まこと

死生観を始めとして死について、生について考えていることをたまに書いてます。

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死生観を始めとして死について、生について考えていることをたまに書いてます。

最近の記事

17.5という数字

17.5。 それは、令和4年度の人口10万人当たりの自殺死亡率。 男女別にみると、男性は24.3で令和3年とくらべて1.5ポイントの上昇、女性は11.1で令和3年とくらべて0.1ポイントの上昇となっ ているらしい。 その平均をならして、17.5。 少ないと思うか、多いと思うか。 常に死を意識していつどこで死ぬかを考えているような私には、それはただの数字に過ぎない。 著名な人が自殺すると様々にネット上に良くも悪くも「ご意見」が沸き上がるが、総じて世の中は自殺に対して「悪いこと」

    • 期待しない方法

      私は仕事をする上で、とても重要視していることがある。それは 仕事にたいして誠実に対応しているヒトと仕事をしたい。 ということ。 仕事の能力については個人差や歴の差も影響するので出来不出来や要領は気にしない。 ただ、嘘をつく、ごまかして利益を掠めとるなどの行為が見えたらどうしても認められない。看過できない。 つまりそれは 「相手に誠実であってほしい」と望む気持ちがあり、 「相手がそれに答えてくれない」から 「嫌な気持ちになる」ということだ。 私は人間は等しく性悪説でできており、

      • 命より大切なもの

        私にはかつて、自分の命より大切な命があった。 とても残念なことにその命は私よりも早く生を終えてしまった。 一度ならず、追いかけることも考えた。 そんなことを考えることを阻むかのように様々な災難や不運な事象が立て続けに起きて今に至る。  つまり私はあとを追うことなくこれを書いているわけだ。 生物の本能として「目の前で起こる事象」について、その緊急性が高ければ高いほどその事象への対処に奔走し時間は流れていく。 落ち着いて時間があり自分と向き合ってしまうほど、この世界にいることの意

        • 未来の希望

          私は、今年、来年、再来年といった先のことを想像する能力が著しく低い。そのため夢や希望に向かって頑張るなどという崇高な気持ちが持てずにいる。 そして、こんなに複雑かつ爆速で変わる社会に生きながらも10人のホモサピエンスに好かれるより、1頭の犬に好かれる方が大切だ。 昨今科学が進歩して未来予想(特に気候変動や災害予測)がかなり信憑性を増していて、それによれば日本の大災害はほぼ約束されているといっても良い。大災害が起こるということは経済に与える影響も甚大で、なおかつ世界情勢的に見て

        17.5という数字

          試練とは

          「神様は、乗り越えられない試練は与えない」 などと言われているが、これはかなり無理があるなと最近特に思う。 そもそも神を信じているかという原理原則の問題もさることながら、遠回しに「誰かが見ているのだから逃げるなよ」と言われているような気がする。私の歪んだ認知のせいなのもわかっているが、逃げることをヨシとしない時代の名残とでも言うべきか。 起きてしまった物事にたいして「~だったら良かったのに」とか「なんでこうなってしまったのか」と悔やんだところで時間は戻らない。かといって現実を

          試練とは

          選択肢があるということ

          死生観をメインに独り言を書いているわけだけど、最近になって特に強く思うことがひとつ。 人間はいつでも「自分の死を選べる状況にあるわけではない」ということ。 例えば交通事故で重症、重体になったり、病気がきっかけで後遺症が残ったりすることで、「自分の身体の自由を奪われながら生きていかなければならない」という状況に陥る可能性は誰にでもある。 日本を始め大抵の国では医療機関が死にたい気持ちを優先してくれることはない。 結局死ぬか生きるかを自由に選択するにはその選択を全うするだけの身体

          選択肢があるということ

          なんだか

          いまとても死にたい気分に。 こういうときに必ず聞く曲がある。 ブルーハーツの「TRAIN-TRAIN」。 あなたが生きている今日は~のところは、 15歳のおばあわんを思い浮かべて なんとか乗りきってる。 私もまた、パパゲーノなんだろうか。

          なんだか

          あるTwitterについて

          私はTwitterにアカウントを持っている。 そこに、フォローもなにもしていなくても時々「こんな話題どうですか」といってツイが表示される。 そのシステムで、先日一部で話題になった(らしい)ツイが流れてきた。 とあるバイカーの自殺。 日本一周して自死の間際に死に場所と診断書らしき画像がついてさよならを告げるツイ。 正直なんとも思わない。死んでほしいとも生きてほしいとも思わない。その行為に至る理由やその人のことを私はなにも知らないから。 けれどリプは山のようにあり、本人を知ってい

          あるTwitterについて

          相棒の存在

          私には、1年前まで相棒がいた。 その存在が私の活力であり、生きる意味だった。 相棒はホモサピエンスに比べ寿命が短く、その生涯は15年と1ヶ月だった。 そう、相棒とはイヌだ。 私の暗黒時代を共にし、断片的に相棒にひどいことを言ったりもした。それでも相棒は私から離れることなく、初めて愛を教えてくれた存在だ。 私は基本的にヒトのことは信じていない。利己的かつ欲深く、1日に何度も嘘をつくことで成り立つ社会の一員だ。かく言う私もその一人。けれど知ってしまった。駆け引きなしの無条件に本音

          相棒の存在

          死生観

          これからここに書くことは、独り言の記録であり、誰かに語りかけたり問いかけたり勧めたり求めたりするものではない。 端的にいうと、私は「自殺(自死)は良くない」といわれるのはなぜなのか、ずっと考えている。 生きる権利を主張される場面は多く大抵は肯定されるが、死ぬ権利についてはなぜかタブーとされているように感じる。 自分で死を選ぶ感覚を持つのはホモサピエンスがホモサピエンスである最たる特徴のようにも思っている。 この話を下手な相手に質問するとほぼえらい目に遭うので親しい友人にすら