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大衆の考えに槍を突き刺す

・noteを書き始めてもう随分長い時間が経ったような気分だ。最近他の人とは少し違ったこんな考えを持ち始めた。

・あなたは、いつだって大衆の意見と同じ意見を持つだろうか?心の中では、実は違った意見を持っているのではないだろうか?



上の2つのうち、どちらの文章からこのnoteが始まっていたら、あなたはこのnoteを読みたいと思うだろうか。もしかしたら人によって違うかもしれない。

誰かと違った意見や見方を言葉にしようとする。そのことを際立たせるような書き出しにする。それは案外簡単なことだ。

でもnoteをやっていて気づくことは、膨大な数のnoteが存在し、個は個に埋もれてしまう、ということだ。言ってみれば個と個の争いのようなものだ。その中で個が強すぎず弱すぎず、そして共感を得やすいものに「スキ」が集まる。

フォロワー数が少なくても色々な人の目に入ってnoteを読んでもらい、さらにスキをもらい、あわよくばフォローもしてもらう。これがなかなか難しい。


ここから大衆の考えに槍を突き刺してみたい。小さな小さな反抗であり、たくさんの盾にはとてもじゃないけど対抗できないかもしれない。それでも書いてみる。


読んでもらえるような文章を書く、っていうのは少し違う気がする。読んでもらいたい、と思って書かれる文章は少し違う気がする。

他者に対して読んで!と思うのは私にとっては違う。(読んでみてね、とオススメの本を勧めたりすることはあるけどね。)

読まれるような文章がどのようなものなのか、自分なりに探すことにnoteを読む価値みたいなものが少しある気がする。

読んでもらいたい、と思う文章ではなく、自分の文章でさえ後で自分で読み返したくなる、そんな文章が書けたら良いなと思う。

そういう文章を書こうと意識しているわけではない。特別な意識なく書いた文章が、ふと誰かの目にとまり、読んでもらえる。

これが私の理想である。

読んでくれる人を探し求めて、自分の考えに共感してくれる人を探して、noteに文章を撒き散らかしているわけでは私は、ない。

自分のために、書いている。

自分の経験が誰かの役に立てたら良いと思って書いてる人は多いのではないだろうか。身近なところでは就活とかね。

役に立てたら良い、の考えは素敵だ。

役に立つから読んでみてほしい、は素敵ではない。


多くの人に読んでもらえる文章を目指したいとは思わない。有名人でもないし、文章センスがあるわけでもないし、理系大学に通っていて 普段は自分で意識しないとnoteにあるような文章には触れないしね。

ふと立ち止まって読んでくれる人がいることは嬉しい。

でもそれは求めるものではない。

私は私なりの「個」を、見つけたいのかもしれない。

言葉は「押し売り」するものではない。

それを忘れずに、これからも書いていきたいねぇ。



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