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「がんばる」について。



頑張っている人にかける言葉。


通勤中、駅の電光掲示板に

「ガンバロウ!!!受験生\(^o^)/桜が咲くことを願っています!○○駅員一同」

という文字が流れていった。
もうそんな季節なんですね。
この土日は春みたいに暖かかったし、時が流れるのがとてもはやい。

私はこの文字を見て、ほっこりしたと同時に、うっっ、、と腹パンチされたような気持ちにもなった。

こうやって応援してくれる人がいるとすると、ヨシ!と褌を締め直すような心持ちになる受験生もいるだろうなぁと思うと、
その気遣いにホットな気持ちになる。

しかし、すでに頑張っている人に「頑張れ」と応援したい時、「頑張れ」という言葉をそのまま言って良いのかわからなくなることがよくある。
何かに向かってポジティブに走っている人に対しては、この言葉は有効なのかもしれない。
後押ししてもらえるし、〇〇も頑張っていると思えば自分も頑張れる!と上昇していけるかもしれない。
しかし、耐えて耐えて耐え抜くような頑張りの場合には、もしかしたら心が折れてしまうきっかけになるかもしれない。
プレッシャーを感じて、「自分は頑張りが足りない」「頑張らなきゃいけない」「頑張っていない自分はダメだ」という思考になる可能性もある。

揚げ足を取るつもりはないのだけれど、「ガンバロウ」には更に「頑張って当たり前感」がある気がしてしまった。
他にも同じように頑張っている人がいるから一緒に頑張ろうね!って言ってくれてるのだとしたら、それは勇気づけられることだけど、
同程度に頑張れていない自分が居たとしたら、うーーーーん辛いです。

頑張っている人を応援したい時、力になりたい時、支えたい時、寄り添いたい時、
どういう言動をすれば良いんでしょうね。

そんな私はお付き合いしてた方に、「今日も頑張ろ〜✊」って朝よくLINEしてました…。
特に何も深く考えずに送っていたけれど、相手の心身の健康状態によっては、エネルギーともなるし、ナイフのようにもなる。
言葉とは恐ろしい。


頑張っている自分しか好きじゃない?


私にはとてつもなく頑張れた経験と、全く頑張れなくて逃げ出した経験が沢山ある。

まず小5。
習っていたバレエを辞めた。
先生の厳しさに耐えられなかった。
バレエ自体の楽しさに目覚めてきて夢中になりかけていた矢先の出来事で、
好きになりかけていたことを続けられなかった自分を責めた。
どうして行きたくないんだろうって。
と同時に、辞められた時の解放感ったらなかった。

小学5・6年。
努力することの素晴らしさを熱く実感させてくれる担任の先生だった。
小学生、ポテンシャルがまだまだあるので、努力すればクラスでそこそこの成績にはなれるし、子供なので(子供でなくても)褒められれば嬉しい。
陸上競技にも熱心な先生で、特に長距離は努力すればタイムも伸びやすいし、小学生のうちは根性論や精神論もまかり通った。
バレエを辞めて、陸上に熱を上げていた。

中学2年。
中学に入って遊び呆けまくって、勉強は一夜漬け、部活も毎日走るのしんどーと思いながらも部長を任され、それなりにやっていた。
ところがある時走ることがしんどくなって、でもサボることは絶対やってはいけないこと、という考えがあり、それでも行きたくなくて、朝家を出た後一人、寒空の下人に見つからない場所をふらふら歩いて時間を潰した。
バレエに行きたくなくなった時も同じようなことをしていたのだ。
体調が悪いから休みますと顧問に電話をした。
しかし親に見つかったのだ。
よって隠し切れずに、嘘をついたことも重なって、更に罪悪感を感じ自分を責めた。
顧問や仲間の目もあり、部に戻りづらかったが、別の顧問の力添えもありなんとか持ち堪えた。

