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ママだからこそ。独り旅のすゝめ。

はじめに

こんにちは。作家業をしております、みーこと申します。

ママのみなさん、「me time(独りの時間)」 持てていますか?
仕事に家事に雑多な庶務に…加えて、育児!
まぁ、なかなか難しいですよね…

私も子供が赤ちゃんだったころは、
me timeをたった1時間でも取れたら、めっちゃ幸せだ~!と感じていたものです。(とは言え、あっと言う間に終わってしまい、愕然とするのですけどね…苦笑)
会社員時代だった頃に育休から職場復帰した際は、
四六時中の育児から開放された喜びが大きくて、安堵もしました。

しかし、私は問いたいです…。
本来は、me time ではないのに、
「準」me time的に位置付けている時間は、ないですか?

例えば、
子供を保育園に預けている時間とか、
子供が幼稚園や学校で家にいない時間とか…。

だって、前者の場合は、お仕事しているわけですし、
後者の場合は、多種多様の家事タスクをこなしているわけです。
それでも、多少当てはまる節があるのだとするならば、
その原因は、ずばり、何かに対する「罪悪感」でしょう。

そんな罪悪感を払拭すべく、マガジン『育児ノオト。』の初回記事は、
ママである以前に、「私(me)」であることに回帰するべく、
ママだからこそ、独り旅をおすゝめするエッセイ、『回帰するキッチン』を据えることにしました。

ところで、我が家の場合、食事作りに関連する家事はパートナーが担っています。
※家族構成は、夫婦+5歳娘+3歳息子です。
つまり、私は普段キッチンには立ちません。
(洗い物をしたり、たまにパートナーが料理できない日を担当するくらい)

子供を産む前からも、料理が上手とか得意とかというわけでもないため、
料理のレパートリーも経験値も増えず。

その結果…
習慣的に料理しているママさんが偉いなぁと対比するほど、
段々と料理に対して苦手意識を覚えるようになりました。
(例えば、家族以外の誰かに手作りの料理を振舞う勇気が持てません)

そして同時に、にわかに自己肯定感が下がるような感覚にもなっていました。

一方で、仕方がないことだ、と割り切ってもいました。
だって、私には食事以外に多くのことをしなくてはいけないのだから、と。
時間と労力と思考力を多くとられてしまう「料理」という家事を手放すのは取捨選択の末なのだ、と。

そんな私が、先日、車をかっとばし、ひとり旅へ。

舞台は、人と農と食とアートをテーマとした複合施設、「KURKKU FIELDS」(千葉県木更津市)。一歩そのフィールドに入ると、多次元に存在するもう一つのコミュニティ(村のような)の一員となったような感覚を覚えます。

(個人的感覚ですが、村上春樹さんの小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」の地図を彷彿とします)

そして、私は、宿泊施設「cocoon」の利用者のみが専用できる「takka」という共同のキッチンラウンジで、至極平和で奇跡的な体験をしました。
以降は、本編『回帰するキッチン』にてお読みいただけると幸いです。


『回帰するキッチン』

共同のキッチンラウンジ「takka」
ミナ・ペルホネンや柳宗理などの調理器具が揃う。

未だかつて、5時間近くもキッチンに立ったことなどあっただろうか。

その日の昼下さがり、ほろ苦くも、深みある甘味が特徴の春野菜たちを尋ねるファームツアーへ。
例えば、ナチュラルな畑では春菊やニンジンやネギを、蛍も棲む清らかな小川では、クレソンを。私はそもそも植物全般の知識が浅いので、教えてくれなければ、彼らを特定できない。名前を忘れてしまうくらいに、多くの種類の野菜をせっせと夢中で収穫した。

そして時折、そのまま洗わずにパクリ。素朴な味わいが口に広がる。今晩の役者たちを誰にするかのオーディションである。
(小さなネギ坊主や、白菜が伸びきった状態で採れる小さいえんどう豆のようなものすらも食べられますよと珍しい食材を促されるものだから、味見しつつなのである…笑)

通常のスーパーでは見かけない、土だらけの規格外たち。
しかし、収穫したばかりの野菜には、高貴なエネルギーが漲っている。

その美しい彼らを冷たい井戸水にくぐらせ、丁寧に土を洗い流していきながら、サラダとスープを夫々どの選抜メンバーで作ろうかしらと、世界で一番の幸せな思考に耽ってゆく。

