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連載小説『J-BRIDGE 』13.

「はははっ、リリーのやつそんなこと言ってたのかい。また生意気な」
 煙草を片手にカウンターの隅に立つ朗が、傍らで洗ったグラスを拭いている明石の言葉にそう返す。明石が働き出して初めて迎える週末。店内はまるでこの四日間は本性を隠していたかのように、これまでにない賑わいを見せていた。
「また私の勝ちー! へいへい、どうしたどうした?」
 ホールを越えて奥のダーツ台あたりから、カウンターまで届く快活なリリーの声が聞こえた。三十代ほどのサラリーマン三人組の中に混じった彼女は、もう一時間ほどは同じ調子で場を盛り上げている。
 その台をはじめとして、五台あるうちの四台ではそれぞれ別グループの客たちでひしめいていた。一人が矢を投げては台の正面に備えられたテーブルに戻り、グラスを傾けるか紫煙を燻らせ、入れ替わるようにまた別の誰かが投げる。
 その辺りでは引っ切りなしに矢が飛び交い、めまぐるしく立ち位置を変える人々はひとつの大きな集団と化していた。彼ら彼女らの間を縫うようにして、今日も後ろで一つくくりに髪を束ねたリリーが小まめに動き回っている。
 ダーツの方でドリンクの注文を聞いては、ホールを横切りカウンターにいる明石の元へ。そんな風に行ったり来たりするリリーは、一人のはずなのに顔が確かに二つある。
「海くん、次はコーヒー二つね。一つはシロップ入れてフレッシュは無し、もう一つはどっちもちょっとだけ入れてあげて」
「はいはーい! 私の番か! 待ってた? 私を待ってた?」
 ダーツの矢を投げるリリーの姿を眺めながら、明石は隣にいる朗に向かって率直な疑問を投げかける。
「あんな感じで、よく混ざりませんね」
「それが彼女だよ」
 朗はそれだけいうと、耳を澄ませるように目を瞑る。真似した明石が瞼を下ろすと、今まで聞こえてなかったのが嘘みたいに、一定のリズムを持った音が聞こえてくる。
 カツーン、カツーン
 アップテンポ音楽と高低バラバラな声たちで盛り上がりを見せる店内。そこに休符を挟むように聞こえてくるのは、硬質プラスチックがぶつかり合う乾いた音。
 例え平日であっても、キューケースを担いでふらりと一人で訪れる客で四台ほとんどが埋まるビリヤード。週末になってもその勢いは留まらず、静かながらも、確かな盛り上がりを見せている。
「あっちも賑わってますね」
「だね、週末だからね」
 コンッ
 どこかの一台から軽やかな接触音が鳴ったかと思うと、九番の玉がポケットの中へカコーンと落ちる。少し遅れて微かな拍手が三度鳴った。
「このセットもいただきや!」
 聞き覚えのある声を耳にした明石の脳内に浮かぶのは、顔よりも先に特徴的な髷。
 以前のように今日も開店直後から現れた彼は、リリーと話すのもそこそこに台の方へと向かい、時折アイスコーヒーを注文にカウンターへ足を運ぶほかは狂ったように台上の玉に向き合っていた。
「マゲのやつ、今日は調子良いみたいだな」
 朗が独り言のような、それでいて明石に話しかけているような口調でぼそりと呟く。しばしの間何かを考えるように中空を見つめていた彼が明石に向き直ると、その顔はまるでお願い事をする子どものようだった。「明石君ごめん、ちょっと行ってきて良い?」
「えっ?」 
 明石の疑問符はもっともなものだった。
「誰か来たらどうするんですか」
 今でこそカウンターに座る客はいないものの、いつ新たな客がくるかは誰にもわからない。働き出してまだ一週間にも満たない明石一人に任せていいものだとも思えない。
「すぐそこにいるんだから大丈夫さ、リリーだっているし」
「でも……」
「頼むよ」
 縮こまらせた体の前で両手を合わせ、その隙間から覗くように懇願する朗の姿は、驚くほどに熊だった。その姿に不思議な油断を許した明石は、ついつい承諾を示して頷いてしまう。
「ちょっとしたら戻ってきてくださいよ、自信ないですから」
 明石から許しを得たことに顔を綻ばせた朗は、短く「ありがと」というとカーテンの向こう側に姿を消し、そして数秒もしないうちにまた現れる。右手には持ち手に装飾の入ったビリヤードのキューを握っていた。「何かあったら呼んでおくれ。じゃあ、ちょっと行ってくる」
 不安を貼り付けた表情の明石にそう言い残すと、愛用のビリヤードキューを片手にホールへ出て行った朗。髷の男と、彼に相対する白鬚の老人が玉撞きを嗜む場へと向かうその足取りは、どこか踊るようだった。「ほんとに行ったやん……」
 一人カウンターに残された明石は、朗の後ろ姿を見送る。キューを片手に近づいてくる朗を見つけた髷の男が、「朗やん! よっしゃやろうぜ!」と諸手を上げて歓迎していた。
