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【ショートショート】真の理解者

「攻めろ」

 ホワイトボードに書かれた三文字を数秒間見つめた後、五人は視線をずらしてストレッチを始める。音を立てず滴り落ちる汗は、真夏の体育館スポーツの過酷さを物語る。選手を取り囲む親たちの声は塩水のごとく混じり合い、意味を成さない雑音として体育館中に響き渡った。

 ハーフタイム終了のホイッスルが鳴る。俺は選手一人ひとりと目配せをするが、各個人に注がれる眼差しはオーダーメイドだ。ただ、どの眼差しにも深い理解に基づく愛情だけは共通している。選手たちはまるで詳細な指示を受けたかのように、こくりと頷き、再びピッチに立った。

 後半開始のホイッスルが甲高く鳴り響く。

 ホイッスルの音とともに、靖雄の記憶は八年前にタイムスリップした。


「ピーッ!」

 真夜中に耳を突き刺すホイッスル音に飛び起きた靖雄は、息子の部屋へと駆けた。すっと開いた襖の奥では武史が目を開けてベッドに横たわっている。

「…大丈夫か?どうかしたか?」

「……………」

 生まれつきの言語障害で話ができない武史は、何か困ったことがあるとホイッスルで両親を召喚する。表情と仕草から察するに、どうやらただ寂しかっただけのようだ。周りから理解されないストレスからか、そのようなことは頻繁にある。

 中学校で教員を務める靖雄は、数学の授業中、一本の電話を受け取った。泉ヶ丘小学校−息子が通う小学校からの電話だ。こんな時間に小学校から電話なんてどうしたんだろう。そう思いながら生徒たちに謝り、職員室に向かう。

「…はい。…分かりました。…すぐに向かいます。…失礼します」

 受話器を置いた靖雄は、考えられる全ての体中の穴を閉じた。目、耳、口、鼻、肛門、そして毛穴に至るまでも。体内で言葉を紡ぎ出す全ての情報を外界からシャットダウンしたかった。それでも体内でふつふつと湧き上がる心の声が、まるで靖雄を襲う強姦者のように感じられ、靖雄は思わず叫び声を上げた。

 −武史は自殺した。飛び降り自殺だ。

 小学校の校庭に横たわる武史は、軽く打撲している程度で死んでいるようには見えない。しかし、話しかけても答えはない。それもいつものことだから、なおのこと死んでいるようには見えなかった。ただ、白目を向いた目を見れば、死んでいることは一目瞭然だった。

 翌日、武史の部屋の勉強机の引き出しを開けると、『遺書』、と、小学校では習わない難しい漢字が恐ろしいほど綺麗に刻まれた茶封筒を見つける。震える手を必死に抑えながら封筒を開けると、一枚の便箋があった。

『明日、ぼくはこの世から去ります。今までぼくによくしてくれたすべての人、ありがとうございます。でも、ことばを話せないぼくの気持ちをほんとうに分かってくれる人は誰もいませんでした。ことばを話せないしょくぶつやベッドとかは分かってくれたと思います。さようなら。たけし』

 俺は息子の一番の理解者、心の避けどころだと信じていた。しかし、武史にとって俺は植物やベッド以下。なぜだ。俺は親として深い愛情を注いできた。真夜中にも飛び起きて息子の面倒を見た。一日たりとも息子のことを考えない日はなかった。それなのになぜ……。

 悲しみよりも怒りに近い感情を抑え込みながら、武史の部屋に置かれた観葉植物に視線をやる。それはただそこにひっそりと佇んでいる。無言……。

「無言……。武史に必要なのは慰めの喧しい言葉ではなく、無言だったのか」

 武史は無言というボールを投げた。しかし、俺はそれを受け止めず、別のボールを投げ返した。武史が欲しいのはそんなボールではなかったのだ。

 その時から俺は、武史が死んだ四月十七日にちなんで、毎月十七日を『無言の日』と決めた。その日は何が何でも喋らない。教鞭を取っても、大事な会議でも、飲み会でも、顧問を務めるバスケットボールの試合でも、絶対に俺は無言を貫き通す。

 相手の気持ちは、自分も相手と同じ状態になってみて初めて分かる。慰めの言葉なんかは要らない。ただ同じ側に立ち、同じ世界を眺める人が、『真の理解者』となれるのだ。武史は俺に大切なことを教えてくれた。


「ピーッ!」

 選手が倒れた。靖雄チームのエースだ。靖雄の指示通り、敵陣に大胆にドリブルで切り込んでいく際、相手選手が突き出した右手が思いっきり下腹部に入ったようだ。

 地面で悶える選手には、喧しい大人たちの同情の声は決して届かない。まるで炭酸がしゅわしゅわと音を立てて空中に消え失せていくように。

 俺は自分の下腹部をどんっと殴り、悶えながら無言で彼に駆け寄った。

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