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速読と遅読と、大きなメガネの女の子と。【短編小説】


「まったく、そんなことだからお前は何をやってもダメなんだよ!」

酔っ払った深井は、ケラケラと笑いながらぼくに言った。

「俺なんて、毎日一冊は読むぜ!?それがお前、月に一、二冊しか読まないなんて。そういうところが業績にも影響してんじゃないの?」と深井はつづけた。

建築資材を扱う商社のおなじ営業所で働く同期(年も同じで25歳)というのが、ぼくたちの関係である。

深井は入社するなり右肩上がりに業績を伸ばし、今月に至っては営業所のトップに躍り出るかというところまできている。かたやぼくは業績がずっと伸び悩んでいるおちこぼれだ。

そんな、ぼくとは対照的な深井は、入社当時からあまり好きではない相手だ。

基本的に上から目線だし、とにかく自慢話が多い。また、ひとによって態度をコロコロ変えるとか、深井のイヤなところをあげだせばキリがない。

しかし、深井のしつこい誘いに負け、ぼくはしぶしぶ深井と呑みにいくことを承諾した。

退社時間になり、いっしょに会社をでたぼくたちは、深井のお気に入りだという店へむかった。

そこはテーブル席がふたつと、7〜8人程度が座れるカウンターがある、比較的ちいさな店だった。

木を基調とした店内は、柔らかい色の間接照明に照らされ、そのことがより木の温かみを増しているような、とても雰囲気の良い店だった。

テーブル席に案内されたぼくたちは、お互いを対面にして座った。まだ早い時間だからか、お客さんはぼくたちとカウンターに座るひとりの女性しかいなかった。

「これがうまいんだよ」と言いながらメニューを眺める深井は、いくつかのつまみとふたつの生ビールを注文した。深井が酔っ払っいだしたのは、それから1時間くらいたった頃だった。



「お前もできるだけたくさん本を読め!一冊の本をチマチマ読むなんて時間のムダだ。そんなことしてるから業績ものびないんだよ。何事も効率を考えろ。あたまのいい奴は時間をムダにすることをいちばん嫌う。お前も本が好きならそうやって本を読め!な!」

酔っ払ってはいるがこの上なく饒舌な深井。トーク力に定評があるこの男は、酔っ払ったとて、その力は色褪せないみたいだ。

そもそも、なぜ読書の話になったのか。それは、ぼくたちが店に入るまえからカウンターに座っている女性客が、本を読みながらひとり食事をしていたからだ(カフェっぽいお店なのでお酒を飲まず、食事のみのお客さんも多いと深井が言っていた)。

それを見たぼくたちは何となく本の話になった。ぼくも読書は好きなので、はじめは何も気にならなかった。しかし、どこからか読書量の話になり、ぼくがあまりたくさんの本を読んでいないと分かるや否や、深井はそのことをあざ笑いだした。

そして、それはぼくの業績にまで繋がっていると揶揄し、読書家とは何たるかという話に発展したというわけだ。

いろいろな読書法について話す深井だったが、それらをまとめると、時間をムダにせず効率を一番に考え、たくさんの本を読むこと。それが、真の読書家だというのが彼の意見だった。

ぼくがつい先日読んだ本にもなるべくたくさんの本を読んだ方がいいと書かれていた。別の本には、本を読むなら速読は絶対にマスターするべきだとも書かれていた(深井も速読は習得していると豪語していた)。

酔っ払った深井の言い草には納得できなかったけど、言っている内容には納得せざるを得ないような気がした。

なにより深井は会社でも結果をだしているし、SNSを見る限り私生活も充実している。かたやぼくにはそれに反論できる業績も日常も、なにひとつ持ち合わせていないのだから。