「勝手やなあ。……けど、楽しそうやなあ」
 自由と勝手は似ているけど違って、きっと勝手の方が簡単なのに中々できない。強いられる我慢に耐えられることを良しとされて、勝手な者ほど疎まれる。すぐ傍の勝手を見て見ぬ振りしながら、遠くの自由に手を伸ばす。それが明石にとっての正しい大人像。
 ぐるぐるぐると、明石の中を言葉が巡る。
 自由も所詮、力ある者の勝手に過ぎない。自由とはきっと、勝手を許されない者が求めるまやかしの宝。けど、それを見て涎を垂らすのが正しい大人であって、正しい大人になることが、きっと人生の成功というのだろうか。いやそれだってきっと……
「うわっ、ごめーん!」
 明石の頭の中で始まりかけていた堂々巡りを許さないのは、またもや店中に響くようなリリーの声。どうやら、彼女のミスでペアが負けることになったようで、膝を抱えてしゃがみ込んだリリーが両手で顔を覆っていた。
「いぇーい、リリーの負けー。さあ、テキーラテキーラ」
 勝ったペア側だと思われる男性が呷るように手を叩く。男性が連呼するのは、最早罰ゲームで耳にすることの方が多くなった度数四十度のアルコール「テキーラ」。ここ「j-bridge」でも、カクテル用に使うものとは別に、せめて飲みやすくと冷凍庫でキンキンに冷やした罰ゲーム用のものが置いてある。
「うそー! テキーラはやだー!」
「それは無しやぞリリー、罰ゲームや!」
 こういった場合にかかる酒代はお客持ち。それは男性達も承知していることであったし、リリーのような容姿端麗な女性の酔った姿を見たいといった、ふしだらな欲望だって当然あった。
 しまいにはリリーとペアになっていた男性までもが混ざって、しきりに急かす男性達であったが、リリーもしぶとく粘っていた。
「お願い! テキーラの代わりに、あそこにいる明石君が作る激マズドリンク飲むから! ねっ?」
 リリーの手の平がカウンターに立つ明石を示すと、それに導かれるように六つの瞳が集中すた。
 傍観を決め込んでいた明石は一転して舞台に引きずり出され、そんな彼の元には素早く立ち上がったリリーがかけよる。
「リリー。ちょっと、激マズドリンクって何? 知らないんで……」
 明石の言葉を遮るように、ちょいちょいと手で顔を寄せるように指示を出すリリー。それに従った明石の耳元には、リリーのささやく声が響きわたった。
「お願い、なんとかやってみて。お酒はちょっと嫌なの」
 その話し方は、彼女に弟がいることを思わせるような柔らかなトーンで、明石にやってみようと思わせるのに十分な力を持っていた。
 罰ゲームとして美味しいと感じない液体を流し込むこと。それ自体は明石にも経験があった。ただそれはテキーラのような高度数のアルコールを飲むことが暗黙の了解。そう考えていた明石にとって、リリーの言う「激マズドリンク」は、どこか抜け道のようで少し気にくわなかった。「……ほんとに不味くてもいいんですか?」
 無礼講を確認するように明石が尋ねる。
「念のためね、よろしく」
 立ち去り際に「それとテキーラ一つね」と告げて、カウンターを見続けていた三人の男性の元へと戻るリリー。理由がいったいなんであれ、初めてリリーに頼られる形になった明石は、ざっとカウンターの裏側に目を配った。
「さて、どうしてやろう」
 客から見ると正面、明石からすると背面の壁に取り付けられた手製の棚に並ぶのはスコッチやバーボンといったウイスキー。カウンターの上に立ってメイン顔で並ぶのは果実のリキュールやキュラソー、ジンやウォッカなどのスピリッツ。
 そんな風に日の目を浴びることも無く、客側から見えないようにカウンターの裏側をえぐってできた空間に並ぶのは、カクテルに使うガムシロップやレモンライムの果汁。その隣には軽食として用意しているピザ用のタバスコなど、材料になりそうなものが並んでいる。
 決してメインを張る事は無いながらも平気な顔で暗がりに並ぶそれらに対し、大げさな親近感を覚えた明石。リリーからの頼み事で生まれたこの機会は、裏側の住人たちにとっては一世一代の晴れ舞台だと鼻息を荒くする。
「最高に不味くしてやるからな」
 明石はそう言いながら、影のかかる位置からひとつひとつ取り出し、点呼をとるように手元に並べていく。いくつかの何やらが混ざり合って出来た液体は、見るからに奇妙な青色をしていた。
「出来た! リリー……」
 彼が顔を上げると、リリーが再び手招きをしていた。明石を待っている間に次のゲームが始まっているようで、その場を離れることが難しいらしい。
「カウンター……」
