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失くした眼鏡と歩くサボテン

ずっと行きたいと思っている文壇バーがある。行きつけのバーに行くとき少し遠回りをしてその店の前を通る。薄曇りの格子窓。たまに入口扉が開放されていて店内が見渡せる。古びた文庫本がたくさん並んだそのカウンターの1席にぽかんと口を開けた私が座っているところは到底想像できない。扉は開いているのに。勇気を出して目だけ這わせて覗き込んでみる。カウンターの女性と一瞬だけ視線を交わしたように思えたが気のせいですとばかりにそらされる。大丈夫です、ただの通りすがりですから。貴方たちの心地良い空間を乱したりしませんから。場違いとは、こういうことなのだ。

〈初心者向け ライティング入門講座〉
お店のリツイートを最初に見たとき、何かの演出のようにスライドする指がピタッと止まった。私は通りすがっただけなんです、お店を覗き込んで通り過ぎるときと同じ表情を浮かべる。御徒町。うちからアクセス悪いしね、そうだね。

『メガネ、どっかいった』
前の週に一緒に飲み会をしたメンバーからのメッセージだった。相当呑んでもいたし、どこで失くしたかもわからないと。当人は諦めていたけれど念のため一次会と二次会、双方の幹事に問い合わせをする。
『預かってはいない』
本人に内緒で回収し、次回の飲み会には平然と紛失したはずのメガネをかけて登場するつもりだった私のイタズラ心はポキリと折れた。ダメ元で一次会の会場に電話をかけてみる。
「メガネでしたら翌朝トイレにお忘れだったものが届いてますよ。」
見つかった。持ち主にメガネをかけて満足げな私の写真を送る様子を想像しただけで口元が緩み、ポキリと折れたはずの心は立て直され何重にも補強されていた。一次会の会場だったところは…御徒町。あぁ、なんだか背中を押されたみたいだ。だって仕方ない、忘れ物を取りに行かなくちゃいけないんだから。そう言い訳しながら受講料1時間半3,000円の電子チケットを購入していた。

講座の日は真夏の暑さがぶり返し、駅から徒歩8分のレンタルスペースへの道のりはとてつもなく遠く感じた。電子チケットの購入者は私含めて9名いるようだった。出来るだけ自分が9番目になるようスニーカーのソールを熱された歩道に擦り付けながら会場に入った。

講師の女性は商業ライター。手元の資料に華々しい実績が並ぶ。小説家としても活動しているらしい。配布された冊子には年齢を記載したものがなかったが、主催の男性が20代だったことからして講師の女性も相応に若いのだろう。会場には既に7人の受講生が座っており、見るからにIQ3程度の侵入者に一瞬全員の視線がぎゅっと集まりそして散っていった。いいんですいいんです、私だってサボテン(IQ3程度)が1人歩いて受付を済ませていたら一挙一動を凝視してしまうだろう、だから皆さんの気持ちはわかります、という思いを態度で示すためにも部屋の端の席に出来るだけ小さく詰めて座った。

講座の内容は看板に偽りなく、初歩の初歩、初心者向けだった。何をどう書くのか、書き方、モチベーションの保ち方、公開の仕方、書くことの無限の可能性を説く聡明そうな講師は実に楽しそうに見えた。どの項目も例として最初に王道の手順を挙げるが、次に必ずしもその手順でなければならないとは限らない、と補足が入る。やはり、と思ったがこの世界もルールなどあってないようなモノなのだ。少々型破りでも面白いモノを、更に言うなら継続して書くことが出来るのならそれが勝ち。だとしたら何の基礎もないサボテン並知能の私にも書くことが許されるのではないか。講演の内容は大きな気付きを得るまでの目新しいものではなかったが、逆に自身が初歩から半歩踏み出していることの裏付けとなった気がして悦ばしかった。

「もし皆さんの前で聞きづらいことがあれば終了後に個人的にお伺いします。」
終盤、講師の言葉で内側にしまい込んでいた思いが疼き出す。私は、誰かプロに、私の書いたものを読んでもらいたい。自己顕示欲からでなく、サボテン並知能の私が書いているものが世間に嘲笑されるようなものか否か、このまま突き進んで赤っ恥をかくようなシロモノじゃないかどうかをそっと耳打ちしてほしい。どうしよう、待ったら、並んだら、何か言葉を貰うことができるかもしれない。だがしかしその一歩が出てこない。品の良いワンピースを着こなす女性講師と私とでは受けてきた教育の質の差は歴然だ。サボテンの言語は彼女に伝わるだろうか、それより先に彼女の言語がサボテンに理解できるのだろうか。

迷っていると私の前に受講者の男性が一人と女性が一人、ともに自らの名刺を携えて講師の前に並んでいた。その社会人然とした様子を見たとき、私の膨らんでいた感情は自らの針で内側を突かれたかのように萎んでしまった。私はまだ名もなきサボテンで、名乗るような名前もなかったのだ。気が付くと私は会場の外にいて、往路に擦り付けたスニーカーのソール跡をなぞるように駅までの道を折り返した。

駅まで戻るとそこから更に反対口にある、先週の飲み会の会場へ向かう。事前に電話を入れておいたこともあり、サイン1つですんなりとメガネを受け取ることができた。家から持参した猫柄のメガネケースに黒縁のメガネを大切にしまい、持ち帰る。帰りの電車の中で今日の講座の内容を反芻しながらメガネを丁寧に拭き上げ、かけてみる。びっくりするほど似合わない。その強烈な似合わなさが更に持ち主の笑いを誘うであろうことを思うと、はやる気持ちを抑えきれず車内でメガネ姿の自らを撮影し、注釈のメッセージすら添えず不躾に送りつけた。大丈夫、今日の経験も必ず糧になるはず。落ち込んでいた気持ちも口角とともに不気味に上がっていた。あのバーだってあと100遍通りがかれば1度くらい誰かが手招きしてくれるかもしれない。スマホの真っ暗な画面ににやけた自分の顔を映すと返信のメッセージが届いたことを知らせるLEDが点灯していた。

『俺のメガネ?』
『ちがうの???』
『俺のじゃない』

・・・・・・・。


『どうしよう…
 知らないおじさんのメガネ
 持ってきちゃった!』

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