ドラマ「セクシー田中さん」製作陣はクリエイティビティがプアーなのに芦原先生と同等のクリエイターヅラしてたのが間違いの元

…だと思う。

先日ついに読んでしまった。
日テレドラマ「セクシー田中さん」事件の調査書を、小学館分と日テレ分と。
多分、日テレの方読んだらとんでもなく胸糞悪くなるだろうことが想像できたので読むのを躊躇していた。
Xで流れてくる断片的な意見は見ていたけど、それだけで充分胸糞だったしね。

でも小学館の調査書も出てきたので、そちらを先に読むとワンクッション置けるかもと思って、ついに読んでしまったのだ。

読んだ人ほぼ全員同じ感想と思うけど、日テレの調査書のあまりの酷さに愕然としたよね。
ツッコミどころしかないんだもん。
小学館側が忖度してあげて日テレを立ててあげて強制や命令にならないように柔らかく控えめにでも詳細に伝えた言葉はみんな「そんなこと聞いてない」だし。
嘘はくし。

朱里の進学先が短大だと「リアリティがない」。
いやいや「近時の 10 代、20 代としてはメインストリームでは『ない』」からこそ今どきの子のはずの朱里ですら古〜いジェンダー観の残滓の尻尾に引き摺られていた、だからそれを断ち切ろうというキャラ立ちの大事なポイントである。
そんで「(短大進学の原因となっている)父親のリストラはドラマとしては重すぎる」ので「父親の会社が不景気で、母親から『高校は公立でいいんじゃない?』で本当は友達と一緒に制服がかわいい私立校に行きたかったけど『うん、そうだね』と笑って受け入れた」と変更しようとするとかもさあ。
それじゃあ朱里が何に縛られてて焦ってるのか、しんどくなるのか、田中さんと出会うことで解放されていくのか、という大事なテーマを表現できないじゃん。

「ほっこりラブコメディ」とか「恋愛ヤッホー」とかもそうだけど、底が浅すぎてね。
コアメンバーって雁首揃えて「バカの大衆向けに」「俺たちがわかりやすく改変してやんよ」臭がまたこう…ね。

あとさあ、日テレ調査書はまあ仰天ポイントばっかりだったけど、特にここ。

本件原作者の指摘は C 氏が言葉遣いを柔らかくしたものであっても、本件脚本家にとっては厳しい口調であってそのまま読むのはつらくなったことから本件脚本家は同年9月11日頃、A氏に対して本件原作者からの指摘をそのまま送るのではなく、伝えるべきものを咀嚼してから伝えるよう依頼した。そこで、その後はA氏は伝えるべき情報を咀嚼して本件脚本家に伝えるようになった。

日テレ調査書 P14

あのさぁ…。
「厳しい『口調』」ってさぁ。
プロが何言ってんの?と思ってしまった。
ママ〜(プロデューサー)、あの食べ物(芦原先生の指摘)硬過ぎるからママがあむあむしてから口移しでちょ〜だい!ってこと?
いやホントどんだけ今までヌルい環境で書いてきたんだろう…。
小学館の調査書からすると芦原先生の指摘ってきめ細やかで何がどうブレてるのか詳細な理由付で書いてあったけど。

ちなみに私が相方の小説にツッコミ入れた時とも似たようなもんだったわよ。
うまくいってないのはなぜなのか事細かに理由を説明して書き直ししてもらった。
そんなん普通でしょ。
アマチュア文書きでもやってることをさぁ、プロがやったことないのはまあそれだけで似非エセのプロ気取りやんけ…と思ってしまう。
文章突き詰めることに対してヌルすぎんのよ。
本当に書きたくて書いてるならそんくらいやるわよ。
内輪受けじゃなく、本当に見知らぬ他人にもある程度見てもらえるレベルの文章書けるようになるには、どうしたって最低一度は自分の筆力の穴の指摘はどこかの時点で誰かから受けるはずだわよ。
表で褒め合い裏でマウント取り合う「見かけだけのコネ頼みの内輪受けの輪の大きさを広げることだけ」に腐心してたら別だけど。

