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「労働者」と「わたし」~film#1花束みたいな恋をした

本当は多分、もっと頭をフル回転してゴリゴリ考えてバリバリ分析とかできちゃう映画なのだけど、今頭の中にある言葉だけで書いてみる映画感想文。

花束みたいな恋をした

なんか構えてしまって観れていなかった作品。やっと観た。
大好きな坂元さんの作品だけど、正直、タイトルで身構えていた。
「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」をすんなり受け入れたわたしが、「花束みたいな恋をした」には構えるようになった6、7年という時の流れを感じてしまったりした笑

わたしは押井守が街にいても全くもって気がつかないし、麦くんと絹ちゃんの好きな作家も音楽もほとんどわからない。それでも、わかってしまう。
自分の好きなものの世界を共有できる人に出会ってしまった、通じる人に出会ってしまった2人の「居場所を見つけた」感じ。
自分の心地よさと幸せを壊すことなく人と関わり合うということは、結構難しいような気がする。だけど、たまーに。ごくたまーに。そういう人と出会えることがあるらしい。
「エモさ」に若干の居心地の悪さを感じていたけど、カラオケ屋さんに見えるカラオケ屋さんでクロノスタシスを歌い、コンビニエンスストアで350mlの缶ビール買ってきみと夜の散歩をしてしまう2人の姿に幸せが溢れすぎて、一旦ストップして心を落ち着かせる必要があった。
サブカルがわからないわたしにだって、「きのこ帝国」はなんかエモい。きのこ帝国を一緒に聴いた友達は、いまでもわたしの日常を突然映画のワンシーンにしてくれる。
たった数分の「クロノスタシス」でこんなにも心が幸せに満たされるのに、「人生」なんて大きなことを考え始めた瞬間、鬱々としてしまうんだからわたしの脳って頓珍漢だなとか思ってしまった。

最初は好きなものに囲まれた自分たちの砦で幸せに暮らしていた2人が、だんだんとすれ違っていくところからがどんどん脳みそフル回転で、久々に映画を観ながらメモを取っていた。

広告代理店社員の両親という資本主義の強者からの人生についてのプレゼンよりも何よりも、切迫感を持ってふたりを「労働」へと導いたのは「生活を保たなければならない」という、逃れることのできない現実だった。安く買い叩かれたアーティストが、大切な人をこれからも大切にし続けて、一緒に居続けるための選択。
なんとも言えない悔しさ、どこの社会でも。「遊び」でしかないとみなされたら、こんなにも軽視される。その「遊び」がどんなに「現実」を救ってくれるものなのかを忘れて。
「生存」というのはやっぱり大切なものなわけで、この日本社会で生きていて、できるだけ安全に安定して生きていきたいという感覚を身に付けるのは難しくない。ああ、もう少しだけすべての人の暮らしに余裕があったらな。と思う。遊びを楽しめるだけの、お金にならないものを愛し続けるだけの余裕がみんなにあれば良いのにな。と思う。

わたしの就活は2人に似て遠回りだったので、「普通になるのって難しい」と何度も思った。「普通」に擬態して生きてきても、一度大きく「普通」のレールを外れてしまうと、再び擬態し始めることはとっても難しい。
そして、一度「責任感がない」とか言われてしまう時期を過ごした後で、麦くんのように人一倍責任を重く受け止める心が、なんとなくわかる気がする。「もうこれ以上は無責任でいてはいけない」という義務感が重くのしかかって、「適度にやる」がとっても難しく感じる。そしてそこに自分の「生活」がかかっていると思うと、ものすごい重みがあるのだ。

