有や高評価や保存する機能によって他者の「いい」と思っているものあるいは感じているものを〈自己の感性の棚〉に飾っており「あの人が言っているあるいはオススメしているからこれはいい」と感じているのではないかという疑問であった。

少なくとも幼い頃の私は、私の「いい」を持っていたはずなのだ。成長と共にマジョリティが正義の社会生活の中で何者でもない私たちは、ひっそりと自己の「いい」をそっと胸の内に仕舞ったり、周辺コミュニティの強者の「いい」に挿げ替えたりして、いつの間にか自己の「いい」を見失っているそんな感じがした。

今回の展示は、私の「いい」はこれだ!と問いかけるよりも私自身の「いい」を模索し考える展示になっていたと思う。


媒体

私への問「同視」

写真を光沢紙、マット紙、画用紙、トレーシングペーパー、デジタルディスプレイと来場者自身の目とデバイス7種の媒体をもって見比べる、反射しているもの、絵画のようになっているもの、映し通すもの、表情を変えていくもの。
私がみている「いい」と隣人がみている「いい」は本当に同じものを捉えているのだろうか?
物事を進めるときそこには必ず他者が居る。
その人と私は同じように「いい」と捉えていたのだろうか?
正解不正解はないが、どうしても気になる。
私の世界で感じる「いい」という不明瞭で形容しがたい感情はどこまで隣人に伝わるのだろうか?
それを共有できる空間が「いい」なのかもしれない。


価値

私への問「変化」

どこにでもあるボルトやナット、河川敷の草むらを掻き分けたって出てくる安価な物。
これが置かれ方や敷物、付属品や光源による
演出で価値を変えていく。

だが、誰から見ても価値が変わるわけではないようだ。
演出を仕掛けた側の私からみたらこれはやはりホームセンターに売っているボルトでナットだ。
そこから私は疑問を持った、
実は価値を変えられなかったのはボルトやナットではなく私自身なのではないかと。
私の認識により知りすぎたモノの価値を固定化しているのではないだろうか?では、演出による価値の変化はどうやって起こるのだろう?
「モノの真価」は何なのだろうかと。どうすればこれを「いい」と感じるのだろうかと。
時間が経った今なら少し答えが出せるかもしれない。
価値に対し、「盲目」であること。
私はボルトとナットに対する一般定義化された価値を知り過ぎていたのかもしれない。
それにより価値の変化が分からなかったのしれない。
あるいは知り過ぎたことで「盲目」になっていたのかもしれない。
盲目は「いい」を感じるためのスパイスなのかもしれない


生活

私への問「実態」

みんなが同じもの使ってる大量生産、大量消費の現在。特別を表現するには周囲と違いをつくり、何かになるしかないのかもしれない。
確かに豪華なもの、スペックの高いものを身につければ何だか自分も特別になれたような気がして高揚する。
ただ、ただ私には「日常」であるはずの並べられた彼らがハイブランドに成っているように感じた。幻想、憧れ、高機能を大衆の形にした大量生産品こそ欲しかった個性を具現化した強大な個性なのかもしれない。
では、「いい」と感じるのはどこなのだろう?
やはり、貪欲な私は特別がほしくなる。
画一的個性に「いい」を感じる為に考える。
ああ、たぶんこれを身に付け日々生活をすることで、
古く、汚れ、破れ、壊れていくことで、
大量生産、大量消費の彼らは大衆の為の「いい」から
私の為の「いい」に実態を変えるのではないだろうか?
まさに「日々是好日」だ。

明日も私は大量生産、大量消費の彼らを身に付けて「いい」生活を営むのだろう。


物語

私の解「固形化」

同時期に生まれた産業廃棄物も時が経てば違いが現れる。生まれた状態を保つモノ、汚れるモノ、割れるモノ、修復されるモノ
無作為に組み上げられた群に私の解を与えなければいけない。
それはまるで過去の経験という液体を掬い上げ固体にするように
固体に名前を付けるなら「道」だろうか。

「この無作為な群の中には様々な出入口が存在し、多方向に光明を差し私の進む道を示すがどっちに進めばいいかわからなくなる。
光を構成するこの産業廃棄物群は必要とされ形を与えられたけど、時代と共に役割を終え風化あるいは終了していく。まるで先人達の人生みたいに受け継がれることもあれば忘れられることもある。
儚くも美しい彼らの残骸と私の経験から私はどんな解を出すのだろう。
いや、出せずに朽ち果てるのかもしれないその時、私の骸は後世生きる者の肥料になりうるだろうか?」

いまだ私はどこに向かうか迷走しているこれが私の現時点の「いい」なんだと思う。
これが時を経て霧散し液状となり、また別の固体に仕上がる。この繰り返しで「いい」は変わるのかもしれない。

「歩む道は水のごとし」とはよく言ったものだ。
10年後の「いい」はどうなっているだろうか?


最後に

総じていうなら、ものすごく楽しかった。
この一言に限る。

今までこういったアウトプットはしてこなかったからとても新鮮でまた色々妄想が膨らんでいる(笑)
また、当日来てくださった方々ありがとうございました!
差し入れを持ってきていただいた方やたまたま来た人ともお話しできて楽しかったです。
実は、当初の想定では10人来るか来ないか位の予想が計27人も来てくださって思わぬ予想の裏切りでした(笑)

作品の説明の中で皆さんの「いい」も聞けて視野が広がったし、特に写真については、今迄出したことがなかったので自分の写真が「いい」と言われるとすごくうれしかったです。

次もがんばろうっと

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