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06:存在する罪、原罪、はたまた現在

西加奈子さんの『i』読了。
苦しくなって、溺れて、救われたような気がしながらも言葉にできなかったかつての感情に出会って、やっぱり苦しい。
そんな感情でいっぱいのままこうして書き始める。


存在する罪

宗教的な意味ではなく、存在しているだけで罪の意識を覚えることは私にもあった。
助かった側、生き残った側。
大袈裟な言い回しじゃなかったとしても、正義を振り翳した側、傷つけた側、嘲笑した側。
見えない線を引きながらも、今息をしているということは、こっち側にいるということ。
言語化できないで苦しんできた私をもう一度なぞるかのような文面に、読んでいる間から「存在する罪」という言葉が頭から離れない。


3.11の時は高校生だった。
2011年の8月に、震災の5ヶ月後に東北の地面を踏み締めてようやく感じた本当の絶望の一部。感じたなんて言葉は烏滸がましいし、その日以来実際には体験していない津波の夢を繰り返し見るようになった自分は、苦しんでいる「側」にいるという勲章を得た気にさえなっていた。

幼い頃から頻繁に、そして大人になってもごくたまに感じるある衝動と恐怖がある。
「今このまま手を離したら」
「今この瞬間に階段から足を踏み外したら」
「今」
「今」
「今」
大抵は悪夢の中でしか起こり得ないことだけれど、自分が大事な人の手を物理的に離してしまう、自分の意思にまるで関係ないふりをして誰かを突き落としてしまう、自分は何もしていないけれど階段から落っこちてしまう、そんな事故を思い描く癖が抜けない。
こうやって悪い想像をしている自分に自身で罪の意識がある。
清らかではない自分に嫌悪感が募る。

正しい、の押し付けをやめるように言われる昨今の社会で「正しい」が全て悪かのように言われることに心底嫌気が刺しながら、正しくないことに自分を照らし合わせることで苦しみのループを自分で作り上げている。

私ではない誰かが、真剣に生きたかったあなたが、どれほど生きたかったか知れない「今」を享受している私が。
こんなにも汚く今を生きている。

と、存在する罪を考えてしまうのだった。
西さんが書いた文章が解きほぐしてくれた。
現実を変えてくれたわけではなくて、救ってくれたわけではなくて、そう、そういうことを私も感じるよ、このこっち側の現実で。と叫びたくなったのだ。

わかるよ、アイ。


原罪

キリスト教の原罪。
信じていなくても、勝手に罪をなすりつけられるの?
この疑問に答えは出ない。
本当にキリスト教徒がキリストを信じていれば、宗教の対立もこんなに怒らないんじゃないの?
アホみたいな幼稚な考えだってわかってる。
でも抜けられない根本的な疑問。
誰かに答えてほしくてわがままにぶつけたい疑問。
学術的な答えも、単純ではない宗教的背景もある程度は知っている。

こんなんでは、遠藤周作も呆れるだろうな。
「踏みなさい」(沈黙)とは誰も言ってくれないだろう。

でも、でもを重ねたらキリはないのだけれど。
こんなにも世界が混沌として、複雑で苦しいものになってしまったのには、人間が持って生まれた傲慢さの塊「業」があるように(突然仏教か?)思えてならない。
てことは、私自身もやっぱりこの地球に寄生している1人の生き物としては、この因果に食い込んでいるのだ。
私なりのムチャクチャな原罪の理論。

はたまた現在

げ、やっぱり。
やっぱり今に戻ってくる。

突然のナウシカ。
この左側の文字に今の私は救われる。
救われる、という使いこまれた言葉も納得はいっていないのだけれど。
「敗走」だ。

世界を汚してしまった人間たち。
その汚れた空気の中でしか生きられない人間。
世界は浄化を始めている。
影の中に理想郷があって、シュワの墓所と王蟲の体液は同じ。
「敗走」である。
敗走するしかない、けれど敗走であることを理解してナウシカたちは命を生きる。

存在に罪を感じて、原罪を背負って、現在を生きる。
前向きに倒れるんだ(おいハンサム!!)

世界は腐っている。
自分はどっぷり腐っている。
でも地球は美しいし、こんな呟きが埋もれていける場所があるし、こんなことを考えていたことさえ忘れるくらい素敵な瞬間があることを、その瞬間を共有できる人がいることを知っている。
ああ、酒でも飲んで寝るかな。

西加奈子さん、恥ずかしながらこれが読了後のラブレターです。

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