この脚本家がつらいのはさあ、先生の『口調』じゃなくて、先生のきめ細やかで具体性と確固たる裏付けのある指摘によって自分のヌルさや浅さや荒さや至らなさを否応なしに自覚させられたからじゃあないの?
『口調』じゃないよね。
中身だよね。
自分のヌルいぼんやり視点とレベチの精緻で深い人間観察力の違いを否応なしに自覚させられたからだよね。
クリエイターとしての格が違いすぎるよね。
自分が世間の風潮や流行りになんの疑いも持たず上っ面に騙されて(芸能人との自撮り、コネくらいしか自慢のタネがないくらい浅い考えしかないパリピだし)ぼやっと流される凡百な大衆側だと思い知らされた、っていう。
つまり脚本家がクリエイターとしての自分の雑魚モブさ加減を自覚させられた、と。

っていうのはさあ、書き手としてのジャンルが違っててもちゃんと人物造形や人の内面に対する造詣や創作力があれば、芦原先生の指摘がつらくなるどころか、打てば響くように「なるほど!」「それな!」って先生の意図を理解できると思うのよ。
たとえ一見普段がパリピで幾多の芸能人有名人との自撮り写真をインスタに載せまくりの浮かれポンチに見えようと。
もしも本当に創作者として物事や人間を深く観察して人間性ってものを常に考えて深化させていたならば、ね。

それどころか芦原先生の指摘の深さに「キィィ〜ッ!このアタシに指図したわね!?」ってなっちゃうメンタリティで「創作」とかさぁ、向いてないよ。
だって本当に浅いんだもん。
ペラッペラの紙っぺらみたいな深さがミリすらないミクロン程度の浅さの観察力や思索力だからステレオタイプの『わかりやすすぎるほどの』「ほっこりラブコメディ」とか「恋愛ヤッホー」になるんじゃん。

芦原先生は「ほっこりラブコメディ」に異論はなかったようだけどね。
でもそれは元々原作には「エンタメとして読みやすいコメディのガワ」の下に「生きづらさの自覚」や「本当の自分らしさの希求」や「真っ直ぐに背筋を伸ばすことへの応援」などの多層の深さが織り込まれてるからね。
つまり、『元々一般大衆に訴求できるフォーマットを用いながらそこに深みを加味する』ことに意味を見出していたからではないかと思う。
芦原先生が本当に作品を届けたかった層は「世間的には悩みが細かすぎて拾われづらいような、生きづらい、背筋を伸ばせない人」だと思うけど、まず届けるには広く読んでもらいたいし、難しいこと考えないでエンタメとして読んでもらうことももちろん目的の一つだったと思う。
創作の究極の目的って、
「エンタメ的にあー面白かった!でもそれだけじゃなくて何か自分の心のしこりがほぐれたり、また明日から頑張ろうって気持ちになった!」
ってのが達成できたらベストだと個人的には思う。
そして芦原先生の作品もそのようなスタンスで描かれていると私は感じる。
だから掴みとしては「ほっこりラブコメディ」でよくて、だから元々の緻密に構築したキャラクター造形通りに芦原先生が必死になって修正を加えたことで、なんとかドラマもまずまずの最低ラインクリアの出来になったのだと思う(芦原先生は最終的なドラマの出来には文句を言わなかった)

でさあ、コアメンバーってそんだけ雁首揃えてアレな改変案しか思いついてなかったみたいだし。
メンバー全員紙みたいに浅いんだね。
本当にクリエイティブなメンバーなら、多分芦原先生の要求水準でも指摘されたらパツッと秒で意図を理解して打てば響いてそれを具体的に映像化する案を出せたと思うよ。
少なくともフォーマットが「ほっこりラブコメディ」でもその層の下に生きづらさや自己肯定感の低さとどう向き合っていくかっていうストーリーに立体的な厚みを持たせるにはありきたりの設定ではダメなことが理解できたはず。

