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非認知能力(≒姿勢)を身につける(その3)  ー 学びの姿勢

非認知能力(社会情緒的スキル・コンピテンス)にまつわるnoteをいくつか書いてきましたが、僕が大切だ、身につけたいと思っているものは、近しいものはあるものの少し違うのかなとも感じています。

一応、自分の大切だと思っている“モノ”についていう時は、意識して“学びの姿勢” と書いてきました(ブレてるとこもあるかもしれませんが😅)。

いっても僕が大切だと思うのは、指標となるようなスキルではありません。”能力” ですらないかもしれません。

以前のnoteで、非認知能力に類する言葉について書いてみました。そこで紹介した遠藤さんらの“社会情緒的コンピテンス”や、考えるきっかけをくれたJUNさんのnoteにある考え方には、近しいものを感じますし、触発されて考えたところも多いです。

(よくよく考えると参考・引用にさせてもらってるJUNさんのはメンバーシップ記事なのですが、無料記事でもたくさん書かれており、そこにも根っこのとこで通じているものがあるように思います。“子どもに教えたい成功法則““【レジリエンス】「ネガティブ」を利用して成長する方法” )

ただ、僕が思っている“学びの姿勢” というのは、正直なところ人生や社会生活にまで“有用” と言えるかは、わかりません。通信制大学で学んだり、院を考えているのも、そこに自分なりの答えを見つけたいからでもあります。

なので、はなはだ「考えている途中な」ものではありますが、触発を受けて近しく感じているところ中心に書いてみたいと思います。

「学びの姿勢」

 ー 好奇心、“問い”を持つ

一つには、好奇心。育てて伸びる、というような性質のものであるかは疑問ですが、感情的知性(EI)でいう “動機付け(遠藤ら,2017,P16−17)” にも通じるモノがあると思います。また、学校教育で求められているところの“主体的な学び” や “勤勉性”、“グリット(やりぬく力)” なども、好奇心が損なわれずに保てたときに見られる行動の特性(コンピテンシー)とも言えそうです。

加えて、学問や学びというところにおいては、自らの“問い” を持つことが大事なのかなと思います。

たしかに、勉強がつらい作業になることもあるから、別途、“勤勉性” や“やりぬく力” が求められているのかもしれません。ただ、その目標が、本人の望む仕事やそこでの実践からはズレてしまっているという危険性もあります。かといって、目標は小さく区切って立てないと使えません。

実際、「“勤勉性と職業パフォーマンスの研究でも効果量は相関係数で0.2程度,学業成績との関連のメタ分析でも相関係数で0.2程度(小塩,2023)”」なんて研究結果もあるようです。僕も、じつはこの相関係数0.2というのがどういうことかというのは、皮膚感覚ではわかりません。ただ、相関係数は最大は1。小塩さんのnote を読むかぎり、あまり大した値ではなさそうです。

感覚でわかることでいえば、大学を卒業したり、資格を取ったりしたあとに違和感を持ってしまうこと。その仕事をしだしてから、「あの頃、覚えたのは何だったんだろう、、、」と感じることは事実ありますし、この感覚はわかってもらえる人もいるんじゃないかと思います。

一方、自らの“問い” を持った好奇心が満足する、というのはもっと本能的なものに思います。学問での、などと書くと特殊なヒトが持つように思われるかもですが、わかりやすいのは、子どもの「なんで?」「なぜ?」という“問い” です。

問いを持った好奇心というのは社会経済に貢献するものなのか、と言われるとアレですが、子どもの好奇心や“問い”は生まれながらのものです。その好奇心を「正解」ではなく「納得できる答え」で満足させる、そんな、その子だけの方法が身についていることは、その子の人生を豊かなものにすることには、少なくとも貢献することだと思うのです。

遠い将来のこと、だけでなく、その勉強をがんばる道のなかでも。

 ー 受容性、良いとか悪いとか判断をせずに

もう一つ、学びに関わると思う「非認知能力」的なものが、受容性というものではないかと思っています。好奇心に関しては、どちらかというと元々持っているモノだと思いますが、身につけたい能力的なモノとしては、こちらだと。

ここでの受容性の「受容」というのは、臨床心理でいうところの「受容・共感的理解・自己一致」という考え方の一つをお借りしています。これらは、来談者中心療法というのを興したロジャーズが提唱したものです。

何で、「学び」に“受容”性が必要なのか。これについては、僕の経験的な感想で、特に社会科学や人文科学といった分野での話になります。

社会科学や人文科学は、“科学” という「手法」は取り入れていますが、100%を示す「エビデンス」というものは存在しません。つまり、過去にも未来にも、正解のない世界です。

そんな中で、自分の「納得のいく答え」にたどり着くには、いろんな意見とその理由を聞き、触発を受けて考えていくしかありません。

様々な意見と理由、その中には共感できない考えも含まれます。でも、「納得いかない答え」に触れなければ、「納得いく答え」にはたどり着けないのです。変な言い方にしかできませんが。

もとより、共感できる考えだけを受け入れるのなら、“問い” も生まれません。

“受容する”というのは、何でも肯定して承認するというのではありません。反発して無視するのとも違います。学校の勉強でいえば、とにかく教科書を鵜呑みに覚えるのでも、授業を眠ってやり過ごすのとも違います。