中3。
今まで勉強をサボっていたし、部活の一件もあり、このままではダメだ!と一念発起。
自分で塾に行かせて欲しいと親に頼み、勉強も部活もその他諸々学校行事も、全て全力で取り組んだ。
結果第一志望校に合格。
頑張れていた時の自分は本当に輝いていたし、自分で自分を好きになったし、やり切ったことで自信がついた。
やり切れたのは周囲の人が支えてくれたからだと素直に思えたし、今まで出会った全ての人に感謝できるようになった。
全ての出会いから自分が構成されている、とご縁を感じるようになったのはこの時。

高校1・2年。
ところがそう上手くはいかない。
受験を頑張って、志望校に入った先のことなど、一切何も考えていなかったのだ。
所謂燃え尽き症候群。
陸上部に入ろうか迷ったが、受験で鈍った身体には辛過ぎたし、そこまで長距離走も好きになれなかった。
他にやりたいこともなく、帰宅部になった。
そして自分の学力では到底補えない部分と向き合わなければならず、相当覚悟して努力しなければ、置いていかれる一方だった。
目標もないため、何のためにこの苦痛を続けなければならないのかと、手を動かす前に悶々とそんなことばかり考えていた。
志望校選びをして目標を持とうとしたが、そこまで本気で行きたい大学や、やりたいことも見つからず、とにかく邪念だらけだった。
そんな中、高校2年の冬、胸躍るようなやってみたいことをやっと見つけた。
映画とお芝居だ。
ある映画を観て、こんなに情熱を注げるものってあるんだ、と知った。
今まで映画なんて殆ど観たことがなかったのに、とてつもなく興味を持った。
嬉しくて、好奇心が爆発して、もう今すぐにでもやりたかった。
ところがだ、何のために今高校に通っているのかわからない現象が益々加速してしまったのだ。
思春期特有の?、「私のことなんて誰も理解できるわけない」を爆発させ、周囲から心を閉ざしていた。
それまで課題やテストもやり過ごしてきたが、
高校2年の正月休み、遂に課題をやらなかった。
しかし、やらずに学校に行く勇気もなかった。
そして、また飛んだ。
とにかく逃げ出したかった。
違う世界に飛び込むことで何か変わる気がして
逃げ出したかった。
親は相当心配したし、きっと私のことがわからずとても困惑したと思う。

大学1〜3年。
無事に映画とお芝居の勉強ができるようになった。
初めのうちは思っていたより何もできなくて悶々とする日々だったが、
人との関わりが増えるにつれ、信頼してもらえるようになったり期待してくれる人が出てきたりして、挑戦させてもらえる機会も増えとても楽しかった。
応えたくて、不器用でも一生懸命やった。
あるいは、自分には無い才能を持つ仲間たちの姿に感銘を受け、自分も巻き込み返したい、そう思うようになった。
仲間たちとの作品作りが愛おしかった。

大学4年。
あるプロジェクトのリーダーをしていた。自分が出した企画だった。
しかし、自分にはあまりに不向きだった。
どんな仕事なのか興味があったから、やってみたいなぁと思っていた仕事だったが、
自分がリーダーとして動くには、あまりにビジョンも意志も不明瞭だった。
動き出してしまった企画は止まらない。
予算という名の皆の学費もかかっている。
辞めたくても止めちゃいけない。
何とか自分を誤魔化して、不向きな仕事も、膨大なタスクもこなした。
仕事じゃないから給料は出ない。
やりたくてやっていること。
企画が進めば楽しくなってくるかもしれない。
そう信じて今度は手を広げ過ぎた。
もっとクリエイティブに思考しなければならないところも、すべて義務感になってしまっていった為、
何も面白くなかった。
しかしクリエイティブに思考する余裕も何もなかった。
自分で自分の首を絞めたのだ。
支えてくれる仲間が居たので、その人たちの為に頑張らなきゃって、私が面白くなさそうにしてたらダメだって、それだけを思ってなんとか走っていた。
しかし限界を超えたまま走ってしまった。
全員に愛を注ぐことはできない、と思った。
元々過食傾向があるが、激太りしていた。
布団から出られない日もあった。
それでもタスクは貯まっていくので、手を動かさない割には焦りばかりが募った。
それで信頼を失うのもわかっていたし、失いたくないから走り続けていたのだけれど、
身体と心が言うことを聞かない日も多かった。
最終的には、「もう限界です」って顔に書いてあるし実績にも現れているのに「やります」と言ったり、「今調整中です」と中途半端に逃れたりした。
「自分はこんなにやっているのに」という被害者意識も顔を出してきて、突然全同期と教授の前で泣いたこともあった。
本当に自己中心的で厄介な人間だ…。
そうやって、「これは出来ませんでした。しかしこういう成果をあげました。」を言うことができずに、終わり方をまともにすることすら出来なかった。
出来ない自分を認めることができなかった。
責任を感じて頑張っていたことが、結果的に無責任な終わり方になった。
始まり方と終わり方くらいちゃんと出来た方が、自分を含め関わった全ての人にとって良かったのだと思う。


