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532/1096【往復書簡】おっぱいを得るのに、俺にはラーメンしかねえんです!!

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で532日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

532日目、コロナウイルスの感染地帯真っ只中となった北イタリア。イタリア全土がレッドゾーンに指定されて数日が経つ。外に出ないで過ごす分には、家の中はとても平和だ。

往復書簡が楽しくて、だんだんのめり込みの様相を呈してきた。これ、これなのだ。この、大丈夫なのあなた感。突っ走り過ぎじゃないの感。周りが目に入ってないよね感。わたしはこれが好きだ。自分の心配を制して、自分なんて放っておいて夢中でなにかに当たるのが好きだ。

毎日投稿はいよいよあと約2週間で半分の日数を折り返す。いよいよ後半に入るだなんてなんということだろう!!往復書簡が始まってから、どんどん日数が重なっていくのを不思議な思いで眺めている。自分のウキウキと、圭吾さんの笑顔と、農夫が採れた野菜を将軍さまに献上するかのような、読者さまに捧げるような思いが混ざって、勝手に手が書いてくれる。きっとウキウキを持った人と響き合うのだろう。今日も、一緒に楽しめますように。

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上の圭吾さんの記事へのお返事です。

今回も、一字一句が面白くてたまりませんでした。ウキウキとデヘデヘが抑えられず、超ニタニタしながら読んでいます!!

今回くださったお返事で、人生で一度も思い至ったことのない発想に触れました。わたしが不良・・・!!わたしは子供の頃からずっと自分がわかりやすい不良になれなかったことを意気地なしだと思ってきたので、自分を一度も不良だと思ったことがありませんでした。が、考えてみれば、自分には従順さというものがてんでどこにもありませんでした。その観点でいくと、たしかにひどい不良ですね!いんやァ~~意外です。

できるだけ百点に近づくための人生は窮屈です。窮屈と言うか、無理です。これは完全なる邪推ですが、私と壇珠さんに共通点があるとすれば、百点満点のテストで一万点くらい取ってやろうと思っているふてぶてしさだと思います。一緒にしちゃってごめんなさい。我々の、ある意味『規格外』の楽しさみたいなものを懲りずに狙い続けるふてぶてしさ、図太さ、居直り強盗感、逆転ホームランを信じ続ける諦めの悪さが、痛快なのだと思います。

居直り強盗感・・!!とんでもねえ人たちです!かつ逆転ホームランを狙っているとなると、とてつもなく図々しいですね!しかし、たしかに!たしかにそうなのです。

わたしはあるときまで勉強が大好きでした。好きだった間は、面白いくらいスコアが良かったです。が、そこに親の期待を感じるようになってからは良い点数を取ることがただの重荷となり、勉強が嫌いになりました。母が、「これまで俺を馬鹿にしてきた奴らを見返してやりたいから頑張ってくれ、俺から秀才が生まれたなんて最高だ!今に見てろよ~~」と言ったとき、母の復讐の道具として見られていることに驚愕しました。わたしは母が自分の側にいなくて、対岸にいることに驚きました。母はこんなにも盲目的な、ひとりの人間なのだと思いました。親といえども他人。わたしはなぜなのか、この絶対的な事実から逃げるもんかと思いました。

このことで自分はひね始め、学校の先生も学校のテストも、ほんとうに良いものなのか疑わしいぜと思い始めました。親の期待の重圧ときたら「彼らの人生の幸せがかかっている」というレベルで、それに応えようとして正攻法でいい点数を取ることは自分にとって「社会や学校や親に負けた」ことになるのだと思い怒りを感じました。しかも、その先に大人が期待しているのは安定した道だったため、『安定したら死ぬ』と骨髄から思っていた自分は別の方向で戦いたくなりました。このあたりからどうも、内側でフツフツと不良になり始めたのだと思います。

わたしはお小遣いをためてある程度の金額になると、本を爆買いするようになりました。一度に1万円くらい突っ込んで、名言集などをまとめて買って読み漁りました。そのときに、デール・カーネギーが生涯をかけてセレクトした名言集なるものを手に入れました。ところが偉人たちの名言に紛れ込ませる形でカーネギー自身の名言もたくさん載せられていて、これが若気に満ちた自分の鼻につきました。偉人の言葉を集めながら思いついた言葉をカーネギー自身の名言として載せたそうで、青かった自分はそこにムカつきました。そこでわたしは故・デール・カーネギー氏を標的とし、彼に反論する方法ばかりを考えていました。正攻法で評価されるよりも、世界的に評価されている成功者かつ人格者であるカーネギーに洗脳されない自分がカッコいいし、その日々を面白いと思って(しまって)いたのでした。

