『自分を知ること、相手を知ること。本質的な人生とは』
世間一般では、緊張をしないこと、リラックスは大事と言われている。
それは確かにそうだろうと思う。
私だって疲れたらマッサージをしてもらうのは至福の時間だし、アロマも大好きだし、リラックスタイムとして甘いものを食べたり、運転中に飲むテイクアウトのコーヒーは最高の癒しの時間だったりするし、緊張感ばかりの生活だったら単純に疲れるからリラックスは、もちろんあっていい。
ただ、リラックスや自分の快適さを追い求めても、そこには本当の私はいなかった。そんな事実を目の当たりにしてしまった。
もちろん、緊張を選ぶ必要はない。
ここで語りたいのは、どこに自分自身が居たのか…ということであって
緊張の中で頑張れとかリラックスも必要だとか、そういう行為レベルではないところを感じて欲しくて書いてみる。
思い起こせば、子供の頃から常に周りを気にして緊張ばかり感じている子だった。
相手に同化してしまい、人の問題も自分ごとのように感じてオドオドしたり、場の空気や相手の顔色や微妙な心の動きにもいちいち敏感な子供だったので、何するにしても緊張しているのがいつもの私だった。
当時はそんな自分を疑問に思ったことすらなく、私にとっては普通な感覚だった。ただ居心地は良くないな、と感じていた。
中学に入って不登校になった時、色んな出来事があり、感じるのが辛すぎて感情を感じることをやめようと決めた。
ちなみに、私は相手や条件などで簡単に自分が消えてしまう…らしい。
その事実にも私は驚いたが、確かにそうだった。
例えば、自分ひとりのご飯を何にしよう?と考えたとしたら、好きなものやその日の気分によって決める。
多少、迷うことはあっても基本的に好き嫌いはしっかりあるので決めるにあたっての曖昧さはなくて。
しかし、そこにひとたび人が現れると瞬時にその自分が消えてしまう。
とにかく「何でもいいよ」「特に食べたいものが思いつかないんだよね」
という言葉しか出てこなくて、どれだけ自分の中を探ってもそれしか出てこない…
でもそれは、本当は食べたいものがあるけど相手に合わせて我慢しているというわけでは全くなくて、
完全に自分が消えてしまうので自分の食べたいものすら全く浮かばなくなってしまう。不思議なのだけど。
これは食事に限らず、とにかくあらゆる場面でそうなってしまう。
全てにおいてこの動きをしているのが私という存在なのだ。
「優柔不断なんだね」「遠慮して相手に合わせてしまうんだね」というような一般的な個性みたいなものとは全く違う、そうにしかなりようがない私ならではの本質的な動き。
私は緊張感の中にいる自分は自分ではないと思って、一生懸命にリラックスする方法を探していた。
そして、あの時、極力人に関わらないことを決めた。独りでいることを選んだ。
「緊張しているのは私らしくない。」その答えを持ち続けた。
緊張感はよくないものだからリラックスした先に本当の自分がいるはず…と信じていたから、どんどん自分ではない方向にしか進みようがなかった。
まさか常に緊張感の中で相手のことばかり想っている私が、本当の私だとは思いもしなかった。
自分が消えてしまう私だからこそ、たくさんの人に関われる…などということは、知る由もなかった。
中1の時の、感情を感じることをやめると決めた(実際に口に出して宣言した)あの時の光景を未だに鮮明に覚えている。
あれからどんどん私の中から人(相手)がいなくなっていった。
気がついたら、目の前で人が困っていても何も感じられない自分が出来上がっていた。
とはいえ、優しい対応はしていた。見て見ぬ振りはしていなかったが、その時できることをすればいい。
そんなふうに、人との関係を感じていた。
自分の心だけでなく相手に向けていた意識も全くなくなり、気がつけば人を人と認識しなくなっていたようだ。
ましてや相手にも人生があるなんてことも消えていた…らしい。
目の前に相手はいるし話はするし笑うから、人と関われていると思っていた。
らしい。というのは、今、たくさんの方々と関わる人生になってみて
その時のフィーリングとは全くと言っていいほど違う自分を感じている。
以前がどんな状態かも想像できないが
間違いなく、相手にも人生があるなって思っていなかった。
相手が何を感じているのか?興味すらなかった。
そう、自分自身で言い切れてしまう。
ただただ、面白くもないのに笑ってごまかしていたような感じだ。
本当は底なしという言葉がぴったりなくらい人と関わりたい私なのに、
感じなくさせていたのでは全く相手と関わることもできないし、何も見えくるはずもない。
そのまま人生を終わろうとしていた。
本当の自分ではない、リラックスした状態(好きなことだけやったり、ワクワクして生きるみたいなことも含めて)を求め続けていたら、永遠に自分を見失っていただろう。
おどおどしたり緊張感と過敏さで居心地は良くなかったとしても、常にその中にいるのが私という存在だったと知れたのは本当に奇跡だ。
そらさんが語る本質的な叡智のバトンという場に出会えたこと。
世間一般で言われる、共通認識や価値観の中では見えなかったこと。人は似てる部分があるように見えるけど全員違う。
そこに流れている本質というものを知ることができた。
本質は常に動いている。
自分では当たり前すぎて気がつけない。
だからどんなに自分で探そうとしても見つけられない。既にもう自分らしくあらゆる選択をしている。
自分に気がつくために、出来事は起きていて
どの瞬間も他の選択肢がなかった… というくらい、毎瞬誰しもが自分らしい選択をしている。
それはひとりでは到底気がつけないこと。
そして、その本質に気がつけば、全てのことを否定なく見ることができる。
歓んで、緊張感の中に居られる。
緊張感とかいうものじゃなくて、しっかりと自分自身を感じながら。
本質的な人生。
相手も自分も否定することのない世界があるんだよ。
あなたがあなたらしく、何ごとも否定することなく生きている実感を感じられることを願って
ここに残してみたくなった。
きっと、多くの繊細な人が人と距離を置いて、見失っているだろうから。
michiru
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎そらさんが開催している本質的な叡智のバトンは、8月4日まで出雲で開催。その後、東京、兵庫、福岡と続いています。
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