結局コアメンバーにはさあ、「『ほっこりラブコメディ』を隠れ蓑に可視化されづらい内面の問題にフォーカスを当てる」という高度でクリエイティビティで立体的な視点はないってことなのよ。
そもそも
「可視化されづらい(小学館側が柔らかく強制にならないように伝えていたことや、芦原先生が何度も脚本に手直しを入れた=コアメンバーがダメ出しされた)ことに気づいてない、どころか(半ば意識的に?)無視してる」
わけだから。

でもさぁ、そもそも著作者人格権の同一性保持権が理解できてない時点でクリエイターじゃないでしょ。
クリエイターなら(たとえ自分が改変OK組だとしても知識としては)自分の著作物を変なふうに捻じ曲げられたら不快な人も多々いることもとっくに承知だろうし著作者人格権の同一性保持権があるから他人が捻じ曲げたらいけないことも普通に知ってないとおかしいでしょ。
クリエイターなら。
クリエイターなら!

もし知らないとしたらそれは、
原作へのリスペクトから「ではなく」、勝ち馬乗りでさまざまな原作を渡り歩いて二次創作しかできないのに一端いっぱしのクリエイターヅラしてる、イナゴ二次創作者レベル
ではなかろうか。
実際ドラマ製作陣がやってることってイナゴ二次創作そのものだしね。

それが出てるように見えるのが、

映像化のプロである制作サイド・・・・・・・・・・・・・・と本件原作者との間で意見のやりとりを続けて、よりよいドラマを作っていこうと思っていた。

日テレ調査書 P12(傍点筆者)

…映像化のプロ、ねえ…。
随分自負してる割にやってることがお粗末なイナゴ二次創作…。
ああ、イナゴ二次創作のプロってことか。
そんなことが誇れるんだ。
こういうところに局側の『特権階級意識』がフレッシュでジューシィに溢れて見えるわ。

そもそも、「今のテレビドラマはオリジナル脚本では企画が通らない」のは、そもそもその脚本家がイナゴ二次ライダーレベルで原作から借りなければまともな設定、キャラ造形、ストーリーなどが立てられないというだけではないのだろうか。
オリジナル脚本で人気出たドラマも他局にはあるわけだし。
してやコメディという万人受けフォーマットの裏に緻密な問題を裏打ちで盛り込んで立体的に作品としての厚みを出すなんて思いつきもしないのだろう。

大体クレジット騒動だって、元々が原作付きなんだから原作の著作者人格権の同一性保持権の方が強いに決まってるのよ。
だってこれは「原作者も放棄できないほどに強力な権利」なんだもん。
原作付作品のクレジットでキイキイ言うのは原作者というお釈迦様のてのひらの上を端から端まで飛んでドヤ顔する孫悟空(元祖西遊記の)と変わりないと思うのよ。

同月27日、本件脚本家とA氏との間で、電話で話をした。本件脚本家が弁護士に相談したところ、
・(オリジナル部分を一緒に作るという最初の約束だったのに、原作側がその約束をなくすことは間違っている
・ 10話の本打ちで出たアイデア。構成以外の部分のオリジナル部分は著作物になるのではないか
・氏名表示権というのは自分の名前を表示する、しないを主張できる権利であって、著作権とは関係のないクレジットに他者の名前が表記されることを阻止する権利は原作者側にはない。それにもかかわらず、放送差し止めを盾に本件脚本家の氏名表示権を侵害するのは権利の濫用もしくはパワハラではないか

日テレ調査書 P35〜36

あのさぁ…氏名表示権はドラマ制作レベルの話じゃん。
ドラマ制作レベルよりもっと根本に原作の著作者人格権があって、そっちのがより根本だから優先されるわけでさあ。
物事の見方が平面的で、立体多重構造を理解できないところが凡人センスなんじゃん。
当該脚本家の感覚って見てるとどうも平面陣地の取り合い、縄張り争い、マウント取りなんだよね。
立体多重構造を多面的に俯瞰する客観性に乏しいのよね。
メタ視点がないのよ。
地面は平らだと思ってて地球っていう球だと理解してない感じ。
あくまでたとえだけど。

