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バイリンガルへの道7(最終回)

さて、思いつくままに書き連ねてきたこのシリーズ。コロラドから帰国したところで終わりにしようと思っていたのですが、あの時点の私はバイリンガル中級よりちょい上ぐらい。その程度の実力ゆえ、帰国後に英語を使わなくなると会話力が徐々に低下して行きました。

しかし、その程度のレベルでも普通の日本人よりは英語を話せるため、大学を終えてから英語を使う仕事に就くことが叶ったわけです。

最初はオーストラリア初の私立大学の東京準備事務所。まだ生まれたばかりの大学に日本人留学生を送る拠点となる事務所の準備段階でのお手伝いです。アルバイトだったのですが、当初の約束に反して、理由もなく正社員雇用を2度拒まれたので転職することにしました。

次が音楽雑誌や書籍の出版社の国際部。これは転職活動をしているときにThe Japan Timesで求人を見つけ、ダメ元で応募した会社です。実際に面接に行ったら、合計11~12人のスタッフが時間差で登場したので「こりゃ落ちた」と思ったら、翌朝「いつから来られますか?」と連絡があり、心底驚きました。

そうして始めた国際部の仕事は、英文事務、英米の駐在員との日々の連絡、編集者が違和感を感じる翻訳原稿と原文・音声の比較、社長出張時の同行通訳、外国人からの英語の電話対応など、英語にまつわる仕事はすべて依頼されました。

また、取材通訳が見つからないときのピンチヒッターも頼まれたのですが、これは入社後3〜4日でいきなり連れて行かれました。通訳も音声起こしもやったことのない私に雑誌編集者たちは「やれば覚える」と。いや、そうなんですけど……たった30分の取材の音声起こしに3日かかったのが懐かしいです(通常は3時間程度で原稿完成)。

この取材通訳を重ねるうちに英会話力が徐々に戻り、音声起こしを重ねるうちに音楽や楽器に関連した言葉を覚えていきました。最初の2〜3年間はメモなしで、すべての言葉を暗記した状態で通訳していましたね(メモという発想がなかった!笑)。

このとき気づいたことは、英語を聞き分ける耳とキレイに発音できる口は健在なのに、脳から発信される言葉の速度が遅いこと。英語で返す瞬発力が落ちていただけでなく、同時に日本語・英語間の瞬間翻訳能力が求められるようになったことが原因です。

とは言え、回数を重ねるうちにコツを掴み、自分の英語がちゃんと通じる状況に自信も得られ、結局は取材通訳と記事などの翻訳をメインとするフリーランス通翻訳者に転身することになりました。

きっと今ではいないと思いますが、あの頃は通訳を雇う人たちの多くが「日本語と外国語が話せれば通訳できる」と本気で考えていました。彼らが外国語を話せるだけでは通訳や翻訳ができないことを実感するのは何年も後のことです。

私の場合は現場で能力を磨くというOJT状態で技術を向上でき、現場で使い物になれば英語の資格など問われない環境でした。TOEICなどの点数で英語力を判断する今の時代では考えられない職人気質な時代でした。

そんな世界に長らく居てしまった私は、もともと資格に全く興味を持っていなかったのですが、世の中の流れに従ってTOEICをやってみようかなと最近思っています。サンプルテスト全問を初見でクリアできても説得力はないですからね(笑)。

私が技術を磨いてきた頃と現在では、通訳・翻訳に求められる能力も資格も異なります。今後はさらに変化していくことでしょう。

ただ、一つ言えることは、通訳にしろ、翻訳にしろ、自分が2つの言語の間で意思の疎通を図る仲介役という意識が必要ということです。そう、重要な責務を担う黒子ということです。私はそんな立ち位置が大好きですね。





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