人は皆、既に頑張っている。


自信がついたり、自信を失ったり、そんなことを繰り返しているうちに、総合的に自分を肯定できないことが増えてしまった。

しかし最近の失恋でやっと気づいた(遅)
私は自分を肯定することが出来ていないから、
足りない自分を埋めるために、他の何かに依存して、
バランス感覚を失ってしまう。
恋愛にしても仕事にしても何にしても、自立は本当に大切ですね。
どうやって自立心を育てていきましょうね。
自分で自分のご機嫌取るって一番難しい。

人は朝起きて布団から出るだけで、
お風呂に入るだけで
それだけで充分頑張っているのかもしれない。
(しかし私はお風呂に入るのを非常に面倒臭く感じます。家事も嫌いです。お金があれば全部誰かにやって欲しい😅自分を楽しませる為に頑張る力が著しく欠落している…)

呼吸しているだけで、
生きているだけで、
本当はそれだけでとても尊いことなのに。

自分が頑張りたい!と思ったことは頑張れば良い。
きっとその方が楽しいから。
成長なくして人間楽しくないのも事実だから。
でもどこかで頑張れないと思ったことからは、
手を引いても良いのかもしれない。
できればちゃんと理由を述べて。
理由も言いたくなければ言わなくたって良いのかもしれない。
心と身体が壊れる前に。
生きて呼吸しているだけで、本当は充分なんだよって。
何の為に頑張っているのかわからなくなると、足元がグラつく。
グラつきだすと、もう止まらないかもしれない。
人は社会的な動物だし、他者と関わっている以上、誠実に理由を言ったり誠意を持って終えられたりできた方が、
相手の人生にとっても自分が後悔しない為にも
良いのかもしれない。
でもそれすら無理な時には、SOSを出している心身を労ってあげても良いと思う。
逃げではなく撤退。
あくまで自分の人生には意味ある撤退。

でも社会的な動物だからこそ、誰かと関わりたいと思うし、大切な人ができたら大切にしたいし、
仲間が出来れば仲間の役に立ちたいと思うかもしれない。
いずれにしても
大切な人を大切にしたいと思った時に、相手を真に愛する為には、
まず自分を愛してあげて、満たされていることが一番良いのかもしれない。
頑張ってない自分も、まぁ可愛いじゃん!って☺︎
生きてるだけで丸儲け◎

ネガティブに聞こえる文章も多かったけれど、
私はこれら全ての経験を肯定しているつもり。
なぜならば、今まで出会った全ての人や起きた出来事が自分の血肉になっているから。
全て財産だから。
同じ失敗をしたとしても、少しは前進しているはずだから。
自分を省みることができるって凄く良いことだと思っている。
切り替えは遅いかもしれないけど、
自分を責めているわけではなく、好転させていく為の手段。
良い時も悪い時も大切に出来たら良いな。
今自分があるのは今までがあったから。
明日の自分があるのは今日の自分があるから。
そう思って、今を大切に生きたい。

今日もありがとう。



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