井戸水のプールで気持ちよさそうに泳ぐ野菜たち。

そう、そう、ファームツアーでのハイライトもここへ記したい。

数日前に生まれたばかりのヤギと水牛の赤ちゃんたちとの触れ合いは、このシーズンに「cocoon」に宿泊したからこその出会いだった。ましてや、水牛を飼育している酪農家は、本州ではここ「KURKKU FIELDS」だけだそう。

「関係者以外立ち入り禁止」のフェンスが開け放たれ、その中へ案内人に通されると、まるで小高い山に登ったが如く、空気が澄んでいるような気がして、雲がかった西陽差す橙色に染まっていく空を見上げ、一呼吸した。

重厚な牛舎に入るやいなや、40頭ほどが飼育されているという勇ましく美しい角の水牛たちが、ファームツアーの一行を出迎えてくれた。
そして、彼らを見て、息を飲んだ。

成牛も子牛も皆、なんて優しいまなざしなんだ…

静かな感動が沸き上がると共に、確実に時空を超えたような感覚が全身に走った。

いったい彼らはどれくらい溢れるほどの愛情を受けて飼育されているのだろうと想像していたら、極力自然に近い方法で大切に飼育されている過程を説明され、なるほどと因果関係を見出せたような納得感を覚える。

頭や首筋をツアーの案内人に、人懐っこくなでられている様子を目の当たりにして、
この世界の何に対して恐れる必要があるのだろうかと、日常的な思考がいかに些末なことかと、思い知らされる。

この水牛の子達は、なんと、まだ1歳らしい。写真で見るよりも相当大きい。

そして、平和で温かな灯が、心にともった感覚は、数時間もキッチンに立っている時分まで、静かに、ただし、確かに続いていていた。

ふむ、それではと。
彼らからのお恵み、(なかなかお目にかかれない新鮮過ぎる)本格モッツアレラチーズを、シェフの手打ちスパゲティー二、有機トマトソースと共に、メインの役者にと決め込んだわけである。

小気味よく野菜を切り始めると、薪の焼ける癒しの音と香りがしてきた。
振り返れば、薪焼き窯の準備が完了しつつある。
「cocoon」宿泊者の共同キッチンに常駐する優しいスタッフたちに相談。
採ったニンジンはホイルで巻いて、ハーブが香るソーセージは直火でじっくりと焼くことに。

お隣のキッチンに立つショートカットが素敵な女性は、
ストウブのココットに、小さめのコロンとした玉ねぎが手を繋ぎ合うように4つ並べ入れると、野菜くずで作ったベジブロスを注いで薪窯へ。

小2の息子がいるのだけど、野菜はなかなか食べないんです、と苦笑いしている。旦那様と息子さんよりも一足早くキッチンに立ち、おいしい料理を振舞うべく、あれこれ思案する姿に愛おしさを感じる。
我が家の子供達も、野菜はなかなか難しくて…どこも一緒ですね、と話が弾む。

キッチン常駐のスタッフさんとの会話も、ひとつひとつに愛が溢れている。
まるで、旧知の友人宅に招かれているような感覚を覚え、料理をしながらパタゴニア製ビールをぐびぐびと喉に通す。
本当に楽しい会話は、もはやつまみはいらないのである。

ちなみに、この共同キッチン「takka」や宿泊施設「cocoon」をプロデュースした、音楽家の小林武史さんとミナ・ペルホネンのデザイナー皆川明さんらが、ここで一生の友に出会えることができたらいいよねと、オープン前のミーティングで仰せだったようだ。素敵なエピソードを聞き、彼らがここに深い愛情と可能性を感じていることを知り、じんわりと温かい気持ちになった。
※小林武史さんは、そもそも「KURKKU FIELDS」全体をプロデュースしている。

黄色の小花を散らした春野菜のサラダと、薪窯で焼いたソーセージとニンジンを前菜として頂くと、ビールの味わいが格段に上がり、菜の花畑で小躍りしたくなるような衝動に駆られる。

