見出し画像

424/1096 【どちらもエンタメ】お化け屋敷と人生

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で424日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

424日目、病院にいる。

娘の足の痛みのために、救急病棟にいるのだ。
小児病棟に回され、小児病棟ではやることがないから救急病棟に行くように言われたのだ。

そこで、レントゲンを撮ってもらい医者と話をして、これまでと同じように今回もまた成長期における自然なものだと言われて終わった。

その診断結果はデータで小児病棟に送るらしい。が、なぜか、すべての結果が出たと言いに小児病棟に戻るように言われ、ただチャオと言うためだけに待たされ続けている。

朝一番に来て、もう午後の3時近い。もう日本が日付変更線をまたぐまで1時間しかない!
というわけで、今日は病院内での執筆という困難な状況だ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

イタリアの病院のシステムというのは、理不尽の上に理不尽をミルフィーユのように重ねて出来上がっているものである。

わたしはイタリアで3回ほど手術を受けて入院をしたり、長期に渡って両手で間に合わない数の病院へ通った経験があるのだが、日本ではとても受け入れられないような出来事に何度も遭遇してきた。

わたしはそのたびに、これをなんとかしてギネスに載せられないものか、というおかしなアイデアが心にやってくるのを感じた。

手術日が決まり、手術前入院をして前日から食べたり飲んだりをせずに準備をして待っていても、いざ手術の時間に誰も病室に来ない。 ソワソワしながら一分一秒を過ごし、何時間も過ぎてから「手術やっぱ今日じゃなくなったっぽい、わかんないけど」と言われる…

「わかったら教えるね」と言われてそのまま放置、結局その日は手術予定だった医師が学会か何かのパーティーに出てしまったらしく、スタッフが誰もそれを知らなかった。 夫も仕事の予定を変更して手術に備えていたというのに、すべてが無駄骨に…こんなことが日常的に起こる。

人生にはこういうことがよくあるものだ。
なんでやねん!も、どないやねん!も、やるせないことも悔しいことも切ないこともいっぱいある。これはきっと、万人共通なのだ。

以前のわたしはこれらと戦っていた。自分が変わればこんなことが起こらなくなるだろうと信じていたからだ。宇宙の真理を学ぶほどに苦しくなる面があった。自分に原因がある、そう思えばこそ、こういう出来事に遭遇するたびに「自分のなにがこれを起こしたのだろう」と思ってきたのだ。

でも、わたしはそこからリタイアした。自分のせいにするのをやめたのだ。
たとえそれが、真理を生きる道から外れようとも自分の快を選択しようと思った。すると、とっっっっっっても楽になった。
そこでわたしは、あるとっっっても生意気なことに気がついたのだ。

ああ、きっとこれは、お釈迦さまが菩提樹の樹の下で修行をして骨の標本のように痩せて、それでも悟りを開くことができずにいたときのエピソードのように、握りしめていたのものを捨てたから楽になったのだと思ったのだ。

お釈迦さまはそのとき、「すべての欲を捨てたのになぜわたしは悟れないのだ・・」と考え、そのときに「ああそうか、わたしは悟りたいという欲だけは捨てていなかったのだ」と気が付き、それを諦めた瞬間に悟りを開いたのだそうだ。

わたしは自分に起こったことを、それとちょっと類似のことなのではないかと思った。お釈迦さまと自分を一緒にするんじゃねえという話なのだけれど、でもほんとうにそう思ったのだ。わたしは、自分の中から原因を見つけ、それを変えることで人生を良くしようと思うことをやめた。
人生このままでいいと思ったのだった。自分というのは、眺めて楽しむ対象になった。

わたしがなぜ「自分を変えよう」とすることからリタイアしようと思ったのかと言うと、なにかを辛いと思ったり、不満に思ったり、怒ったり泣いたり笑ったりする自分というのは、自分ではないのだと気がついたからだった。
だって、まっっっっったく思い通りになどならないのだもの!いくらチャレンジしても、できた試しがないのだ!

わたしは、優しく在りたいなどと思う。けれども、ずぇんずぇん優しくないわたしがいるのだ。心を広く持ちたいと思う。けれども、ネズミの額よりも心の狭い自分もいるのだ。わたしは仕方ないので、そいつらを無視して暮らしてみたりした。すると、案外自分の予想を遥かに超えた優しい自分もいたりして、どれが自分なのだろうと思ったのがきっかけだった。

二重人格どころか、もう何十人もいるのと同じなのだ。お腹が空いていると心の広さはネズミの額どころかショウリョウバッタの額くらいになってしまうし、朝眠いのに無理やり起きたときにはチンピラになってしまうし、お腹がいっぱいでよく眠ったあとでグッドルッキングガイにチヤホヤされているときは目の前にない花畑が見えたりする。

ほんじゃ、わたしはどういう人なのだろう?ひと言でも言えないし、わたしの言うことも聞かないし、もうこれは、生まれ落ちてから様々な環境で培われた「反応」というものを、ただし続けているだけなのではないのか?
わたしはその「経験者」なのだとも言える。

この、あれっ・・・・今まで自分だと思っていたものって、いないじゃないか!!という気づきが、わたしの人生における気付きの中で、最も自分が驚愕したもののうちのひとつだ。

わたしは反応である。わたしはただ気がついている意識である。でも、壇珠さんというものがいるわけではない。でも、わたしはまぎれもなく壇珠さんだ。変なことじゃないか!変だけど、楽だ。わたしはこれを勝手に採用した。ほかのいかなるスピリチュアルティーチャーたちが「自分の中に原因を見つけろ」という真理を伝えていても、こっそりそこから抜け出して楽になった。そして逆に、ああそうか、自分の人生の舵をぜんぶ自分で取ろうだなどという執着(原因)があったから、辛かったんだなあと思った。
真理は、やっぱり真理だった。

わたしはこんなふうにして、まずこの世は苦があるものだと思ってしまえ!自分のせいにするのをやめてしまえ!というのと、自分を自分のコントロール下に置くのは土台無理な話なんやな・・・というのとに気がついて、自分を自分のものだと思わなくなってから、勝手に個人的に私的に、極楽気分でいることができるようになった。

寂しいときも、くっそムカついているときも、そんなエンタメを経験していると思えば、極楽極楽。
そう、人生とお化け屋敷は似ている。ちょうど、お化け屋敷に入ってお化けがいると怖いけれど、それはあえて味わっているのだと思えば幸せなのと同じだ。お化け屋敷だということを忘れなければ、大丈夫。

お化け屋敷には、お化けがいるものだ。それを怖がるのも、しゃあない。そこでわたしたちにできることと言えば、これはお化け屋敷だと覚えていること。そこから自分を観ること。そうするとわたしたちは、ああ~怖くて最高!来た甲斐があるわ~!と思えるのだ。

というわけで、今日はたった一時間で書きあげた、この世は苦だね、すごいエンタメやね、自分のことは外から眺める対象にしてみよう!これなかなか極楽なり!という感覚のシェアをする、超特急記事でありました。

それではまた、明日!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)