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『セクシー田中さん』問題から見えてくる脚本家とドラマ界の認識の歪み

小学館の調査報告書が公表されましたね。先生への哀悼の意と、今後の改善案が示された、日テレよりはるかにまともな内容で安心しました。
匿名であることや、先生がブログを公開するあたりの部分はそれまでの詳細な報告とは裏腹に大変簡素な内容になっていたのは不満ですが、個人的事情に踏み込む可能性があることなので仕方ない面もあるかもしれません。

そして、小学館の報告書が出たことで、日テレの報告書の胡散臭さがより際立つようになったなと思います。
日テレ報告書では「聞いてない」ことになっていた「8〜10話は場合によって原作者のプロット・脚本で進める」件が、ちゃんとメールとして証拠が残っていて、この期に及んでも日テレ側が誤魔化そうとしていたことがわかります。
最初の原作使用の許諾時の条件「原作に忠実に」の要望も、日テレや脚本家は「聞いてない」と言っていて、これは惜しくもメールなどが残っていなかったようで水掛け論になっていますが、これだけ日テレ側がいい加減であると、どちらを信用するかと言われれば、そりゃ小学館側ということになります。

報告書から透けて見える原作軽視の態度

何回か書いていますが、仮に本当に日テレ側が原作側の要望を知らないのだとしても、それは「原作を自由に改変できる」ことにはなりません。
どうも日テレ側は「要望がなければ改変自由」「契約がなければ改変自由」と勘違いしているような節が見受けられますが、それは違います。
むしろ「改変してはならない」のです。著作権法でそう決まっているからです。
(小学館側の報告書に出てきた「著作権法第二十条〈同一性保持権〉」というものです)
日テレと脚本家が何も知らない、聞いていないのであれば、それは同時に「改変は許されない」ことになるのです。

日テレと脚本家が「我々には改変する権利がある!」と主張するなら、小学館側が「どうぞ自由に改変してください」と言っていたという証拠を出さなくてはなりません。でも、できませんよね? 小学館側の主張を見れば、真逆のお願いをしていたことになるので、そんな話が出るわけないのですから。
つまり、彼らは改変に関してなんら正当性も持たないにも関わらず、改変を繰り返して制作現場を混乱させ、原作サイドを疲弊させたのです。

何故こんな法律違反が平然と行われるのか。
その答えは、日テレ側の報告書に透けてみてます。直截に言えば、原作を軽視し、いくらでも好きに変えられるドラマの素材としか考えていないからでしょう。
『セクシー田中さん』で言えば、キャッチーなベリーダンス、冴えないように見えるOLが大変身!という部分だけもらい、原作に合うかどうかは関係なく芸能事務所おすすめの俳優を使って、手垢のついたベタな恋愛ドラマに改変したかったのだろうと思います。
ドラマの記事に出ていたプロデューサー大井章生氏のコメント「恋愛軸もしっかり描くので、クライマックスに向けて恋愛ドラマとしても楽しんでいただきたいです」からも、それはにじみ出ています。
(ドラマのラストは恋愛的な決着はつかないことは、この記事の時点ですでに決まっていたのに、まだ恋愛展開に未練があるのが伺えるので)

余談ですが、「著作権法があるんだから、原作者の要望を聞いてなかったらそもそも改変すべきではない」というと、「そんなの立ちションに目くじら立てるようなものだ」と言われたことがあります。
立ちションだって犯罪だけど、著作権法違反はもっと重い犯罪だよ!つか、軽犯罪法だろうと著作権法だろうと法律は守れよ!!!
「これまでそうやってきたから」「原作側が文句言わなかったから」とかで、今まで見過ごされて来たんだろうとは思います。でも、もう令和です。テレビ屋さんはいい加減頭の中をアップデートしてはいかがでしょうか。

「ドラマ化するんだから原作とまったく同じには作れない」というのが、脚本家やドラマ制作者がよく使う言い訳です。
これも何度か言っていますが、そんなことは原作側も原作ファンも理解しています。でも、小説や漫画をドラマに翻案するのに必要な改変以上の、不必要な改変まで無理に入れることはないんですよ。それが作品世界を壊すようなものなら尚更です。
日テレ報告書にあった原作者のメッセージも、それを訴えています。
「漫画とドラマは媒体が違うので、本当はドラマ用に上手にアレンジして頂くのがベストだって事は、私も良く理解してるんですよ」「でも、ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変がされるくらいなら、しっかり、原作通りの物を作って欲しい。」
これだけ真摯に訴えているのに、何故、脚本家も含めたドラマサイドは理解できなかったのか。
それはひとえに原作に対する認識の歪みからくるものだと思います。あるいは、テレビドラマ界の傲慢というべきか。