「というかさ、月に一、二冊って、それ読書してるって言えんのか微妙だよな!?」

深井はバカにした目を浮かべながらまたケラケラと笑った。

「うるさいな。仕事が忙しいんだから仕方がないだろう」

「忙しいって、俺より業績が悪いくせにか?」

「それは、そうだけど…」

「ギャハハハハッ!なんだそれ!」

深井の発言に、また憤りを募らせるぼく。なぜ呑みに誘われたぼくの方が罵られなければならないのか。しかし、言い返せない。

深井への怒りが膨れあがるのと同時に、自分への嫌悪感も膨らんだ。ほんと、我ながら嫌になる。深井に何も言うことができないこんな自分を。

「深井は普段、どんな本を読んでるんだ?」

嫌な会話の流れを遮るようにぼくは深井に聞いた。

すると、その質問こそが欲しかったと言わんばかりに深井はニヤリと嫌な笑みを浮かべた。もしかすると、ぼくはまた自分を最悪な気分にさせる地雷を踏んでしまったのかもしれない。

「なんでも読むよ!小さいときから俺は読書が好きだからな。でもまあ俺もお前と一緒で今はビジネスが多いよ。そうだな…」

深井はちらりとカウンターを見ながらつづけた。

「最近読んだ本で言うと、遅いインターネットという本が面白かった。宇野常寛ってひとが書いた本で、結構話題にもなった本だけど、お前知ってる?なんていうのかな、既存の価値観を全てぶっ潰すような、著書の目線で世間を切り込む様がスカッとする、なんとも読み心地の良い本だったよ!」

腕を組みながら得意げに語る深井に、ぼくはほとほと呆れた。

遅いインターネット。

それは、カウンターの女性が今まさしく読んでいる本だ。ぼくも読んだことがあるのでそれは間違いないだろう。

言い忘れていたが、ぼくが深井のことを好きになれないリストに「極度の女好き」というのもある。そんな深井が今この本を話題にするということは、きっと彼女に何かしらをアピールしたいのだろう。

ぼくの質問は、そのことを助けるために使われてしまった。深井のニヤリと笑った意味が、ここで答え合わせされた。

案の定、深井のわざとらしい声に気づいたのか、その女性は自身が読んでいた遅いインターネットを閉じ、ふいに立ち上がった。

そして、その女性は深井の狙い通り(もしくはそれ以上の成果と言えるのかもしれない)、ぼくたちのテーブルへ歩み寄ってきた。

「この本を読んだことがあるって、本当ですか?」

彼女は、好奇心をくすぐられた子どものような笑顔を見せながら深井に言った。

二十歳くらいと言ったところだろうか。大きな、まるでアラレちゃんのように大きなメガネをかけている他は、特に印象のない平凡な服装をしている。

小柄な体格。黒髪のショートヘア。化粧っ気のない薄い顔には派手な美しさもない。しかし、可愛くないわけではなく、むしろとても可愛い。何というのか、秘めたる美しさのような不思議な魅力がある、そんな女性だった。

