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今更なんて思わずに急かされたいのか、急かされたくないのか。妙齢女子、それぞれの性と愛。

「訴えられる覚悟はできてるの」
「今日も2人で、興信所対策の話をしてた」
「毎日、朝から晩までずーっとLINEしてる」
「でもやっぱ、ただの遊びなのかな?」
「捨てられたらどうしようって、そんなことばっかり考えてる」
「立場はわきまえてるつもり、でも依存してしまってる」
「今日も安定剤飲んだ、辛い」

鍵のかかったSNSアカウントを覗くたび更新される呟きは、日を追うごとに重く苦しいものになってゆく。
それが毎日降り続ける雨と重なって、さらに私の心の彩度を落とす。

女ともだちのその「お相手」は、数週間前からやりとりを開始した既婚者で、さらに付け加えるなら(驚いたことに)まだ2人は実際に会ったことがないらしい。

妄想に恋をして、妄想に傷ついて、妄想によって順調に病んで精神安定剤まで服用している彼女は甚だ暴走気味なように私の目には映ったが、だったら相手の実像とはなんなのだろうかとふと思う。

実際に目の前にいて、触れることのできる相手だったら、それがリアルだと言い切れるものなのか。
多かれ少なかれ、人間は他者というものを都合よく解釈している。
夫婦だろうと親子だろうと、そういう側面は必ずある。なぜならそもそもの前提として、解釈の中で像を結ばせる以外に、他者を存在させる手立てがないからだ。

だとすれば、実際に会っているか否かというのは、その解釈を手助けする情報量の差でしかないとも言える。現実はそれぞれの頭の中にしかないし、主観を介さない「客観」だって存在しないのだから。

そうは言っても。
いくら「私がこう捉えた」で完結できる話だったとしても、
そのソースの量と多様さは人間関係においてはわりと重要なんじゃないのかな。
そう思いつつ、日々自己解釈と誇大妄想の沼に溺れ行く彼女のポストに何と書き込めば良いのか、考えあぐねる日々である。

***

3ヶ月ぶりに髪を切りに行くと、行きつけの美容室は模様変えがなされていて、担当の美容師はすっきりと髪を切っていた。

彼はセンスも技術もとても高いのだけれど、ドヤったところがまるでない気さくな人柄に私は信頼を寄せていて、もう通い出して4年になる。

信頼はしているし、悪い人間だとも思わないし、男としてまったくナシだとも思わないし、なんなら一回くらい寝てもいい。

しかしそれができないのは、彼が私の夫の髪も切っているからで、それによって彼が浸るであろう優越感に私が傷つく可能性があるからだ。私は気が弱く、そこまでの罪を背負う度胸がない。

美容院を初めて訪れたのも、7月の雨の日だった。
「いろんなタイプの男性に好かれそうですね」
いまより少し若くて短い髪をしていた頃の私に彼は言い、その日から顔を合わせる度にそれとなく誘われ続けている。

その間、何十回と性的好奇心(好意ではなく)をほのめかされながら、一度も首を縦に振ることができなかった。
連絡先は知っている。だから、カット後にお礼の連絡をしたりもするのだけれど、それはいつでも形式的な挨拶に終始した。

あの日の私は酔っ払っていたし、施術中の会話もいつもより盛り上がったし、やっぱり酔っていたから。
あと、夫が帰らない日だったから。
はずみで「今日は一人で飲んでる」
と返した私に、「今から戻って来てくれればいいのにな」と彼は返事を寄越した。
「戻って店で酒盛りでもするの?」
「いや、××××(笑)」
馬鹿じゃないの?と、もちろん私は思った。
もっとマシな言い方があるだろうし、だいいち私はコストをかけずに寝ようとする男が嫌いなのだ。
しかし、同時に4年もブレずに一貫したアピールができるのもたいしたものだな、と妙に感心をしてしまった。
だから、「しょうがないなぁ、今から行くね」なんてことを私が言うわけもなく!(当たり前だ)