「原作通り」をロボットと蔑むテレビ界の気風

『セクシー田中さん』制作の終盤、すでに原作側との信頼関係が破綻している段階で、「創作を入れないで」という原作者の要望をドラマサイドは「それでは脚本家が単なるロボットになるからできない」と拒絶します。
一見、志の高い言葉に思えます。ですが、このケースは「原作未完のため、ドラマオリジナルエンド用に原作者がプロットとセリフを書き下ろした」ものなのです。そのため、尺の問題でセリフを削るなどは仕方ないとしても、セリフを変えたり、追加するなどの創作をしないでほしいというのが原作者の要望でした。
それをプロデューサーは「それでは単なるロボットになるからできない」と放言したわけです。それまで、さんざん原作者の手をわずらわせて大量の修正が発生したからこそ、原作側はこういう要望を出さざるを得なかったのに、それを恥じることなく、「原作者の要望通りに作る」ことをロボットと言える神経を疑います。

このプロデューサーの発言には、ドラマ界の歪みが本当によく現れていると思います。彼らは「原作通りに作る」ことを「ロボット」であると考えて、蔑んでいるわけです。
だから無理やり改変を入れようとして、原作では「父親のリストラで短大進学になる」ところを、「不景気だから可愛い制服の私立高校ではなく公立に行くことになった」なんて、作品として無意味な、不必要な改悪を提案することになるのでしょう。例えば「カリキュラムの内容が興味深くて、行きたいと思った私立高校」ならまだわかります。でも動機が「可愛い制服」って!
作者の「心底どうでもいい(改変)」という意見に私も賛成です。「短大進学より専門学校進学の方が今の10代20代にリアリティがある」とかいう意見の妥当性もさっぱりわかりません。
しかも、そんなふうに「若い世代にとってのリアリティ」を気にするくせに、脚本で登場人物たちにメールでやり取りさせて、「今の若い世代ならメッセージアプリが自然では?」と原作者に指摘される始末。

クリエイターの権利を履き違えたクレジット問題

特に脚本家の勘違いっぷりが表れたのが9・10話のクレジット問題だと思います。今回、報告書を読んで一番驚いたのがこの部分でした。
脚本家は8話で降ろされ、9・10話の脚本を書いたのは原作者です。
原作が終わってないため、8・9・10話はドラマのオリジナル展開になるので、本来はプロットを原作者が書き下ろし、セリフまで用意した上で脚本を書いてもらう予定でした。
でも、何度言っても脚本家が改悪要素を入れてくるので、8話はもう間に合わないから脚本家の脚本に原作者が修正を入れて完成とし、残り2話は別の脚本家が担当するはずが新しい脚本家が見つからず、仕方なく作者が書くことになったというのが、ブログと報告書から読み取れる経緯です。(最終的にプロデューサーが清書)

この9・10話のクレジットに「脚本」として自分の名前を載せるべきだと言うのが脚本家の当初の主張でした。それが難しいとわかってからは「原案」「協力」でもいいと譲っていますが、脚本を書いてもいないのにクレジットしろとは、あまりにも厚顔無恥ではないでしょうか。
脚本家の言い分では「自分のアイディアが使われてる」とのことですが、この言い分を鵜呑みにするとしても(個人的には使われてないと思ってますが)、アイディアに著作権はありません。

ドラマのシナリオ打ち合わせ(本打ちと報告書では記載されています、脚本会議、シナリオ会議などとも)には、脚本家、プロデューサー、場合によっては監督(演出)、原作者(編集者)などが参加します。当然、アイディアならプロデューサーや監督などからも出ます。現場では俳優もアイディアを出したりもします(稀に俳優が打ち合わせから参加するケースも)。
でも、誰も「脚本にクレジットしろ」とは言いません。クレジットされるのは、アイディアをまとめて、実際に脚本を書いた人だけです。

9・10話決定稿に関してはこの脚本家は一文字も書いていません。(それ以前に全ボツになった未決定稿はあると思いますが、この分のギャランティはきちんと支払われています。)
万が一、アイディアが使われているとしても、アイディア提供者をクレジットする必要はありません。
いったい、彼女は何を根拠にクレジットできると思ったのでしょうか。しかも最初は「脚本」クレジットのつもりだったとは…。脚本家の主張は無理筋だと私は思います。

もしも、上記のことを主張するなら、同時に1〜8話までのクレジットに「監修・協力 原作者」と入れるべきでしょう。そっちはスルーで自分の権利だけは主張する。こんな不平等な視野で「脚本を書くすべての人の権利を守る」なんてよく言えたものです。むしろ、9・10話の脚本を書いた人への権利侵害をしている自覚はないのでしょうか。

脚本家に同情する点があるとすれば、クレジット表記に責任を持つ日テレのプロデューサーが脚本家に肩入れして「僕も憤ってます」とか「9・10話で『原作・脚本 原作者』『脚本 (降ろされた)脚本家』と表記できるようにします」とか、できもしない口約束をしてたことですかね。そのせいで、より感情的になった部分もあるでしょう。

プロデューサーも脚本家と同じ認識の歪みを抱えていたのでこんなことを言ったのでしょうが、もう少し著作権について勉強しろと言いたくなります。
しかも、これだけ脚本家のクレジットに気を使ってるくせに、原作者のクレジットは忘れたりするんだから笑っちゃいますよね。
(報告書32ページ:Hulu の本件ドラマページのクレジットに関するトラブル
2023 年12月4日、日本テレビ側のミスで Hulu の本体ドラマのキャスト・スタッフ欄に原作者の表記が一切されていないことが発覚した。日本テレビは急いで修正しA氏とB氏が小学館に謝罪のメールを送った)