「原作者も放棄できないほどに強力な著作者人格権の同一性保持権」を行使した原作者に「パワハラだ!」とか「脚本家の未来のために!」とか本末転倒すぎてまず根本から間違ってるとしか言いようがないのよ。
よくもまあそんな狭い知見でいながら弁護士とか内容証明とか、世間擦れしたハウツーだけにはやけに詳しいものである。
でもクリエイターの機微やクリエイター本来の根本的な権利には明るくないという。
それどころかむしろ川上川下の順を取り違えたような間違った権利意識だけ肥大してて、ああ、自意識過剰で視界が魚眼に歪んだ困った人だな、と予想がつく。
自分の権利意識だけ肥大してて、他人にも権利があるって気がついてないタイプだよね。
客観性に乏しい自己愛ナルシシズムタイプ。

ていうか原作者の作品という揺るがぬ土台の上にお膳立てしてもらった「オリジナル部分とやら」が、なんだって?あぁ!?と他人事ながら凄みたい気持ちになってくる。
なんでそんなにふんぞり返っていられるの?
原作にお膳立てしてもらってるのにね。
平面構造でしかわからない脚本家には理解できないだろうけど、芦原先生とこの脚本家とではまったくクリエイターとしてのレベルが「立体的に」違いすぎるんだわよ。

んでプロデューサーはっていうと、基本的に局と相手方の小学館(原作者)の間の調整役のはずなのに調整してないよね。
局側の論理で盲目になってて、視界をできるだけエコモード、つまり相手方との折衝、接触を自己都合で最低限に狭く絞ってるよね。
だから「聞いてない」とか言うんだよね。
局側の論理に合わないものははなっから丸無視モードだよね。
局側の論理に符合しない部分は全部視野の外、蚊帳の外ってことにしてるんだもんね。
だから原作者側の要望を脚本家にも他のコアメンバーにも伝えていたのか謎なことになってるのでは。
都合の悪い流れになっても触らないで置いたら勝手に解決してくれないかな、相手が根負けして折れてくれないかな、ってムシのよいこと考えてたんだろうな。
実務能力なさすぎじゃない?
普通に実務的な仕事に就いてたら、ちょっとした違和感を見逃したら自分の手から離れていくほど問題が大きくなっていくからできるだけ早めに気がついて可能な限り手元で問題解決する方がいいって経験則として身についてそうなもんじゃない?
でも今までそうやって実務的に手元で解決しないで、嘘ついたりスっとぼけて時間稼ぎして散々原作者側に煮湯と涙を飲ませて来たんだろうな。

大体さぁ、あの日テレの調査書ってさあ、テキストベースのリアルタイムの証拠じゃなくて後から関係者に聴取した内容になってるじゃん。
小学館の方はタイムスタンプ付でやり取りの文面もはっきり抜き書きしてたけど。
そのせいだと思うけど、日テレ関係者の書き方って後付けの言い訳じみてて「向こうが悪いんだ、俺は(私は)被害者だ」って言ってるに等しいのよ。

翌日、D氏からB氏に9,10話のクレジットについて尋ねられ、脚本クレジットについての回答がないと本件原作者が10話の脚本を渡してくれない・・・・旨電話連絡があった。

日テレ調査書 P34(傍点筆者)

なんすかこの被害者視点。
なんで日テレ側が被害者ヅラしてんですかね。
これは多分調査書読んだかなりの人がそう思ったことだろう。
だからネットニュースでもやっぱり指摘されてた。

セクシー田中さん巡る日テレ報告書に元放送作家怒り「芦原さんを悪魔化」「あまりに卑劣」(東スポWEB)

亡き芦原妃名子さんへの苛烈な言葉の数々…『セクシー田中さん』日テレ調査報告書が「傷口」を広げた理由(ENCOUNT)

芦原さんは「ウソ」であしらい、脚本家には「原作者批判」で敵意を煽る…日テレ「セクシー田中さん」調査報告書で浮上した「プロデューサーの大罪」(デイリー新潮)