収穫した滋養たっぷりの春野菜たち。
お塩とオリーブオイルでシンプルに。
蜂蜜をとろりとかければ、スイーツのような味わいに。

キッチンスペース内にある食卓で至福に浸っていると、なんと、先ほどの女性から、玉ねぎスープのおすそ分けが!
混じり気のない素朴な甘み広がる味わいを堪能…

小さな玉ねぎがコロンとお椀に。
鉄製ココットで調理したため、黒いスープに。女性には嬉しい。

それではこちらもと、サラダのお裾分けをすると、とても喜んでくださり、その姿を見て、シェアし合うことの尊さを体感。
その時には、既に食卓に合流していた優しそうな旦那様と少しふっくらとした可愛らしい息子さんの笑顔も相まって、更に幸福感が高まった。

そうこうしているうちに、ファームツアーでご一緒したナチュラルな美しさが輝く女性二人組が、キッチンに入ってきた。

フィンランド式サウナで頬を少し赤らめていながらも、メイク直しが施され、小さなビストロでディナーするがごとく、さりげない御洒落を怠らない姿がとても好印象だ。

お互いキッチンで再会できたことを一通り喜び合うと、いよいよメインディッシュに取り掛かることに。

くすみがかった青が粋な小鍋にベジブロスを沸騰させたところで、小口に切った野菜とソーセージを入れる。
(ベジブロスは、手慣れた手つきでスタッフが作ってくれた)

やわやわの生まれたてモッツアレラチーズは、一人分のパスタにしては少し多いので、半分にカット。
(残りは、勿論カプレーゼである。これまた大変な美味。)

みじん切りのニンニクがフライパンの中で香りが立ったら、有機トマトのソースとモッツアレラチーズを出会わせ、さっと1分湯がいただけの生スパゲティー二をすかさず絡ませて和食器に盛る。

気が付くとスープが出来頃に。
塩・胡椒をさっとふりかけたら、小鍋をよいことに、そのまま鍋敷きを敷いて、食卓に並べる。

ネギ坊主はスープへ。バジルの代わりに、ミントをスパゲティー二の上に。

レシピを気にせずに感性のまま作れてしまうのは、素晴らしい食材への信頼の現れである。
そういえば、私が私のためだけに作った食事は、いつ以来だか覚えていない。一人分の食事作りはとかくポーションに気を遣うことも、かなり久々の感覚であった。

そんなわけで、普段でも料理をしないわけだが、
周りの方々に、いいですね!美味しそうですね!などと褒められるではないか。らしくなくて、照れくさいけれども、私は心底とても嬉しかった。
(そして実際に大変な美味しさだった!)

夕方5時からキッチンに立っていたが、ガラス張り壁の先を見やると、とっぷりと日が暮れている。既に3時間以上経過していたことに対して感慨深くなり、日ごろの時間の過ごし方、いや、生き方や人生自体を問いたくなった。

くだんの女性二人組は、ジビエ鍋を絶賛堪能中だったが、食事と皿洗いを終えた私は、少しだけいいですか?と白ワイン片手に声をかける。

もはや酔っ払いの謎の女にも関わらず、懐深いお二人は、もちろんと快く食卓に招いてくれた。これがこの場が醸し出すゆるやかな空気感なのだと、染み染みしてしまう。

ここでも、お鍋のおすそ分けを有難く賞味しながら、「KURKKU FIELDS」で体験して感じたことやお仕事に纏わることなどを会話してみると、いやはや、感性がとても似通っていることに驚く。
特に、おひとりは文筆業を営んでいるという共通点もあり、この出会いが偶然でないような気持ちがしてくるのである。時間も忘れて、会話に花が咲く。

「ここで一生の友に出会えることができたらいいよね」の素敵なエピソードをふと思い出すと、このような奇跡の場所を提供してくれる世界に敬意と感謝の気持ちが膨らんでいった。もっとも、普段の私は、他の宿泊者と交流するような度胸は持ち得ていないのである。にもかかわらず、彼女たちと連絡先を交換し、また会いましょうなどと約束をしている。

最後は全員でお鍋の洗い物。解散の時間は22時過ぎだったため、かれこれ、5時間近くもキッチンに立っていたことになる。
未だかつて、そんな事などあっただろうか。ましてや日常では、諦観の境地が如く料理から離れ、別の事柄に身も心も割かれている。
そんな私がキッチンという場所で、育まれる尊いいのちと対峙しながら、ただ純粋に料理と食を愉しんでいた。それは誰でもない「私」へと回帰していくようであった。

