見出し画像

始まりの暁光

「よし、もう少しだ」
 そう言って少女の手を引くのは赤い髪の少年。後ろを振り返ることなく突き進む彼にとって、とめどなく降る塵は何の妨げにもならなかった。
「待ってよ。ちょっと、置いていかないで」
 握った手を離さぬよう、息を切らして後を追うのは三つ編みの少女。昨年の誕生日に両親からもらった手首の飾りが、音を立てて震えている。
 彼ら二人が目指すのは、森の奥深くに成っていると言われる不思議な木の実。その木の実を一口齧れば、天高くそびえ立つ壁の向こうへと旅立てる。街にいる商人から聞いた話だった。
 二人の心は踊り、胸は高鳴った。そんな二人はある晩、両親に黙って家を抜け出す。
 道中恐ろしい獣に襲われながらも、上手く身を躱し、時に立ち向かいながら森を進んだ二人。木々の濃淡が重くなり、街のざわめきや野の鳥が鳴く声が聞こえなくなった頃。深紅の宝石のような実をつけた一本の木を目にする。
「あれだ! 話に聞いた通り、きらきらと光っている」
 木の実を一つずつ手に取ると、歩みを進め今度は壁の前へ。手に持った木の実が、今か今かと時を待っていた。
「いくぞ」
 少年の声に合わせ、木の実を齧る二人。酸味のある果汁が喉元を通り過ぎた頃、切れ目の無かった壁には扉が現れた。
「なにあれ、怖いよ」
 扉は不自然なほどまばゆい光を放ち、彼らを迎え入れんとしている。
「怖いもんか、これで壁の外だ」 
 喜び勇んだ少年が扉のノブに手をかける。ずっしりとした重みは彼の手に伝わり、スッと消えてなくなった。
「開くぞ」
 開いたわずかな隙間から覗き見えたのは、何も存在しない真っ暗闇。ただそれが在るだけ。少年がより一層力を込めると、扉はいとも簡単に開き切った。
「わあ!」
 局地的な突風が彼の背中を叩く、少年はそのまま扉に吸い込まれてしまった。
「助けて……」
 言葉と共に消え去る少年の姿を、一人残された少女は茫然とした顔で眺めていた。扉からは薄黒い液体が漏れ出してくる。
「なにこれ。……来ないで!」
 打ち出されるようにその場を駆けだした少女。彼女を追うようにうねる流れは、あっという間に少女を飲み込んでしまうも、勢いをとどめることは無く、徐々に手足を広げると、直に街全体を飲み込んだ。
 黒一色に塗りつぶされた街には、生物がいなくなった。人はもとより、動植物のすべてがその活動を停止する。後には、ゆらゆらと宙を舞う死者の魂が笑っていた。
 時にそのままふらふらと。時に入れ物となった肉体に入り込み、懐かしむように手足を振るう。思うがままに暴れる死者の夜は、彼らが満ち足りるまで終わることは無かった。

「っていう話でしょ? 壁は危険だよって話。もちろん知ってるよ」
 街の中央に位置する丘で語らうのはノイとレガ。空に浮かぶ月が、塵を押しのけて彼女らを照らす。
「この街に住むものなら誰もが知ってる話だもんね。でも、誰がその話を伝えた?」
「誰って……」
 レガにわかるわけは無かった。レガだけでない、この街ではノイ以外に知る者はない。
「それもあの山の向こうに行けばわかるさ」
 ノイが指差すのは遥か遠くに見えるいびつな形をした山。街に住む多くの者にとっては壁がある場所のそのまた遠く。
「俺覚えたよ。あれは山って言うんだろ?」
 レガも同じ方向へと視線を向ける。その方向には、家々と森が広がる中でそびえ立つ塔が、変わらずひと際目立っていた。
「いよいよ、明日だね」
 トロスが死んでから三年の月日が流れ、レガは初めての戦争を明日に控えていた。
 トロスが命を落とした半年後。レガの母、コットの命をも塔は奪っていた。
 幾度となく身を投げることの異常さを語ったレガの言葉は、彼の母には届くことが無かった。それどころか、トロスの死をきっかけに精神が異常を起こしたのだと、話すたびに母は嘆き涙するばかりだった。
 レガは母の死を見送ることは無かった。塔へと向かう日の朝、コットはレガに対して深く頭を下げた。一人残すことになってすまないと。
「ああ、明日だ。……でもあんた、本当にいいのかい?」
 一人になったレガは、トロスの友人であったパーシルに引き取られた。その数年後、パーシルもまた自らの命に終わりを与えてからは、ノイの元に身を寄せていた。
「うん……。僕の居場所はもうこの街に無いよ。だから、みんなと一緒に行くさ」
「そうかい」
 草木の生い茂る今の季節、丸坊主だった丘にもたくさんの新芽が顔を出している。柔らかな花の種子が風に乗り、塵を味方に遠くへ飛んでいく。
 ひと際大きく広がった塵の塊が、二人の頭上に降り注ぐ。それは、この街での日々を思い返すのに、十分な光景だった。