でもその代わり、「せめて今度飲みに行くとかにしようよ」と、割と「いいよ」に準ずる回答をしてしまったのだった。

「うん、じゃあ飲みに行こう」と、乗り気な先方。
それであれよあれよというまに話がまとまって、二人で出かける予定を作ってしまい、翌日軽い二日酔いで目が覚めてひどく憂鬱な気分に襲われた。
体調が悪いことにしてキャンセルするか、それとも食事だけして終電でさっと帰るか。 考えたあげく、
「明日は仕事」ということにして早めに切り上げよう。
私はそう決定した。
決定したものの、私は自分の決意のゆるぎやすさは嫌という程知っている。
もはや罪悪感で自分の尻を蹴り上げるしかない関係性というものに、始まる前からすでに(まるで前述の友達のように)膿んでいる。
目の前に鉄棒(隠喩ではない)が無ければ何もしなくていいが、あったらあったで嫌でも逆上がりをしなくてはならない。そんな心境だ。


セックスレスを主軸とした性の不一致は、私たち夫婦に静かに足元を浸すようにして纏わり付いている問題である。
そして私たちは2人とも、そういうことについて積極的に話し合いを持つタイプの人間ではない。
だから、見えないとろこで大きくなる綻びを、いつか引き受けなくてはならない日が来るんだろう。

夫婦の性愛の問題は根深い。
セックスは人間の根源的欲求のひとつだけれど、婚姻制度とその枠内で起こる問題によって、現代人の性の自由は大幅に制限されている。
嫉妬というのは人間の持つあらゆる感情の中でもっとも厄介なものだから、
それに起因するトラブルを誘発させかねない関係を法やモラルで取り締まろうとする流れはきっとそれはそれで自然なことなのだろう。

愛も恋もセックスもそれぞれが別のものだと、誰かが言っていた。
というか、言うまでもなく本当は誰もが気づいていることなのかもしれない。
いや、気づいた所で得はないから、見ないふりをしているだけなのかも。
愛と恋とセックスは、それぞれ別物でありながら、時に親密に絡まりあって男女の間に侵食してくる。
それを認識している人としていない人のカップリングは悲劇を生みやすいし、それ以上に組み合わせのパターンが明確に違うカップルは不幸である。

しかし従来型の夫婦に許されている関係性の雛形は、愛と恋とセックスが強制的にオールインワンになったもの(の、捨てようにも捨てられない残骸)なのだ。
どこかで違和感に気づいたとしても、諦めるか割り切るか、或いは自然に欲が無くなるのを待つか、そうでなければ地下のほの暗い場所で自分にあった性の(時に恋や愛の)理想形を求めるしかない。

しかし最近思うに、時代の集合意識が、より個々の幸せにフォーカスするようになってきている。
組織やルールという絶対のものが解体して、それぞれの本質的な意味を再定義する人たちが増えてきた。
その中で、すこしずつ夫婦の在り方も多様化していくのかもしれない。
一度結婚したら離婚するなんて許されなかった時代を経て、たとえば既存の婚姻関係の枠なら壊すしか選択肢が無かった夫婦にも、うまく風穴を開けてやっていく道筋が立てられる時代が来るのかもしれない。
LGBTが長い長い戦いの歴史の果てにようやく権利を手にしたように、すべての人間に性の自由が与えられる日が来たら、そこにはどんな景色が広がるのでしょう。(地獄絵図も頻発するかもしれない!)

その頃まで私が現役の女でいる保証はどこにもないけれど、それを見届けてから死にたいような気がしないでもない。

そしてその前に、時代を変えるのはいつでも個々人の取り組みに掛かっていることを忘れないようにしようと思う。

だからって、「時代の先駆者になるために、美容師のKさんと飲みに行ってセックスするかもしれないから」とは死んでも言わないけどさ。

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