そして、感性を研ぎ澄ませた先で交流した人々は、そんな誰でもない「私」を温かく受け入れてくれた。安心感からなのだろうか、さながら絡まった糸がゆっくりと解かれていくように心が緩み、その晩は、カエルと虫の声に包まれながらどっぷりと眠りについたのだった。

翌朝。朝日が差し込むキッチンで、採れたての卵を使って目玉焼きにする。余熱を使って菜の花をちゃちゃっと炒めて、添え物に。提供してくれたお弁当に追加の一品である。

そして、「KURKKU FIELDS」の敷地を一望できる小高い丘で朝食を満喫した私は、どこからともなく聞こえるヒバリやホトトギスたちの歌声を体全体で味わいながら、やはり独り時間が過ぎるのは早いものだと、半ば呆然としていた。

曲げわっぱのお弁当。ミナ・ペルホネンのスープマグにはジビエのお味噌汁が。
早朝の快晴の下で頂く朝食は格別だ。

帰りたくない…
まだ、ここにいたい…

せっかく回帰した「私」が、どこかへ消えてしまうのではないか。
そんな一抹の不安を感じるわけである。

スタッフや昨夜の女性二人組に昨日のお礼を言って、宿泊のチェックアウトを終えると、後ろ髪を引かれるように敷地内を散策。心地よさそうな日陰の屋外席を見つけて、小一時間、名残惜しさを払拭するようにノートパソコンを立ち上げて小説を執筆する。

すると、突然、ソフトクリームが食べたくなった。
何故なら、子供達とこういった場所に出かける際には、必ずといっていいほどソフトクリームを食べるからだ。もはや習慣のようなものである。

ミルクスタンドに寄り、ソフトクリームをオーダーすると、
近くのベンチに座り、さっぱりとしたミルクの味わいを堪能する。

ミルクのコクがありつつ、全体的にさっぱりとした味わい。

すると、向こうから2歳くらいの男の子が、走ってくる姿が視界に入った。何に対して興味を持って走っているのかは計り知れないが、目をキラキラさせている。

その途端、今ここでソフトクリームを独りで食べていることに、何故だかとてつもない違和感を覚えた。

子供達に会いたい…

そんな気持ちが押し寄せたその直後、
背後から、おはようございます、と聞き覚えのある声。

振り返ると、昨夜キッチンで交流したご家族が。女性とその息子さんがお二人で敷地内を散策していたようで、笑顔で挨拶してくれている。こちらも笑顔で会釈し、またね、と息子さんにひらひらと手を振る。

ベンチに腰かける私の横を、手を繋ぎながら通り過ぎ、のんびり歩くその親子の幸せな後ろ姿を見つめながら、まだ残り半分くらいあるソフトクリームを急いで平らげると、
ついさっきまでの名残惜しい気持ちは、白い月が美しい青空からいつの間にか消えてしまうように、その姿は消えて無くなっていた。


あとがき

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
その後の私は、行きと同様、車をかっ飛ばし、実家に預けていた子供達を迎えに行きました。実は2連泊していましたので、およそ丸3日ぶりの再会となります。

到着すると、娘と息子は、普段見せないくらいの溢れる笑顔で出迎えてくれました。そこでこみ上げてきた感情は、罪悪感ではありませんでした。心からの感謝と深い愛情です。回帰した「私」は、変わらずそのままいたのです。

どんなかたちであれ、ママだからこその独り旅は、自分に立ち返り、五感を研ぎ澄ませることで、大切な何かを得ることができる可能性に満ちていると思います。
かといって、何か得なければと意気込む必要もありません。ただ、素の自分に戻れれば良いのです。その旅で、自分は何に感動し、何に楽しさを覚え、何に哀愁を感じるのかを知ることで、今の「私」に会いに行くのです。

なにかにつけて「育児」というと、子供にフォーカスが当たりがちですが、ママが自分のことをいかに知っているかが大変重要です。すると、目の前にいる子供のことを、「ただ、そのまま見る」ことができる。育児のとっての一番のポイントと思っています。これは、育児以外の分野において、様々なかたちで得た教えから発見したものです。

毎日あらゆる感情と共に生きるママたち。
疲れた時こそ、思い切って「私」に回帰する時間を作ってくださいね。

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