死生観

これからここに書くことは、独り言の記録であり、誰かに語りかけたり問いかけたり勧めたり求めたりするものではない。

端的にいうと、私は「自殺(自死)は良くない」といわれるのはなぜなのか、ずっと考えている。
生きる権利を主張される場面は多く大抵は肯定されるが、死ぬ権利についてはなぜかタブーとされているように感じる。
自分で死を選ぶ感覚を持つのはホモサピエンスがホモサピエンスである最たる特徴のようにも思っている。
この話を下手な相手に質問するとほぼえらい目に遭うので親しい友人にすらしないのだが、それっぽい話をした歳は、十中八九「せっかく生まれてきたのに自殺なんてあり得ない」「関わった人々が悲しむし親を始め親族に申し訳ない」「生きていればいいことが必ずあるはず」的な回答が多い。
しかし自殺を選ぶ人間に、周囲のことなど頭にはない。そんなことを思い浮かべる余地があるなら自殺に至らない。
昨今多くなってきた「構ってほしくて、話を聞いてほしくて、注目してほしくて何となく死にたいといってみる人々」はとりあえず根っこに生きる意思があるものとして別物としよう。
ただもう生きるということ、この社会に存在することが耐えられない人間にとっての最後の砦は自殺になってしまうのではないかと思っている。
それと同時に私は死生観においてマイノリティなのだとも思っている。
知り合いや家族などから「死にたい」といわれた場合はまず話は聞こうと思う。そのなかで私に出来ることがない段階に達している場合には聞くにとどめることにしている。話終えた後、相手が最後にどのような結論を出したとしても、私に出来ることは否定も肯定もせずただ受け止めることだけだと思う。
その人の一生を支え、喜びを提供する覚悟がないものが安易なことをいうべきではなく、その人の選択はその人のものであり、誰のものでもないからだ。
「人類は平等で、各権利は本人に帰属する(成人の場合)」が保証された社会で、死生観についてはなぜかずっと不平等であるという思いを抱えている。
いつか、納得のいくような「死んではいけない理由」に巡りあえるのか、日々模索が続いている。

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