言葉にすると「向き合う」が近いような気がします。いっても、言葉で説明されて身につくようなモノでもないとも思います。しかし、必要な態度・スタンスではあります。それは、学ぶことや勉強といったなかだけでなく、生活や仕事で向き合うことになる“問題” にも共通することではないでしょうか。

また、もう一つ、他人の意見と理由のほかに、学んでいく上で受け入れないといけないものがあります。それは、「わからない」という状態や、「間違ってしまったこと」「失敗してしまったこと」です。

“納得いく答え”などといっても、そうそう見つかるモノではありません。書籍や論文を読もうが、エラい先生の話を聞こうが、答えと解説はついていません。でも、それらを取り入れて、自分で考えるから「面白いもの」ともいえます。

「わからない」ということを、“悪いこと“と考えるなら、その状態は不快といえるものになると思います。しかし、受け入れられれば、知りたいという好奇心の素にもなります。もう少し「受容」というものに、僕なりの意訳をするのなら、「良い悪い、正しい間違っている、といった判断をしようとせず、保留して『向き合う』」ということだと思います。

「自分が間違っていた」ということが、“悪いこと”と考えるなら、それを認めるのは“恐い”ことで、自分と違う意見を否定したくもなって当然かもしれません。本当は、“正しい答え”なんて存在しないようなことであっても。

でも、正しいや悪いという基準で見なければ、他人の意見は、本当に「面白く」、刺激になります。

この側面は、非認知能力としても挙げられる“レジリエンス” と同じことなのかもしれません。

レジリエンスも、いろんな要素を含んだ概念(考え方)だそうですが、ストレス耐性のように「歯を食いしばって耐える」というのとは、少し違って、好ましくない状況と思われるときでも、「今は今なのだから、今を過ごす」というようなイメージだと思います(小塩,コトバンク(最新心理学事典))。

(あと、くどいかも知れませんが😅、JUNさんの“【レジリエンス】「ネガティブ」を利用して成長する方法”は是非におすすめです。)

自己効力感などの“自己知覚” や“メタ認知”、“セルフコントロール” といったこと(西田ら,2018)にも、関わってくることなのではないでしょうか。そのときの状況が良い悪いといったことに拘ると、想いが居着いて、“知覚” や“認知” というのにも偏りが生じるものだからです。

おことわりしておくべきこと

好奇心も受容性も、数値化できるものでなく、それでもあえて評価を行うなら「身についているかどうか」「意識しているかどうか」ということになるかと思います。それに、“姿勢” は身についても、時には崩れたりはするものです。好奇心旺盛な人でも、気が乗らないこともあるでしょう。

また、コミュニケーション能力やソーシャルスキルと呼ばれるものは、勉強ではなく学びでもなく、「遊び」の中で培われるものだと思います。コミュニケーションをとらない「遊び」の中で、創造性や感性が育まれることもあります。

もちろん、「学力(認知能力)」も、子どもによっては、その子の夢を実現するのに不可欠になる場合だってあります。

大切なのは、「指標を立てるのには目的があること」、「必ずしもその指標がそれぞれ本人の必要に合致したものとは限らないこと」「ヒトというのは一つの指標で測れるものじゃない」といったことを忘れないということではないかと思います。

そして、指標や概念が作られるからには、そこに意図があります。OECDが、非認知能力に対し社会情緒的スキルという概念をつくったように。遠藤さんらが、スキルに対してコンピテンスという言葉をあてたように。

僕が、この“学びの姿勢” をいう意図は、学ぶ人が“勉強”を“頑張る”のではなく、そのなかで「学びや気づき」を得るために身につけておきたいモノとしてです。

もしかしたら、コミュニケーション能力やソーシャルスキルの向上や、夢の実現にも、この「姿勢」が何らかの役にたつかもしれません。でも、それは僕の中でも、まだ仮説どころか願望に近いものです。

「振り返り」を持つ姿勢

くどい言い回しのnoteになってますが😅、あえて言葉を区別したり、勉強(学力向上)や社会的成功につながるものではないといったことを強調したりするのは、意図があるのは、僕の書いているものも同じだからです。

教育や研究といったものにも意図があり、そのことを知っておかないと自身の想いと違った流れに巻き込まれます。主張や意図を鵜呑みにすることは、受容するということとは全く違うのです。

僕のnoteで、「そうだったのか!」と考えを左右してしまう人がいるとも思えないですが、一応スタンスとして強調しておきたいところでした。

ただ、教育現場の実感としても、振り返りを持つ子ほど伸び率が高いというのはあるようです。また、分野は少し違ってもソーシャルワークでも、自己を振り返ることや相手に振り返りを促すことは要訣になっています。

そしてまた、学びであれ、夢の実現のための勉強であれ、社会生活を豊かにすることであれ、ひとが生きる意味もそのための能力も、一つだけでなく、同時に別個バラバラなものでもないのだと思います。

大事なのは、教育や研究でも何らかの主張でも、鵜呑みにするのでも、逆にただ反発するのでもなく、その意図や背景も理解しつつ、自身のために取り入れられるものを取り入れて利用していく、ということなのではないでしょうか。

僕のnoteも、誰かの“利用”の役に立つ時があるのなら、うれしいのですが。

お読みいただき、ありがとうございます🙇‍♂

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