これらの記事にはもう赤べこのように首振りしたわよ私。

ああ、脱線してしまった。
本筋に戻すと、日テレドラマ製作陣のクリエイティビティのプアーさについて、もうひとつ補足しようと思う。
上の方で
「芦原先生が本当に作品を届けたかった層は「世間的には悩みが細かすぎて拾われづらいような、生きづらい、背筋を伸ばせない人」だと思う」
と書いたんだけどね。
これはね、つまり以前のnoteで書いた以下に繋がることだと思う。

ドーパミンの「多幸感」って「わかりやすすぎ」で、
それ以外のヒア&ナウ系神経伝達物質(セロトニンとかオキシトシンとか)は地味すぎ存在感なさすぎで、
結果ほぼ誰もドーパミン以外を「幸福感」と認識してないのだと思う。

幸せに絵を描き続けるためのひとつの方法〜「自分の法則」を探し当てながら幾多のアハ体験(死語)を経て進化する絵師さん

つまりね、「わかりやすすぎのドーパミンによる多幸感」を煽ることが創作のマストだと思ってる「わかりやすすぎるものしか知覚できないナイロンザイルのような太く荒く強靭な神経とモザイクか!ってなくらい解像度の低い観察眼しか持たない凡百の感性の持ち主」が寄り集まって「映像化のプロである制作サイド」「オリジナル部分は自分の著作物!」とかのたまってるわけ。
ドーパミンこそがこの世の幸せのすべてと思ってる人が大半なんだよね。
だからこそドーパミンブシャー!を煽るコンテンツや商品ばかりが世に溢れてるわけで。
SNSもたとえばXなんかもいいねやリポストの数という「わかりやすすぎる快感煽動装置」で自己顕示欲=ドーパミンブシャー!を上手いこと煽る構造になっている。

ドーパミンには前から言及してるんだけども。

ドーパミンの特徴は

・報酬系であること
・一定の刺激を受け続けたらその刺激に慣れて報酬と脳が感じなくなる

なので、どんどん刺激の要求水準が上がることである。
そしてドーパミンによる快感は賞味期限が短い。
ワッと盛り上がってスンッと萎える。

ほら、少し前に日本中大騒ぎだった某超大物日本人メジャーリーガーの元通訳の違法賭博とかね。
完全に本人の脳内のドーパミンによる報酬系の刺激がバグっていったので額面も併せてバグっていったわけ。
快感も長続きしないので3年弱で1万9,000回だっけ?
あれです。

「自分の子がかわいい」はルッキズムとは別軸という話〜Buddhismと個性とAI生成画論争を添えて

上記の通りドーパミンっていう神経伝達物質は報酬系なので依存性があるわけ。
一方ドーパミン以外に人間の脳が幸福を感じる神経伝達物質があるのだけどそれらをまとめてヒア&ナウ系神経伝達物質という。
もっかいさっきの引用を後半まで含めると

ドーパミンの「多幸感」って「わかりやすすぎ」で、
それ以外のヒア&ナウ系神経伝達物質(セロトニンとかオキシトシンとか)は地味すぎ存在感なさすぎで、
結果ほぼ誰もドーパミン以外を「幸福感」と認識してないのだと思う。

例えるとアレですかね、ドーパミンちゃんは派手でナイスバディな美女で押しも強くて、トロフィー(報酬)として誰が見てもわかりやすい。
ヒア&ナウ系神経伝達物質たちは地味で引っ込み思案の隠キャなので、存在すら認識されてない雑魚モブ扱い。

幸せに絵を描き続けるためのひとつの方法〜「自分の法則」を探し当てながら幾多のアハ体験(死語)を経て進化する絵師さん

セロトニンは精神安定、感情のコントロール、ストレス解消、リラックス。
オキシトシンは親密さ、絆、信頼感、所属感。
に関わる神経伝達物質。
こっちはドーパミンみたいに派手じゃないから自覚する人も少ない。
何せ地味。