 朗が見ているかの確認をあえてしなかった明石は、右手にテキーラ左手に特製ドリンクと二つのショットグラスを持って、意気揚々とホールへ繰り出す。遠くに見えていたリリーの所までは、たった十一歩で辿り着いた。
「お待たせしました! こちらテキーラと……」
「何それ! 絶対不味いじゃん!」
 右手のグラスをリリーのペアの男性に手渡している間に、左手のグラスがリリーに引ったくられる。それを掲げて見せたリリーは、「見て、見てこれ」と関係の無い周りにまで見せびらかしていた。
「海くん、これは日頃の恨みが籠もってるな?」
 鼻の付け根あたりに皺を寄せ、いたずらっぽい笑みで明石を見るリリー。慌てた明石をよそに、待ちに待った罰ゲームドリンクの登場で一帯は盛り上がっていた。
「ウェーイ! やっときたな」
「さあ、待たせたんやしさっさといってや!」
 周囲の煽り声に急かされるように、まずはリリーのペアだった男性がテキーラを呷る。「ウゲエ」と顔をしかめた男性は、続けて手近にあったジョッキを掴み、五臓六腑を洗うように流し込んだ。
「くわあっ、ほらリリーもいけっ」
 鼻息と同時にあえぐような声を出しながら、空になったグラスを掲げる男性は、優位に立った位置から見下ろすようにリリーを急かした。
「そんなに急かさないで! うー。いくよ、いきます!」
 自分を鼓舞しながらグラスを一気に傾けるリリー。中に入った液体がリリーの体内に流れ込むにつれて彼女はどんどんと顔を歪め、歪めながらも休むこと無く、一息で飲み干した。
「まっず! 何これまずすぎるんだけど!」
 底に青色が残ったグラスを手に、小型犬のように舌を出すリリー。その様子を見た男連中は幾分か満足そうにして、リリーの姿に手を叩いて賛辞を送った。
「いい飲みっぷり!」
「さーあ、次行こう! またリリーを罰ゲームにしてやろうぜ」
 男達の言葉が飛び交う中、明石はまるで違う方向を見ていた。隣の席でも、もうひとつ奥の席でもまた繰り広げられていたのは呆れるほどに中身の無い会話。
「そういやさっきこんなことがあってさ」
「うそっ、私もこの前あんなことがあったんよ」
「まじか! それよりそれどうなってんの?」
「どれー?」
 言葉と言葉が繋がっていないはずなのに、平均台を渡るように前へと会話が進んでいく。尻すぼみに盛り下がっていったかと思えば、急に大爆発を迎えて笑いの渦が巻き起こる。驚いたことに、その二人は別のグループとして来ていた客同士。
「なんだ、これ……」
 明石が見たその景色もまた、一種の舞台のようだった。人と人が織りなす寸劇。そこにはお互いの背景も肩書きも、人格だって必要ない。ただそこで起こった一幕をつづかなく終えるために言葉を交わし、角度の違う二本の線がひとつの点で交わったかと思うと、振り返ること無く晴れやかに全く別の方向へと線が延びてゆく。そこには信頼もへったくれもない。
「ははっ、なんだこれ!」
 明石は面白くなって笑った。右を見ても左を見ても、そこで起きているのは偶発的な会話。笑い声と冗談交じりの怒声が店内を埋め尽くしている。その中に自分もいることが不意におかしくなった。

「いらっしゃいませー!」
 野太い声は朗だった。声のする方に顔を向けると、朗が首だけで入り口の方を示す。
「あっ、やべ」
 入り口にはカップルにも親子にも見える二人が立っていた。慌てて明石がそっちへと駆け寄る。
「いらっしゃいませ、ダーツですか、ビリヤードですか?」
 二人はちょっと顔を見合わせ、声を合わせて「ビリヤードで!」と答えた。その姿にただの夫婦だろうかと思い直しながら、テーブルへと案内する。

「生ビール二つっと」
 オーダーを復唱しながらカウンターに戻ると、遊び終えて満足そうな朗が待っていた。火を灯した煙草を二本の指で挟み、ゆったりとしたリズムで呼吸を繰り返している。
「あっ、すみません。ちょっと見逃してて……」
「いいんだ、大したことじゃ無い」
 滑らかな朗の口調は、それが本心であることを思わせた。
「イェーイ!」
 ホールを背にした明石の後頭部を揺らすような大声が、幾度も波打って響き渡った。突然のことにぎょっとした明石のことを、朗が笑っていた。
「うるさいだろ?」
 この騒がしさが好きなんだ、とでもいうような表情をしている朗は、ついさっき見せた表情よりも、随分と満足そうな優しい表情をしている。「はい、うるさいです。けど、それよりももっと……」
 温かいです。
 最後の言葉は口に出さなかった。まだ自分があの温かさを構築する一部になれていないことが悔しくて、なんとなく言わなかった。
 雑多な人々が無秩序に作り上げる喧噪は、店が閉まろうとする午前五時頃まで、息継ぎをすることなく続いた。

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