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ほとんど見えないようなイトが救う世界【その媒介者の心得】

カティアがこちらに向かって歩いてくる。手には一着の服。彼女が私達のところへやってくるときは不穏な鐘が鳴る。

ちょいと大袈裟。けして不穏ではないけど、厄介ごとが戻ってくる証。ボタンがひとつ足りなかったり、ラベルが剥がれてたり。たいしたことない手入れであることがほとんど。

納品前の最終検査を担当している彼女が簡単にできることは、たいていその場でカバーしてくれる。私達、手作業チームの所へ洋服が戻ってくるのは、彼女ひとりでは手におえない時だけ。

けれど極まれに、挑戦状のような修正が突きつけられる。すぐに解決策のあるなしを判断できるものもあれば、やってみなくてはわからないものもある。

先日、やったことのない種類のほつれをカバーする作業に取り組んだ。使う糸はナイロンの極細糸。視力の悪い人なら見えないくらい細い。いちばん細い手縫い針の穴でさえするりと抜け落ちる。

襟の目立つ部分の縫い目からシフォンの布がほぐれてしまったのだ。間違った場所にやたら針を通すと、どんどんほつれが広がるので1mm以下の世界で適切な位置を判断する。

やや大胆に周囲の布を拾いあげてから、自然なミシンの縫い目につながるようにカバーしていく。細かくて正確なストロークと引っ張り具合が必要。こういう作業をするとき、私の頭の中はほぼ空っぽで、必要な動きが勝手にわかる。それを忠実に手先でやるだけ。

スポーツ選手のゾーンに近い状態。

周りがスローモーションにみえるのと同じように、たった1mm以下の世界がものすごく広くみえる。そのどこに針を刺せばいいのか自動的にわかるのだ。私が判断しているとは思えない。

神が降臨している状態。

世間ではぱっと目立つタイプの降臨がもてはやされて、追い求められる。だけど。日々の仕事や日常にも、そういう一瞬はザラに潜んでいる。

それに気づくか気づかないかで
人生観はガラリと変わる。

例えば車の運転。普通に運転して、いつもの職場へ行くことだって本当は奇跡の連続なのだ。ほぼ無意識でアクセルとブレーキを踏み分けている。優雅に音楽を聞きながら。歌いながら。

ほとんど見えない糸。
ほとんど見えない意図。

周りに見えない意図が救える世界がある。日常的に。いつでも。世間様なんていないのだ。なんとなく私達が造り上げた幻。その幻の尺度や影やルールにおびえて、やりたいこともやらず、言いたいことも言えずの人生じゃもったいない。

見えないイトを操る者の心得。

意図を公の場に公表しなくてもいい。
誰かの意図に従わなくてもいい。
変えたくなったら変えればいい。

目に見えるサポーター数やフォロワー数、クリック率などが闊歩する世界で暮らす必要はない。売上高や販売競争、優劣比較の世界から完全脱却してかまわない。

確信して言えることがある。少なくとも今現在、私はそんな世界で生きて暮らしている。そして仕事・家族・友達・パートナー・環境・趣味・生活、すべてに恵まれていてしあわせだ。これをリア充っていうのかな?

派手に目立つ意図しか見ない(見せられている)世界から抜け出して、ほとんど見えない糸が彩る世界を味わうとやめられない、とまらない(かっぱえびせん🎶と歌いたくなる)。

現実的に一着の服を救った。40年の経験を持つ人があきらめかけた修理。たぶん12〜15万円程度の販売価格。こうして値段を書くと、え?そうなんだ!すごい!と反応する人が増えるからおもしろい。自宅用だろうが高級服だろうが、作業は同じなのに。

裁断・ミシン・手作業・アイロン・納品・検査・運搬に関わる人々の問題を極細の糸で救った高級服の救急隊員っていう感じかな、私は。

イタリアは満月の夜中です。
おやすみなさい。

Grazie 🎶