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485/1096 ぶつかる意見を包むもの

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で484日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

485日目、意識や真理のことをばかりについて書くということから、どんどん心が離れている。意識のことは、学びと実践に明け暮れてきたのもあって、これまで夢中で書いてきた。でも、なにを書いてもいいんだよな~という気持ちのほうが自由度が高くて、日毎に気持ちがそちらに広がっていく。

この気楽な身軽さが、この毎日投稿内だけのことにとどまらず自分のあらゆることに波及しはじめていて、たまに恐ろしいほど自由で残酷な考えとなって姿を表すことがある。ああ、なにも男性は夫だけじゃないんだよなとか、住むのはイタリアじゃなくてもいいんだよなとか、今から仕事を変えてもいいんだよなとか、この毎日投稿だっていつやめてもいいんだよなとか。
こわ~い!(笑)

今日はさっそく、心のことに関係ないことを書いてみよう。自分はなにを書くだろう。あ・・しかしきっと、毎日投稿はやめないであろうと思っております!

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昨夜はなんと、夫と喧嘩をした・・!娘の進学について、意見が合わなかったところからのぶつかり合いだった。

夫は娘の選択を心配する。わたしは逆に信頼している。どちらもそれぞれの愛情由来のものなのだけれど、もめにもめた。

夫は毎日朝から晩まで可能なかぎりニュースを読み込んでためている知識と現状の分析とイタリアの現在の就職事情に関する情報よって武装しているのに対し、わたしは未来はわからないしきっとだいじょうぶだぁという北の国からのほのぼのとしたお便りだけを武器としている。

それは、夫がロッキード・マーティン F-35AライトニングII戦闘機とFIM-92スティンガー地対空ミサイルとアサルトライフルM16を取り揃えて待ち構えているのに対し、こちらが竹やりと祈りで対抗するのと同じことである・・

夫がひたすら情報空爆を起こすのに対し、わたしは「でもわたしはやってみたいことをただただサポートしてあげたいだ」「大丈夫だとおもうよ」「わたしらに未来はわからないじゃない」などと言うのみで、そこにまた夫側から、なぜ子供の言うことをただ手放しにサポートするべきでないか、なぜ大丈夫でない可能性があるのか、ある程度予測できる未来にどのようなものがあるのか、それらの根拠、などの情報が降ってくる。

夫の言う鋭い意見に対して、毎度「あいつが好きならええんでねえか」などと言っていると、夫はスーツを着てリゲインを飲んで情報戦争で24時間戦えるビジネスマン、自分は情報に疎めなほうのお百姓さんで、それらが今後の経済の動向について話し合っているような気分になってきた。わたしは不利であった。不利なのに、まあでもだいじょうぶだっぺというすべてを蹴散らす無敵の返答をもったタイプのお百姓さんだった。そう、埒が明かないのである。最後には平行線のまま話し合いが決裂した。

わたしは踵を返しながら「フッ・・毎日投稿のいいネタができたぜ」というここには絶対に書けないことを思い、階段を上がりはじめてから二階にいる娘のことがちょっと心配になった。自分のことでこんなに親がもめちゃって、、、と困惑してるかな?と思ったのだった。

すると、娘は意外にもゴキゲンな表情だった。わたしがそれに驚いて見つめると、娘は「・・・??」という顔で見つめ返してきた。
そして、ねえバッボ(父ちゃん)なんて言ってた?!などと聞いてくるので軽く説明すると、「フンだ!」という感じで、あまり気にも留めていない様子。それどころか、その後にそっと部屋を覗くと、猫を抱っこしてクスクス笑いながらTikTokのダンスを踊っているのだ。

はじめは不思議だった。なぜ機嫌が良いのだろう?でも、娘の気持ちになってみたら、だんだんわかってきたのだ。

一方は知識を総動員して彼女を心配している。一方は無条件にお花畑から「だいじょうぶだぁ便り」を送っている。意見は拮抗していて、わたしたちにはそれらが正反対のものに見えていた。どちらかいっぽうだけが正しいように見えていたのだ。

でもきっと、娘にしてみればどちらもおなじ穴のムジナなのだ。彼女を愛しているという点で、どちらにも相違などないように見えたのではないだろうか。そこから見れば、それらの正反対の意見はどちらも同じ「自分を愛している人物ならではの意見カテゴリ」に入っていて、どちらも嬉しいものだったのだろう。子供が親に求めるものはそこだけで、どちらが正しいのかなんて、鼻っから気にもしていないのだと思う。わたしたちの話し合いがどうなろうと、彼女は結局いつものように彼女の好きにするのだ。そりゃそうか!と可笑しくなった。

誰かのことを、心配しても信頼してもいい。もしそこに、本気のなにかがあるならば。これがわたしの感覚をちょっと広げてくれた。
「信頼するのが良い」という態度は、「信頼しないと悪くなる」という不信感を裏に携えているものだ。また、「心配するのが良い」という態度は、「心配がちゃんと潰せれば大丈夫」という信頼を裏に携えていることでもある。ものごとには必ず裏がある。必ず・・・!

・・・・そう、、、今日の自分の「心のことと関係ないことを書く」という宣言は、放っておけば必ずや心のことを書くであろうという予測があったからこそ生まれたものだったのだろう。ほらこうして、まんまと心のことを書いてしまったじゃないか!簡単に裏返ってしまった。

でも、もしかしたら読んでくださるお方にとっては、どちらだっていいという観点があるのかも知れない。その観点からは、どちらでも良いことだ。。

どちらかが正しく見えているときには、それらのどちらをも丸っと包む観点を探してみると良いのかも知れませんね。

というわけで、今日は喧嘩から学んだ視点を広くすることについてのシェアでございました。それではまた、明日ねー!

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