純文学と大衆文学ってなんじゃあ?
再掲記事でございます。
初稿では、以下の方達から、魅力的なコメントをいただきき、とても嬉しかったです。そちらのコメント欄もご覧いただければうれしいです。
<コメントをいただいた方達>
日暮えむさん
琴花酒さん
蝦空千鶴さん
maiktsuでBlog副デスク代理さん
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小説を読む人がよく聞く言葉に「純文学」と「大衆文学」というのがあると思います。音楽でいうと「クラシック」と「ポピュラー」みたいな区分けですね。
純文学は芥川賞で大衆文学が直木賞と言っても、一昔前まではなんとかなってました。
最近ではこの境界は曖昧になってきています。
せっかく小説が書き終わったばかりなので、忘れ去られないように今回の私の小説を例に出しますと、第16回の「私と小姫について」が純文学的になっています。
今回の中編小説は、テイストをハードボイルドチックにして、中身にはいくつかのどんでん返しを仕込みましたので全体構成としては大衆文学になっています。
でもそればかりだとつまらないかなと思い、独特の深みを与えるべく第16回は思いっきり純文学路線にしました。
そして、今回トロフィーが出たのは、この純文学路線まっしぐらの第16回の「私と小姫について」だったのです。「スキ」をたくさんつけていただき、本当にありがとうございました。
(_ _)
そうすると、純文学は芸術をかしこまってやるもので、大衆文学は人気が出るように面白く作るという分類は当てはまってないなと思います。
『Alone Again』はどっちかに分類するならば、明らかに大衆文学であり、純文学的なのはこの第16回だけだったからです。
でも、私はこのトロフィーが大満足なのであります。
純文学で評価されたいということではありません。
そうではなくて、純文学的なものの目立たせ方を今回密かに実験したからです。純文学は最初から最後までその調子でやりますと、いわゆる芸術性はたしかにその密度を高めていきます。
その副作用として読んでいてハラハラ・ドキドキ感がやや後退するということもあります。
そうですね…漱石で言えば『こころ』は純文学と大衆文学的要素が絶妙にマッチしていますが、私が漱石作品で一番好きな『道草』は純文学色が濃いので、そこに東野圭吾的なものを求めてもあまりおもしろくないかも知れません。
純文学と大衆文学の定義としては、芥川、谷崎論争が完璧ですので、ちょっとウィキペディアから引用してみましょう。
新現実主義と称された芥川龍之介が、『文芸的な、余りに文芸的な』(『改造』1927年4~8月)において、「“筋の面白さ”は、小説の芸術的価値とは関係しない」と主張し、「筋の面白さこそが、小説という形式の特権である」とする谷崎潤一郎と対立する。この頃から、大衆小説が広く読まれるようになった。芸術性重視の作家たちは、大衆小説との差別化を図るために、自らを純文学と定義するようになった。こうして、現在の意味と同じ「純文学」という用語が定着した。 Wikipedia 「純文学」
純文学と大衆文学の違いがあれこれ言われていますが、これ以上の定義はありません。
要するに、純文学はストーリー性抜きで読める(楽しめる)ものであり、大衆文学はストーリー性で読める(楽しめる)ものだと言えるでしょう。
『Alone Again』はストーリー性重視で全体を構成し、第16回でストーリー性を外した純文学的楽しみを入れてみました。
これが、私が第16回でトロフィーを頂いたことに大満足の理由です。その他の第1-15回とラストの17回の筋立てがあってこそ、第16回の「私と小姫について」が引き立った(みなさまにもそう評価していただけた)と、勝手に解釈しています。
このように、現在では以前ほど純文学と大衆文学は意識されません。それはジャンルが曖昧になったと言うよりは、それぞれの違いを先達の文学界の巨人たちが追求した結果、その良いところを組み合わせていくということができるようになったということだと思います。
将棋に似ていますね。
いろんな古くからの定石を研究して、新しい戦法を編み出していくようなものです。
このように考えていくと、文学史や文学理論も理屈抜きに、大変おもしろいものではないかと思いますです(^▽^)。
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