ちなみに、「クレジット記載に関しては日テレに権限がある」と脚本家は認識していたようですが(おそらく報告書作成者も同じ認識かも)、制作者(日テレ)にあるのは「クレジットをする責任」であり「義務」ではないでしょうか?
日テレはドラマに関わった人たちがどういう仕事をしたのか正しく表記する「義務」はありますが、「仕事をしてない人でも好き勝手に表記する」権限などあるのでしょうか?
原作者サイドが脚本家のクレジットを止めたのはパワハラでもなんでもありません。ごく常識的な対応だと私は思います。

このクレジット問題のゴタゴタは、報告書では23年10月から始まり24年1月に至っても決着していません。(その後の経過は書かれていませんが、多分今も終わってないと思います)
ところが、脚本家は23年12年のインスタグラムで「残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました。」と公開しています。
裁判にまでは至ってないので係争中とまでは言えませんが、それにしても決着ついてない案件を事実のように書く神経はいったいどこから来るのでしょうか。
外堀を埋めて既成事実化しようとした狙いがあるのでは、と疑ってしまいます。

もともとコンプライアンス違反であり、「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり」など、原作者が無理やり脚本を書いたかのように誤読を誘いかねない書き方に嫌悪感を抱いていたところに、さらに追い討ちで脚本家への好感度はどん底に落ちました。
実態は脚本家が『セクシー田中さん』のドラマとして相応しいクオリティの脚本を作れなかったから降板させられた、それだけのことでしょう。

9・10話は本当に不評だったのか

小学館の報告書で残念だったのが、原作者がブログで書かれていた9・10話の「不評」が否定されていなかったことです。
本当に不評だったのでしょうか?
まず9話ですが、初回に続いて2番めに高い視聴率を記録しています。ネットなどの感想を見ても、不評はほとんど聞かれませんでした。
10話はクリスマスイブの放送ということで視聴率は落ちましたが、代わりにタイムシフトや配信での視聴率は今までより好調でした。これはつまりクリスマスだから録画や配信で見た人が多かったということであり、総合視聴率では他の回と変わらない数字になっています。
つまり、データからでは「不評だった」と断じることは出来ないのです。

実際、当日のリアルタイム感想などを見ていても、不評がそこまで多い印象はありません。
というより、10話はある程度の不満が出るのは当たり前なのです。
原作が未完のドラマは結末が中途半端になりやすく、それが不満へとつながりやすいからです。
話題になった『ミステリと言う勿れ』でも、最終話は解決されない問題が多すぎて批判されていましたが、それを持ってして不評とは言われていません。
『セクシー田中さん』も「原作が終わってないから、こういう終わり方になるのも仕方ない。二期に期待」といった感想も多く見られました。

ではなぜ、9・10話が不評であるかのように言われるのか。
これもまた、脚本家のインスタのミスリードのせいではないかと私は思います。
脚本家のインスタについたコメントでは「駄作」とまで書かれていて、脚本家は否定も窘めもしないどころか同調していました。
これがバイアスとなり、9・10話が本当に不評のように錯覚させる要因になったのだと私は思います。
確かに、急遽原作者が手掛けることになり、スケジュールも切羽詰まった中で書かれたものでしょうから、原作者としては不本意な内容であったのかもしれません。

でも、本当に「(脚本家として)素人の原作者が書いたからつまらなかった」のだというのなら、9話もボロクソに批判されていないとおかしいと思うのです。
なのに、批判的感想でひっかかるのは10話だけ。
10話は不満を持たれやすい展開にならざるを得ないのですから、9話の批判が少ない以上、9・10話が脚本のせいで不評と決めつけるのは早計です。
この点、小学館サイドですらきちんと検証をしてないのはとても残念です。Xや他SNSや掲示板などからデータをもらって分析できたら、客観的な検証ができるのに。
せめて視聴率(総合まで含めて)だけでも出せばいいのになと思います。

ドラマ制作において、主に問題があったのは日テレプロデューサーと脚本家であり、ドラマ放送後に問題があったのは脚本家だったというのが、報告書を読んだ私の感想です。
プロデューサーも脚本家もあまりにも非常識で読んていて頭がくらくらしました。「クリエイターの権利を守る」とか偉そうなことを言っておきながら、原作者の権利は蔑ろにするのですから…。
(余談ですが脚本家の1回目のインスタ時点では、まだ原作者は我慢していました。2回目でアンサーを書く決意をしたそうです)
クリエイターとは脚本家のことだけですか? 原作者は入らないとでも言うのでしょうか?

でも、この非常識がまかり通っているのが、今の日本のテレビ界なのだろうなと、暗澹とした気持ちになっています。
今後、少しでも改善されるといいのですけれど、自浄作用はあまり期待できないなという諦めもあります。
出版社などの外部からの働きかけでいいから、少しづつでも変わっていきますように。

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