「ああ!最近読んだところだよ!面白いよね!その本!」と深井は言った。

さわやかな笑顔を浮かべながら話す深井。その内側は、きっとドスケベな欲望に違いないのに。このゲス野郎が。

「面白い…か…」

深井の返答に、彼女は神妙な表情でそうつぶやいた。

何かを考えているように見える。あごの下に人差し指を当てながら少しばかり黙り込んだ彼女は、ぼくの横の空いている席を指して言った。

「あの…ここ、いいですか?」

「え!?あ、あ、別に良いけど…」

いきなり話しかけられたぼくは、どもりながら答えた。

目の前には思惑通りの展開になったとはいえ、ぼくの横に彼女が座ったことに少しむっとしている深井がいた。

ありがとうございますと言いながら席に座った彼女は、落ち着くヒマもなく深井にたずねた。

「この本、どこが面白かったですか?」

すこし機嫌を損ねた風の深井だったが、すぐに気をとり戻したのか、また、愛想のよい表情を見せながら言った。

「ん~。そうだなぁ。なんていうのかな、既存の価値観を全てぶっ潰すような、著書の目線で世間を切り込む様がスカッとする、なんとも読み心地の良い本だったところかな」

深井はさきほどぼくに話した感想と全く同じことを彼女に言った。まるで暗記した文章を話しているだけのように聞こえるのはぼくの邪推だろうか。

「なるほど。さきほど一日に一冊のペースで本を読むとおっしゃっていましたが、この本も一日で読んだんですか?」

「えぇ!?そんなことまで聞こえてたの~。なんだか恥ずかしいなぁ」

わざとらしく照れだした深井に、彼女は無表情で言った。

「あの、そういうのはいいんで。全部わざと聞こえるように言ってたでしょ?そういうのはほんとにいいんで、わたしの質問に答えてくれないですか?」


閉口した。

彼女のあまりにもストレートなコトバに、ぼくたちはそろって閉口した。

なかでも深井は、鳩が豆鉄砲をくらったようにきょとんとしていた。それはもう「きょとん」と書いたお札をおデコに貼られたかのごとく、目に見えてきょとんとしていた。

一瞬にして凍りついた場を気にとめることもなく、彼女は遅いインターネットを深井に見せながらもう一度言った。

「あなたはこの本も一日で読んだんですか?」

「は、はい…そうです。一時間と少しぐらいで読んだと思います…」

完全に気後れしている深井は今までのハキハキとした喋り方とは打って変わり、怯えるようにぼそぼそと答えた。無意識なのか、コトバも敬語に変化していることが少し笑えた。

「へぇ。この本を一時間で…そうですか」

彼女は何かを感じたのか、首をかしげながら、またあごに指を添えた。

この本を一時間。その違和感はぼくにもあった。

というのも、ぼくはこの本を読み終えるのに10時間以上かかったからだ。それに、時間がかかったからと言って、内容を全て理解できたというわけでもない。それほどに難解な本であった。少なくとも、ぼくにとってはそうだったのだ。

「この本のどのあたりが具体的に良かったですか?」

彼女はまた深井にたずねた。深井はうーんと考え込む仕草を見せながら言った。

「どのあたりって言われると難しいですけど…あの、既存の価値観を全てぶっ潰すような、著書の目線で世間を切り込む様がスカッとするような、そんな読み心地の良さが…」

「それさっきも言ってましたよ。そうじゃなく、具体的にどの部分が特に良かったかを聞いているのです」

「具体的な部分ですか…そうですね。なんかトランプ大統領が選挙で勝てたのは一種のアレルギー反応みたいなものだ、みたいな話あったじゃないですか?あれが面白か…」

「そのアレルギー反応とはどういったものでしたか?そこであなたは何を感じたのですが?」

このあとも深井はまくしたてられるように質問攻めにあっていた。時間がたつにつれ、どんどんとコトバを詰まらせていく深井。饒舌が売りの彼だったが、その影はいま、跡形もなく消えつつあった。

「あなた、ほんとにこの本を読んだの?」

質問という質問に明確な回答がなかったことに、深くため息をつきながら彼女は言った。

「はぁ…一応読んだことは読んだのですが…」

すっかり酔いのさめている深井は、叱られた子どものように小さくなっている。

深井の横に穴をほってあげれば、彼は今すぐそこへ入っていくだろう。あまり好きになれない人物だったけど、ここまで憔悴している姿を見ると、どこかいたたまれない気持ちになる自分がいた。


「この本、あなたも読んだことありますか?」

彼女はふいにぼくを見て言った。いきなり話をふられたぼくは、驚いた表情のままぎこちなく頷いた。

「あなたは月に一冊、二冊しか本を読まないんですよね?ということは、この本も時間をかけて読んだのですか?」

どうやら彼女は深井が酔っぱらいながら話した情報を全てインプットしているみたいだ。それはそうだろう。あんなにハキハキと大きな声で話していたら、聞き耳を立てずとも耳に入る。

じぶんの情けないところが露呈した気がして、また嫌な気分になったが、ぼくは彼女のコトバに頷きながら答えた。

「うん。そうだね。特にこの本は時間をかけて読んだよ。時間をかけたというより、時間がかかったが正確かもしれないけど。正直、ぼくにはとても難しい本だったから。だからいつもより余計に時間がかかった。そうだな。確か8時間ぐらいかかった気がする」

