見出し画像

問いを立てる力とは

長女が2年生の6月まで通っていた川崎の小学校の面談で先生は私に言った。
「授業中によく手をあげて質問しますが、
 質問の的を射ていないことが多いです」

当時、長女は7歳になったばかり、
そもそも授業中に質問すること自体すごい!と思っていたのに
「的を射ていない」と言われるとは思わなかった。

日本の小学校の先生が全て子どもに「的を射る質問」をして欲しいと思っているわけではないとわかっている。わかっているがショックだった。
そうか、この国の教育では、わからないことを聞くということにすら「正解」が求められるのかと思った。

『的を射た質問をする』だなんて、大人になっても難しいことだ。
ただ的を射る多くのスポーツがそうであるように、
正しく的を射ることを身につけるには、何度も練習をすることが大切で
何度も練習するためには、何度も質問をしなければならない。

イギリスに移住するまでの半年間、理由があって長女は長野県の私の母校に通った。
日本の小学校に期待できることが減っていた私は
ここに子どもを通わせることに消極的だったが、ビザが待っても待っても出ず(ウクライナとロシアの戦争の影響で英国ビザの発給が大幅に遅れていた)家にずっと子どもがいるのは不健康だという私の親の勧めもあって、渋々、母校への転入の手続きをとった。

転入が決まった日の夕方、私が通った頃と変わらない校舎の中に長女と共に入り、一時的にだけお世話になるであろう担任の先生に初めて会った。
予定になかった長野県への転校が娘にどう影響を与えるのか、興味があった私は長女の様子を興味深くみていた。
すると彼女は教室をうろうろと歩き回り持ち前の質問大会を始めた。
「この魚は何?」「この絵はいつ描いたの?」などなど
すると、新しい担任の先生は私に言った
「いいですね。彼女はどこでも生きていける力を持っている。
 お母さん、イギリスに行ってもきっと大丈夫ですよ。」

新しい担任の先生が娘にあった時間はわずか5分。
先生は一体何をみてそう思ったのか当時の私には分からなかった。

その先生がそうなのか、学校自体がそうした教育をしているのかは分からないが、半年だけ通った長野県の普通の公立校では素敵な取り組みをしていた。

その面白い取り組みを私は授業参観で見ることができた。
その内容は
1:相談事がある児童がクラスのみんなに相談をする
2:クラスの児童がその相談に答える
3:たくさん集まった答えの中から、自分が一番良いともうものを選ぶ
というものだった

ある男の子が相談があると手を挙げた
「僕は先生にいつも怒られてもう嫌んなってきちゃいました」
すると先生が言う
「それは相談じゃないね。相談の言い方に直してごらん?」
相談の内容には突っ込まないのかと私は思わず笑ってしまった。
相談する男の子がどう言い換えたらいいか悩んでいると、他のクラスの子が
「先生に怒られないためにはどうしたらいいですか?」だよ と教えてくれる。

ここから活発な相談の答え発表会がスタートする
・そもそも悪いことをしなければいい
・先生にバレないようにやればいい
・怒られそうになったら先生に抱きついたらいい
・悪いことをしそうになったら、つま先をじっとみたらいい
などなど

先生は質問する児童をあて、答えの内容を反芻するだけで
議論に介入はしてこない。

最終的に
「先生に怒られること」に悩んでいた男の子が選んだ答えは
「先生にバレないようにする」だった。
先生は児童の選んだ答えを反芻する。
「相談:先生に怒られないためにはどうしたらいいか?の答えは、先生にバレないようにする。でした。相談は解決しました。拍手」と言って、相談会は終わった。

帰り道、娘にこの相談会はいつも行われているのか聞くと
「いつもではないけど、生活の時間が余ったりするとやるよ。でも私は自分の描いた漫画を発表する時間が好き」と答えた。
どうやら何かを発表させることが日常的に行われているらしい。

「毎日作文も書くんだけど、先生の好きなパターンがあって
 何か自分のできないことや、今気づいたこと、
 今は分からない質問とか書くの
 その後、次はこうしたい。とか、今できるようになった。とか書くと
 先生が帰りの会で読んでくれるんだよ。
 私も何回か選ばれたことがあるんだ。」

どうやって書いたら選ばれるのか、
どんな素敵な発表があったのか、長女は楽しそうに教えてくれた。

今、まもなく8歳になる長女はイギリスの小学校に通っていて、現地の公立小学校に通っている。
もちろん全ての授業は英語で行われる。
長女はついていけるはずもなく、何が分からないのかも分からないので、授業中に質問をすることはできない。
テストや演習問題は、読めないので、問題文を答えのところに写して時間を潰しているという。
それもそのはず、持ち帰ってきた英語のテストを見たら、日本の高校英語くらいのレベルの文章を読まないと解けない問題が出されていた。
あんなに何にでも興味あって、授業中も手をあげることを喜びにしていたのに、それを奪ってしまったような気がして心苦しい。

イギリスの学校でフラストレーションが溜まっているからか
家に帰ってきてからの「質問タイム」はさらに磨きがかかり
毎日毎日、ずっと質問をしている。
今日は、アメリカの竜巻のニュースを見て
「竜巻はどうして起きるの?気圧って何??」と質問していた。

英語が話せるようになったら素晴らしいと思う。
日本語もこのまま読み書きが日本の学校に通っているかのように、遅れずに身につけられたら、とも思う。

でも、なんにせよ「問いを立てる」と言う力がないと、いくら英語が話せても、日本語の読み書きができても、世界は面白く見えないのではないか。
「的を射ていない質問」が作れる方が、新しい発見ができるのではないか。
最近素晴らしく発展するAIツールを見ても、私は思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?