「オラわくわくすっぞ!」は誰もが自覚しやすい。
ドーパミンは未来の報酬を期待するホルモンだからワクワクとか興奮とか自覚できて本当にわかりやすすぎるので。
もちろん「これをポストしたらバズって自分も一躍有名人に…!」って取らぬ狸の皮算用を妄想するのもドーパミンの作用。

セロトニンやオキシトシンは未来じゃなく「今、ここ」の幸福感、満足感なのでヒア&ナウ系も呼ばれる。
ほら地味だ。
だけどセロトニンが放出されなくなると鬱になり、オキシトシンが足りないと愛情不足で不安定になる。
地味だけど大事だ。

だけど世間に溢れる娯楽はほとんどドーパミン狙いだ。
そりゃそうだ。報酬として依存性があるサービスの方がリピーターがついて将来的にも収益の安定どころか拡大もまったく夢じゃないから、資本主義社会的には勝ち組である。
依存性のある娯楽が提供できれば大金持ちも夢じゃない。
つまりはそういうことだ。

だから大衆サービス的にはほぼ顧客のドーパミン放出を狙う。
だけどドーパミンだけじゃ人間の幸せは不足じゃないのかなって気がつく人もたくさんじゃないけどいるわけ。
さらに気がつくだけじゃなくそれを「意識的に作品にコンスタントに盛り込める人」となると極めて稀なレア逸材になる。
その一人が芦原先生だったわけ。
さっき書いた通り。
芦原先生が本当に作品を届けたかった層は「世間的には悩みが細かすぎて拾われづらいような、生きづらい、背筋を伸ばせない人」だったのだと、思う。
これは、言い換えると、「(その場その場でのドーパミンはあるけど)ヒア&ナウ系のセロトニンやオキシトシンが足りない自覚まではないんだけど、何かが足りない違和感を時々感じて、原因もわからないけど落ち込んじゃったり不安になったりする人」のことだと思う。
かなりざっくり目の分類になるけど。

だから、わかりやすすぎる娯楽のドーパミン的設定の「昼は地味なデキる経理事務OL、夜は妖艶なベリーダンサー」に日テレドラマ製作陣はまず食いついたのだろう。
だけど、芦原先生が大事にしてた「世間的には悩みが細かすぎて拾われづらいような、生きづらい、背筋を伸ばせない人」に少しでもヒア&ナウ系放出の手助けとか届けたいとかいう願いは彼らのナイロンザイル並みの神経とモザイク並みに低い解像度の眼力では、一切感知できなかったんだと思うんだわ。

だから彼らを紙っぺら並みに浅い、と私は表現したわけ。
誰にでも知覚できるドーパミンにしかフォーカスできない荒い解像度の観察眼でドヤ顔でプロクリエイター名乗ってんじゃないよ。と思うわけ。
いや、ドーパミンのみのクリエイターが必ずしも悪いわけじゃないけど。
ただワッと盛り上がってスンッと萎える性質なので、ドーパミンだけをターゲットにした作品は長く残る作品にはならないことは自明の理になる。
とはいえ後々まで名作として残らずただのその時代の瞬間的な賑やかしとして消えていくことを納得した上で作るなら、それはそれでポリシーとしてはありだろう。
それはそれで潔く、カッコいいあり方、割り切りだと思う。
だけど最初からそういうポリシーのクリエイターって、いるんだろうか。
何より日テレドラマ製作陣がそんな潔さと時代の徒花的美学の持ち主とも思えないけど。
何せ調査書が潔くないにもほどかあるので。
一般的にはクリエイターとして名をなしたい≒後世まで名を残したい、ではなかろうか。
だからドーパミンしか目に入らないレベルでこんな大変な事態を引き起こしておきながら「映像化のプロ」を名乗っててんとしてじない姿勢には、ほーんと驚きを隠せない。
そんなレベルで芦原先生にマウント取ろうなんて千年も万年も早いわ。