ぼくは2~3時間サバを読んだ事実を彼女に話した。そこに何の効果があるのかはわからないけども。

「あなたはこの本を読んで、どんな感想を抱きましたか?」

彼女の矛先がぼくに変わる。彼女のずれ落ちたメガネの奥にある瞳は鋭く光っているように見えた。

子どものように小さくなる深井を見る。ぼくも数分後にはこうなるのだろうかと一瞬ひるんだが、何とかこころを落ち着かせ、自分のありのままの感想を伝えることにした。

「正直なところ、ぼくはこの本に深井の言うような面白さは感じなかった。面白くなかったわけじゃないんだ。それこそ、著者の見る世界はぼくにとって新しい知見であり、新しいモノの捉え方だった。そのことを知れたのはとても刺激的だったし、楽しませてもらえた」

彼女はじっとぼくの声に耳を傾けている。ずれ落ちたメガネはどうやら気にならないみたいだ。

「だけど、深井の言うようなスカッとした読み心地というのは、ぼくには全くなかった。どちらかというと、読み終えてからもずっとこころにへばりついて離れないような。どしっとしたテーマの課題を叩きつけられて、お前はこれをどう解くんだ?と、読後もずっとヘヴィな感情にさせられる、そんな本だったよ」

簡潔な感想をひとまず述べたぼくに、彼女は頷きながら言った。

「なるほど。具体的にはどの部分にこころを動かされたのですか?」

その後も、ぼくは自分の感想をありのままに語った。なんせ、時間をかけて読んだ本だ(かけさせられたが正しいけども)。

自分なりにメモをとって、重要そうなところにはフセンをはり、ノートに書きだしたりもした。だから自分の感想を細かく伝えるのは、ぼくにとって造作もないことだった。



「わたしもあなたと同じです」

一通り感想を話しおえたあと、彼女は唐突にそう言った。

「わたしもこの本を読んで、スカッとした感情は生まれませんでした。むしろ、簡単に答えの出ない問いに、どちらかというと重苦しい感情にさせられたというか…」

胸に手を当てながらゆっくりと話す彼女。きっと、あたまの中でこの本を再読しているのだろう。何となくではあるが、彼女の言っていることはぼくにも理解できた。

少しの沈黙が流れたあと、彼女は深井に向かい再び口を開いた。

「これは、それだけテーマの太い本なのです。深度のとても深い本なのです。故にこの本は、遅いインターネットは、あなたのように軽く簡単に読める本ではないと、わたしは思っています」

相変わらずしゅんとしている深井。彼女は、そんなことを気にすることなくつづけた。

「そして、それはこの本に限る話ではないです。中身を理解するためにはどうしても時間がかかってしまう本、時間をかけざるをえない本というのが、他にもたくさんあるのです」

まっすぐに深井を見つめる彼女。その横顔は、とても真剣な表情をしていた。

「あなた、本の読み方を力説していましたよね?本はチマチマ読むものじゃない。たくさんの本を読め。時間をムダにするな。読書家は時間をムダにするのを一番嫌う…でしたっけ?」

子どもではなく、もはや子猫のように小さくなっている深井。俯いたまま動かない彼にはもう、返事を返すチカラが残っていないのかもしれない。

「たくさんの本を読むことが悪いと言っているのではないです。むしろ、それ自体は素晴らしいことだと思います。しかし、それが月に数冊しか本を読まないひとを批判する理由にはならないでしょう。少なくとも、具体的な感想など何ひとつ持っていなかったあなたが、たとえ読むことが遅くとも、自分なりの答えや問いを見つけだしている彼をバカにする権利は、どこにもないのではないでしょうか?」

彼女はぼくのほうをちらりと見た。そして、ぼくたちのこころに深く染み渡らせるように、彼女はゆっくりとした口調でつづけた。

「こう読まなければならない。ああしなければならない。本って、そんなに狭いモノでしょうか?読書って、もっと自由でいいんじゃないでしょうか?」

このコトバに、ぼくの曇り空のようにどよんとした気分は一気に氷解した。


そうか。読書って、自由でいいのか。

もちろん、良い本の読み方を模索していくことも大事なんだと思う。しかし、何が良い本の読み方なのかは、結局のところひとそれぞれだ。自分なりの本の読み方がある。それ以上も以下もないのだ。