だから、なおさら、自分かもしれないと思う。「労働者」ではないと、トラックを海に投げ出してしまうのは、自分かもしれない。
「労働者」として企業や社会に時間と労力を提供する自分と、ただ「わたし」である自分。どこかで一瞬バランスを崩してしまったら、もう戻れないような気もする。ビジネス本しか読めなくなるか、引きこもりに戻っちゃうかもしれない。
パズドラしかできなくなるっていうのは、労働によって心と頭の余裕が削られていく様子を的確に表現していると思う。わたしも昼間を「労働者」として過ごすようになってから、前ほどに上手に心を泳がせられない。映画を観ることも日記を書くことも減った。自由時間があっても、考えたり感じたりするための余裕が残っていない。

そんな感じなので、もう今村夏子さんの「ピクニック」を読んでも何も感じないかもしれないという麦くんの言葉がぐさりときてしまって、一旦止めて泣いた。最初は麦くんの方がより「理想」の中に生きていたような気がするけど、いつのまにか人一倍真剣すぎるくらいに現実を生きている。
映画ではない現実を生きているわたしには、麦くんと絹ちゃんがいつまでも出会った頃のように過ごしていけるなんて思わなかったけど、2人の好きなものに囲まれた砦は、安全基地であり続けることはできたのではないかと思う。少なくとも絹ちゃんにとってはしばらくの間そうであったかもしれない。
公共空間で自分を「労働者」や「きちんとした人」として表すためのエネルギーを貯める場としての私的な空間になり得たものを、蝕んだのはなんだろう。それは麦くんなのか。いや、麦くんをそうさせたのは、労働環境において求められる従順さと向上心と、責任感と、全てを投げ打っても頭を下げさせてしまうような、そんな資本主義的な価値観だったようだ。
今の社会に在るようで無い「公」と「私」の境界。

伝統的家族像を理想の未来として描くようになった麦くんは、パーを出せる大人になって、「こんなもんなのかな」という「生活」を受け入れた。
もしかしたらそれは「責任感のある大人になる」ことなのかもしれない。
だけど、エンディングに向かうにつれ再び際立ってくる2人の共通点と、菅田将暉演じる麦くんの無邪気すぎる笑顔が、その「成長」をなんだかとても切ないもののように感じさせた。
観にいけなかったクーリンチェ、ひとりぼっちのゼルダ、会社のバーコードがついたPC、音を遮断するためにつけるイヤフォン、お揃いじゃなくなった靴。「公/私」の境界は薄れていき、生活は噛み合わなくなっていく。
終わらずに済む未来を想像したくても、どうしようもなくすれ違ってしまっている2人の時間は、確かに花束のように枯れていった。


何が正しいとかより良いとかではない。ただ「自分」でいることと社会に生きることの折り合いをつけることの難しさを感じる。

前に、会社の人が「おかしいことをおかしいって思う感覚を忘れちゃダメだよ。それを忘れたら、壊れてしまうから。」と言っていた。本当にそうだなと思う。会社とか社会とか大きな組織の一員である自分は、無力さを感じることが多い。おかしいことをおかしいと思い続けることすら苦しくなるし、それに慣れるしか生存する術が無いようにすら思えてくる。
それでも、「生活」だけで生きていけないわたしがいて、時々ものすごく大きな声で悲鳴を上げるので、意識的に心を泳がせてサバイブしている。
「良い労働者」であることに心を奪われないための闘いは結構しんどい。

大豆田とわ子を観ていた時、とわ子とかごめの姿を、自分の親友と自分の姿に重ねたことがあった。わたしには横断歩道を手を繋いで渡ってくれるような親友がいる。(ありがたい。)
じゃんけんのルールに従えるけれど、パーがグーに勝つ理由を「紙は石を包むから」と説明されたことが未だに腑に落ちないでいるわたしは、多分周りの価値観に完全には同化できない。
かごめちゃんのセリフを思い出す。「うまく行こうが行くまいが、やりたいことをやる。一人でやる。」
別に大それたことをしたいわけじゃない。自由へと逃げるのではなく、自由のために闘うこと。自分の喜びを自分のために作ること。そうやってしか生き延びられないのかもしれない。
とはいえ、中途半端なところにいるわたしはいつもいつでも迷って迷って溶けてしまいそうになるのだけれど。


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