変わらずに、明日を生きられること。それがどれだけ幸せか。




少し前にペガサスハイドさんが悩み相談ライブで言っていた。「明日死んでも後悔しないように生きてる」って。

俺はあの人の考えに多少結構似たものを覚え感じるときがあって、「明日死んでも後悔しないように生きてる」は俺も完全に同意してる。

ハイドさんの考えは元々すごく素敵だなと思うけど、上記のことに関しては俺も元々からそう思っていた。



人はいつ死んだっておかしくない。


ほんの不注意で、何かの拍子の一瞬で、命というものはあっという間に消え去ってしまったりする。


交通事故、予想外の病気、鬱症状悪化による自死、さまざまな要因で、
死が訪れる時は訪れる。



だから俺には若さだとか自分がまだ20代だからとかそんなこと言っている暇はない。
いうほど時間人間だったり効率タイプだったりするわけでもないのだが、明日死ぬかもしれないという想定は常にしている。


人間の防衛本能で「そうそうなことが起きない限り死ぬなんてことはない」と、脳がそう思うように、そう判断するようにつくられてはいるらしい。

だからある種、本能に逆らって生きている。
感覚的に「明日死ぬかもしれない」を考え続けているのはそれはそれで結構に辛いので、普段は諸々の注意力を高める程度に留めてはいるが。



俺は人生の中でまだまだ相当やりたいことがあって。それは俺だけじゃなくて別人格たちも同じことを思っていて。

人に話すと「全部叶えるのは相当大変だろうな」と言われる。



でも、できる気がするんだよ。

だって、俺たちは一人じゃない。十何人もいるんだ。

十何人が力を合わせればなんだって出来るんじゃないかって思ってる。

だから時間とお金がそれなりにかかったって、全部全部やってみせるよ。




話は変わるが、何年か前、小中学校の同級生の訃報を耳にしたことがあった。


俺はその人とは成人式の少し後に複数人で開いた飲み会で会ったのが最後だった。

そこそこに楽しく飲んで、「また飲もうね!」社交辞令かもしれない言葉を交わしあって別れて、次の年とかその次の年とかに、誕生日に連絡をしたりしてまたその人は「また飲もう!」と言ってくれていた。


でも突然、その「また」はもう二度と来ないのだと知らされた。

聞いた話によると、脳の病気か何かで亡くなられたらしい。


ショックだった。


中学生の時はその人とイザコザがあってその人からはイジりがちょっと悪化したイジメのような扱いを受けていたこともあった。

でもそのことに関しては個人的に「この人は許せる」と思う出来事があって、直接すごく心を交わしあったわけではないのだけれど、俺の中ではもう許していた。


そして月日が経って、大人になって、その人とプライベートで飲めたりして。
こっから少しずつ仲良くなれていったらいいな、色んな話をしてみたいな、
そんなことをぼやぼや思っていた矢先だった。

訃報は突然訪れた。



それがきっかけ、というわけではない。元々から俺は”死”というものをそんなに遠くない存在だと思っていただけあって、人は、死ぬときは本当にふっと死んでしまうんだと思ってはいた。


でも、なんというか、痛感させられたというか、一時は自分と楽しく酒を酌み交わしていた人間の死は、俺に大変なショックを与えた。

そして、本当に年齢も状況も関係なく”死”は突然やって来ることがあるのだと、嫌というくらい感じ取った。


もう、会いたくても会えない。

俺が死んで、死んで行き着く先の場所に行ったとしても会えないかもしれない。

命は、魂は、果てにはどこに行くんだろう。

死んだらまた会えるんだろうか。それすらもわからない。



ただ俺は、俺にとっても、”残された時間はあとどのくらいなのかわからない”ことを強く思った。

生きている限り、俺にとっての全力を尽くそうと。


もう後悔なんてしたくない。

誇れる明日を、後悔しない今日を生きていきたい。

死んだ同級生のぶんまで。あの人が生きたかったぶんまで。



彼に、よかったらそっちから俺の姿見ていてよって伝えたい。
俺頑張るから、あなたの分まで頑張るから、全力でやりきるからそんな姿見守っててよって、言いたい。




そんなこんなで、俺は頑張って生きなければいけないのだ。


楽しみ、嬉しさ、怒り、悲しみ、辛さ、きっとこれからも色々なことを感じ取りながら一喜一憂しながら生きていくんだろう。


でも、やっぱりどんな時にでも全力でありたい。

やってみせるよ。






読んでくれて本当にありがとう。

また会おうよ!








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