ぼくはとても胸のすく思いでいっぱいになった。そして、もう一度あたまのなかで言った。

読書って、自由でいいのだ。


「あなたはあなたでもっと仕事を頑張るべきだと思います」

幸福感に浸っていたぼくの横目に、ふと彼女の視線を感じた。彼女の方を見る。すると、もともと目が合っていたかのようにバチンと目が合った。どうやら彼女は、ぼくに向かって話をしているようだった。

「あなたが仕事で結果をだしていたら、彼があんな読書論を振りかざすこともなかったでしょう」

さわやかな気持ちは瞬時に一変させられた。やはりぼくのことを言っている。話の途中から何となくぼくをかばってくれているんだと思っていたけども、どうやらそういうことではないみたいだ。

言い返すコトバもないぼくは、彼女に頭をぺこりと下げながらつぶやいた。

「す、すいません…」

ぼくの頼りない仕草に、彼女は深くため息をつきながらずれ落ちたメガネをくいと上げた。そして、彼女はいきなり両方の掌でぼくのほほをパチンと挟み、ぼくの顔を彼女の方へ寄せた。

「あんなにしっかり本を読めるんだから、仕事でも絶対結果をだせるはずです。頑張りなさい」

顏の近さにドキドキせずにはいられなかった。

しかし、そんなことよりもぼくの背中をドンとおしてくれる彼女のコトバに、ぼくはとても心を締めつけられた。

恥ずかしいけれど、なぜか少し泣きそうになった。そんな自分がいた。

「あ、ありがとう。俺、もっと頑張るよ」

そう言うと、彼女の手はぼくのほほからするんと抜けるように離れていった。何かに納得したのか、うんうんと頷きながらみせる彼女の笑顔は、とても明るく、可愛らしいものだった。

そして、彼女は穏やかな笑みを浮かべたまま、ぼくに言った。

「あなたがバカにされるのは一向に構いませんけど、本のこと、わたしの好きなことをあなたのせいでおかしく言われるのは我慢できないですからね。そうならないために、これからはしっかり頑張ってくださいね!」

それでは!と元気よく立ち上がった彼女は、一度カウンター席にもどり、お会計を済ませ、店を去っていった。

なんというか、最後にとんでもなくひどいことを言われた気がしたが、不思議と気分は悪くなかった。

彼女が店を出たあと、深井と目をあわせたぼく。緊張が解けた二人の間には、なぜか笑みがこぼれたのだった。



「その、なんかごめんな。今日はえらそうなこと言っちゃって」

張り詰めた空気が十分に緩和されたころ、深井はぽつりとぼくに言った。

「いいよ。殆どほんとのことだったし」

ぼくは深井にそう返した。深井に対する嫌悪感は、このときにはもう全くなかった。あんな子猫のような姿を見せられたのだ。そんな深井に、もう何も思うまい。

「それよりさ。今度教えてくれよ。深井の営業の仕方」

ぼくは深井にお願いしてみた。どこか釈然としないコトバを置き去りにしていった彼女の言うとおり、本気で頑張ってみようと思ったから。

「ああ、いいぜ。そしたらお前は、その、あれだ…本の読み方を教えてくれよ」

深井はぼくに言った。なんだか認められたみたいで、ぼくはとても嬉しくなった。ひとって、たった一言でこんなにも気分が良くも悪くもなる。そんなことを改めて知った気がした。

「こんなぼくの読み方でよければ、是非!」

二人は互いに約束をかわしながら、口直しのビールをもう一杯頼んだ。




たくさんの本を読むひと。速読をマスターしているひと。一冊の本をくりかえし読むひと。ゆっくりと本を読み進めるひと。

ただ本を読むだけのことなのに、そこにはいろいろな読み方が存在している。しかし、そのどれかが真の正解なのだという全人類共通の答えはない。どれかが誰かの正解。ただ、それだけなのだ。


『読書って、もっと自由でいいんじゃないでしょうか?』

そのコトバと、アラレちゃんのような大きなメガネをかけた彼女の顔がぼくの頭に反芻される。


「それにしても、すげえ女だったなぁ」

深井がそう言ったことに頷きながら、ぼくたちはもう一度乾杯した。



END



【短編小説】終電に生かされた僕は、始発電車で死を選ぶ。

我に缶ビールを。