一過性の快楽だけ追えばドーパミンだろう、そりゃ。
だけどSNSで正義厨が毎日怒るネタを探しては炎上を娯楽として楽しむ程度にはフラストレーションが溜まってる人が多いことが可視化されているわけで。
そんな時代だからこそ正体のわからない自分の不安やモヤモヤや焦りに、ほんの少しの光をもたらしてくれるような芦原先生の作品は、必要とされていたはずだ。
ヒア&ナウ系神経伝達物質を自覚して作品に用いることができるクリエイターの絶対数は、いつの時代も少ないのだ。
ドーパミンみたく派手じゃなく、自覚しづらく、地味だから。
少なくとも、日テレドラマ製作陣にできることではない。
その貴重で稀有な才能をこんな形で失ったことは、本当に大きな損失だと私は思う。

結局のところ、私から見た今回の悲劇の根本原因は、以下になると考える。
本件の当該脚本家が平面的にしか物事を認識できずコトの軽重や道理の順番を勘違いしたまま、自己が芦原先生並みまたはそれ以上のクリエイターでありその権利も同等以上にあると傲慢にも誤認していたことであると。
当該脚本家がその間違った認識を自己の当然の権利としてゴリ押しするためにネット(SNS)リンチという究極の心得違いの横車を押したのだ。
横車を押したのみならず、無理矢理車を引き倒して中の人を死なせてしまうに至った。

原作付きドラマである以上、当該脚本家の氏名表示権は原作者の著作者人格権の同一性保持権が保証された上で初めて行使可能になると考えられる
著作者人格権の同一性保持権を無視して氏名表示権だけを保証するということはありえない
なぜなら著作者人格権の同一性保持権は原作者の意思をもってすら放棄することのできない究極に強い権利だからである。

その心得違いを当該脚本家がしてさえいなければネットリンチももちろん起こすはずがなかった。
自己の権利より芦原先生の原作者としての権利の方が極めて強く脚本家の権利を優先させることはこの件に関しては不可能だという、クリエイターなら弁えて当然の道理を。
クリエイターを自称する当人が弁えず、SNSという衆人環視の元でその勘違いを自ら晒し上げた。
その心得違いによって芦原先生が著作者人格権の同一性保持権という一番強い権利を侵害されそうになった経緯をわざわざ説明しなければならない破目になったのだ。
結果素人ですら感覚的に理解している原作者の権利であるから当然の如く批判が脚本家に集中した。
しかしいくら相手の勘違いから自己の正当な権利を守った経緯の説明であろうと、衆人環視の元であるために起こった脚本家への批判の集中が、誰も攻撃したくなかった芦原先生の心を抉ることになったのだろう。

「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい」

この最期の言葉に私は先生と当該脚本家の最大の違いを見る。

自己の当然の権利を守っただけの当然の行為が、相手を傷つける返し刀になるとは思ってもみなかっただろう。
それまでSNSもやっていなかったのだから。

であるから、当該脚本家が自らの心得違いの横車のゴリ押しを衆人環視の前で行った。
これが最大の間違いだと思う。
正当な権利であると信じるなら、衆人環視の前ではなく、法の場で訴えるべきだった
日テレに内容証明を送ったのなら、同じく衆人環視に晒すのではなく小学館にも送ればよかったのだ。
なぜそこだけ法的手段を行使しなかった?
己の主張が正当でないような予感があったからでは?

繰り返しになるが、芦原先生という貴重で稀有な才能をこんな形で失ったことは、本当に大きな損失なんだよ。
日テレの人はおしなべて頰っ被りしてるけど、はっきり自覚した方がいいと思うよ。
日本の大切な宝を自分たちの不手際と傲慢さで永遠に失ってしまった、その穴の大きさを。
そして自分たちのクリエイティビティが荒縄神経とモザイク低解像度程度しかないことを。
自分の実力を高く見誤るのは、本当に見苦しく、誰のためにもならないという事実を、早急に自覚するべきだと思うのだ。


…以上の長文を書いてへとへとになった後に拝読したこちらのnoteが、今回私のnoteでは盛り込めなかった内容が!もれなく!書かれていて、もう、勝手に「心の友よ…」と心の中で呟いてしまいました。

またしても赤べこのように永遠に首振りしました。


改めて芦原妃名子先生のご冥福をお祈ります。

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