「ノイさんが生まれたのは、あの山の向こうなの?」
 壁の存在を認識しなくなったレガは、もう触れることはおろか、その目に映ることすら無い。
 広がるのは壁の中とそう変わらない光景だったが、遠くに中央の丘よりも高いものを見つけ、それが山であることをノイの口から告げられる。その向こうにノイが生まれ育ち、そしてこの大陸を治める主が住む地があった。
「ああそうさ……」
 広がる草木はのびのびと生い茂っている。そこを我が物顔で闊歩する生き物の姿も見えた。
「あれは何?」
 見たことの無い生き物の姿、遥か遠くまで広がる景色。父に見せたかった。母を連れてきたい。目新しいものが広がる光景に、存分に視線を航海させるレガとは対照的に、ノイは一点を見つめていた。山々が連なる山脈の向こう。懐かしき故郷を。
「ノイさん、どうしたの?」
 自らの目的を改めて噛みしめるようにしていたノイを、レガの声が呼び戻した。幼い頃からタカダガの世話をしてきたレガは、人の心の機微に対しても、繊細に感じ取ることが出来るようになっていた。
「……なんでもないさ。いいかいレガ、今日のことは誰にも話すんじゃないよ。誰が聞いてるかわからない」
「聞かれちゃまずいの?」
「ああ、まずいね」
 役目を忘れていたかのように月が塵間から現れ、辺りの動植物を等しく照らす。レガを見つめるノイの視線は、その光と同じくらいにいじらしかった。

