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連載小説『J-BRIDGE』6.

「待って!」
 追いすがるように叫んだ明石は、自分の声で目を覚ました。開いた両目には見慣れない天井。そこに引っ付いた二本の蛍光灯は、お互いに励ましように時折チカチカと点滅している。明石の体は毛羽だった古い毛布に包まれていた。
「痛っ」
 無意識の反射で身体を起こそうとすると、刺すような痛みが明石の身体を走った。痛みは脳まで走りきり、そこに連動した記憶を掘り起こす。「生きてた、か」
 千虎が去りゆき、地面に横たわった明石。彼はあのとき、このまま死んでしまうかもしれないと思っていた。意外だったことは、それでも構わないと自分が考えていたこと。
 職を失い、恋人を失い、生にしがみつく理由を探すことに疲れた二年前から、終わりの理由を探して彷徨っていただけだったことに気がついてしまっていた。
「人の体は案外丈夫。……体は」
 できる限り痛みの少ない体勢を探しながら、明石はゆっくりと首を動かして辺りを観察する。
 そこは明石が住むワンルームとほとんど同じか、それより少し広い程度の部屋。壁の一面にはさっき夢で見たばかりのものとよく似たロッカーがいくつも並び、型落ちのパソコンが鎮座する大きなテーブルが部屋の中央にひとつ。彼がついさっきまで横たわっていた二人掛けのソファーを含めても、華やかさにはほど遠い寂寥感で満ちていた。
「任せるよ、君の好きなようにやってみな」
 それまでどうして聞こえていなかったのか不思議なほど、芯の強そうなはっきりした低い声が明石の耳に届いた。
 声のする方には扉の無い出入り口。薄いカーテンがかかるその場所は、窓一つ無い部屋で唯一、外部に繋がっているようだった。電話をしていたようだったが、最後に「頑張れ」と告げるとそれも終わったようで、明石の方へと向かって足音が近づいてくる。
 カーテンの傍まで近づいていた明石がその隙間から覗こうとする直前、彼の正面にあったはずのカーテンが軽快な音を立てて大きく横に滑った。「うわっ」
 思わず大きく仰け反った明石とは対象に、カーテンの影から現れた男は少しも動じていなかった。男は、明石をさんざ痛めつけたあの千虎よりも一回りほど体格が大きく、顎にはたっぷりと髭を蓄えている。ぽりぽりと顎を掻く姿はまるで熊が毛繕いをしているよう。
「ああ。起きたんだ」
 男が言葉を発すると、明石は更にもう一歩後ずさりをした。その姿を見た男が面白がるように部屋に足を踏み入れると、それに合わせて明石も等距離を保つように体を動かす。二人が足並みを揃えて一、二、三歩半歩いたところでソファの縁に明石がつまずいた。
「わっ」
「おっと失礼」
 さほどすまないと思っている風でない口ぶりの男は、頬を緩ませて笑っていた。再びソファに仰向けで転がった明石からは、その顔は見えていない。男は「よっこらせ」と丁寧に発しながら、部屋の隅にある小さな丸椅子を引っ張りだす。男がその上にちょこんと腰掛ける頃には、明石も体を起こしてソファに浅く座っていた。
 男の衣類から溶け出すように、部屋に男を中心にした匂いが広がる。明石はその香りに心当たりがあった。
「煙草……」
「吸うのかい? いる?」
「いえ。昨日、この前、誰かに運ばれて。その時の匂いが……」
 少し考えるだけで、明石にもひとつの推測が生まれる。
「まさか、あなたがここまで?」
「……拾っただけさ。君が重なったんだ、昔飼ってた犬と」
「何余計なことしてくれてるんや!」
 立ち上がって声を荒げた明石は、口元に生える髭を思いっきり睨み付けた。
「俺は、あそこでもう終わって良かったんや。やっと来たと思ったのに、これで終わると思えたのに。……もう惰性で生きるのにも疲れてきたのに!」
 強がっているようには聞こえがたい切実さは、明石の額から流れる汗が証明していた。息を切らした明石の言葉は続かず、男も何も言わない。お互いに無言。耐えかねた明石が軽く咳払いするその刹那、まるで、居合いの達人がノーモーションで鞘から刀を抜くかのように男が口を開いた。
「オムライスは好きかい?」
「好きです」
 呼吸の虚をついたような鋭さと不釣り合いな気の抜けた言葉に、明石の思考は一度完全に停止した。生理的な欲求に対する反射で出た言葉を証明するかのように、明石の胃がぐるぐると音を鳴らす。
「わかった、少し待ってなよ」
 そう言った男は、カーテンの向こうに姿を消した。

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