「あの時のレガのはしゃぎっぷり、今思い出しても笑えるね」
 三年の時が流れようとも変わらない月明かり、レガはそのことが不満で仕方なかったが、いつの頃からか、不満の中に照れくささを感じている自分がいることを、心の奥底にしまっていた。
「俺よりもP・Pだよ。あいつ、驚きすぎて倒れたんだよ? ノイさんにも見て欲しかったなあ」
 レガが壁を認識しなくなってすぐのこと。レガはうっかり、壁についての話を友人に漏らしてしまっていた。
 興味を持った友人の熱望に、レガは全てを話し、ノイが自分にしたのと同じく壁の外に導いていた。
「あのときはもうあんたを放っておこうかと思ったよ。私らのことが向こうの人間に知れたら、命に関わるって言っておいたのになあ」
「なーに話してんだ?」
 二人の会話に割って入ってきたのは、父と同じく浅黒い肌をしたピーシャル・ペントス。
 父親同士も仲が良く、レガのいちばんの友人である彼。例に漏れずイニシャルはPで統一されている。父であるパーシルが命を投げてからは、レガと同じくノイの元で暮らしていた。
「ようピーシャル。準備はどうだい?」
「ばっちりさ。ブリンゴ達も問題なさそうだったし、俺はもう明日が楽しみで仕方ねえよ」
 低い鼻を高々と掲げ、鼻息荒く喉を震わせるピーシャル。そんな彼を見てノイとレガは顔を見合わせて笑った。
「P・P、顔に何かついてるぞ」
「うえっ、ほんとかよ。きっとあれだ、泥でもついたんだよ」
 「かっこ悪いなあ」とぼやきながら、袖口で顔を拭うピーシャル。明日に控えた年に一度の戦争の日に、ノイやピーシャル、そしてレガは街を出ることに決めていた。
「すべては明日だ」
 心の奥底を鼓舞するようなノイの声が、静かな夜を勇気づける。
「明日、あたしらは戦争を各地で引っ掻き回す」
「俺とピーシャルはその間に食料などの物資と共に外へ」
「そんで、あそこに見える山で合流。だよな?」
 三人は顔を見合わすと、成功を祈りそれぞれに頷いた。にじみ出る不安や恐れなど、眼前の者らへの信頼でかき消せるとでも言わんばかりに。
「いよいよ、ノイさんが故郷に帰る日が来たんだね。楽しみ?」
 言葉少なに物事を尋ねるレガのあどけなさ。ノイがその姿に感じるのは、わずかな安らぎと大きな心配。ここぞとばかりに顔を出したのは、隙あらば表舞台を狙う老婆心。
「レガ、あんたわかってるのかい?」 
「何をさ」
 丘に座する二人、レガがノイの顔を見上げると、ツンとした上向きの鼻がやけに尖って見える。
「壁が無いなんてことをみんなが知ったら大騒ぎだ。でも、それが広まっていないのはなんでだ?」
「何回も聞いたよ。大陸の主でしょ? ノイさんの故郷に住んでるやつ」
「ああそうだ、そいつが……」
「そいつが壁について知ったものを殺すように命じてる。であればこの街にも主の手の者がいるんだ。だから街を出ることは秘密にしないといけない。でしょ? 何年も聞かされ続けてたから覚えちゃったよ」
 得意げと言うよりは悔しさを帯びたレガの表情。ビーク家の一人息子として育ってきたレガだったが、姉がいたらこんな感じだったのかと意味の無い想像を繰り広げる。
「なあノイさん」
 顔についた泥を、ただ袖口で広げただけのピーシャルが二人と同じように丘に胡坐をかいた。街の明かりはぽつぽつと灯るばかりで、明日に備えて眠っているものがほとんどである。
「なんであんたはそんなに詳しいんだ?」
「なんでって、ピーシャルも聞いただろ? あそこがノイさんの故郷だって」
 腕を交差させて組んだレガは、それを解くことなく顎で指す。
「いや、だからそれが変なんだって」
「変?」
 ピーシャルが届ける言葉に対し、ノイはというと注意深く言葉を探し、ただ黙って聞くばかりだった。時折乾いた唇を湿らすようにしながら。
「ああ変さ。ノイさんは壁や外の世界について色んなことを知ってる。にも関わらず、今こうやって生きているってこと自体がおかしくないか?」
 にわかに厳しくなったピーシャルの視線が、ノイの整った顔立ちにぶつかる。その鈍器で刺すような視線は車座いっぱいに広がり、さらさらと流れる風が主役の座についた。
 ノイから与えられる知識と、ノイが生を享受していることの矛盾について、レガも思うところがないわけではなかった。
 ノイやブリンゴらと共に過ごした三年もの時間の中で、ノイから聞いたおとぎ話のような世界の話。タカダガに似た生物の馬、川なんてものともしない程にだだっ広い湖は、未だ信じていない。
 様々な話を語るノイは感情を置いてかのようで、時折見せる暗い影に疑問を感じることもある。
 それでもレガが深く尋ねることをしなかったのは、自分を騙すことの不合理さと、ノイに対する猜疑心を必要としない心。それらがより上位にあったからに過ぎない。
「それについては……」
 長らく口を噤んでいたノイの声は、辺り一帯に昼をもたらすような激しい光と共に劈いた轟音に遮られた。
「うおうっ! なんだ⁉」
「なに、この苦しい匂い……」
 身に纏う布がたなびく爆風、鼻を突くのは風に乗る火薬。不穏の二文字を傍らに、それらが彼らの元に到達する。
 光の中心は東地区に広がる猛々しい森。明日に備えてブリンゴらが体を休めているはずの、ノイらが過ごしてきたあばら家。
「まさかっ!」
 体が竦むほどの轟音にも関わらず、ノイがその場から駆け弾ける。
「ノイさん!」
「待て」
 後を追うように走り出しそうとしたレガは、咄嗟に彼の腕を掴んだピーシャルによって引き留められた。胡坐をかいたまま立ち上がる気配の無いピーシャルは、俯いたまま、顔を上げようとしなかった。

【初めからこの作品を読んでいただける方はこちら!】

【他の作品はこちら!】


読んでいただき、ありがとうございます! 楽しんで読んでいただけましたか? よろしければ今後の活動資金として、300円、500円、もしくは1000円のサポートをしていただけると嬉しいです😊 いただいたサポートは小説家という夢に向かって進むための燃料にさせていただきます!