このあたりで、「『規格外』の楽しさみたいなものを懲りずに狙い続けるふてぶてしさ」を持ち始めていたのだと思います。マトモに大学に行ったり就職したりするための活動をなにもせずにニートとなり、デール・カーネギーにどうやってホームラン級の反論をしようかと日夜本気で考えていた当時の自分を幸福な不良だったと思います。今の自分が、この当時の自分の行動を、必要だった、ほんとうに良かったと思うだなんて!すべての事象は塞翁が馬ですね。

わたしは、わたしたちは偉人がどう言っていようとも自分が感じることをなによりも大切にしていいのだと本気で思います。

自分と何度も喧嘩して、自分と何度も仲直りをする。それが、自分との絆を深める最上の方法だと。別れ無くして出会いなし。喧嘩無くして絆なし。もっとこうバチバチぶつかってしまっていいと思うのです。喧嘩を恐れて怒りや悲しみを押し殺すことが、一番やばいと思うのです。

勝手な想像なのですが、圭吾さんはいつも自分と戦っていますよね。わたしはそこに親近感を覚えました。でももっと親近感を覚えているのは、これも勝手な想像なのですが、「楽になりたい」と考えていないことです。圭吾さんは、自分自身とのバチバチをいつもとても楽しんでいるように見えます。わたしも楽になりたいとは思っていません。むしろ、嫌です。こう書くと、読む人に「じゃあ苦しんでいる人が苦しいままでいればいいのか」と思われてしまいそうですが、そういう意味ではないんです。楽になりたいという人が必要としているのは、癒やされ楽になることだと思います。

わたしは自分と圭吾さんが、楽になることよりも、面白くなることを目指しているところが似ているのだと思います。わたしは、癒そうという人がいれば傷ついている人が現れ、正そうとすれば間違う人が現れるものだと思っています。楽になろうとすると、苦が目に入ります。どれがおかしいというわけではないですが、面白くなることを目指している我々(と括ってしまいますが)の敵は、「退屈」です。そこに、同士のような感覚を覚えます。

圭吾さんはなにに退屈を感じますか?!わたしが退屈を感じるのは、自分の訴えを無視したたときです。自分の訴えを、選択肢から消したときです。

わたしは病院で働いたことがありますが、そこでカルテを見てどの科を受診するべきなのかを判断してその診察室までカルテを運ぶ仕事をしました。そのときに、「超スピードで受診先を判断して運ぶという競技に出場しているつもりで仕事をする」ということを思いつき、それに本気になりました。

集中しまくって、一瞬の目視で判断して運ぶ。面白いことに、しっかり見て判断しようとすると間違えるのに、目視のみで割り振ることに夢中になると、機械のように正確なのです。人間とは、かくも凄まじき能力を持った生物なのかと驚きました。仕事は面白みなどありませんでしたが、その競技自体は非常に面白くて夢中になりました。すると、先輩から挙動不審だと怒られました。早すぎる、普通にやれと。このときに、普通にやってもつまらないから、だったら秒で仕事をやめようというアイデアが湧いたのですが、その声を無視してみたらその日の仕事は信じられないほどつまらなくなりました。わたしは学校で体育祭の練習をさせられているときのように、ゾンビのようにうなだれて業務に当たりました。

こういう場面で楽でいることばかりを考えると、先輩に歯向かうという選択肢も消え、仕事を辞めるという選択肢も消え、親をまた心配させてニートになるという選択肢も消え、新たに仕事を探すという選択肢も消え、迷惑をかけたことによるゴタゴタを起こさないようにしてしまいます。

でも面白くなることを目指すとなると、ここで即日やめるといういちばんやっちゃいけない風の選択肢が浮かび上がってきます。「カルテ回し競技の選手をやめて普通になれと言われたので即日仕事をやめました」のほうが明らかに笑えると思うんです。結局わたしは「やばいやばい、こんなことでやめるなんてクズすぎる」という思いと戦いながら、なのにどこかに痛快な王手を放ったときのような満足を密かに覚えながらその仕事をぶち辞めました。その行動から、『生まれ損ない』という称号を親からもらいました。そのあと恋に走って家を出て金を作ったり起業したりして爆走しました。

わたしは、つくづくつくづく、ああした場面で「せっかく雇ってもらえてやっと見つけた仕事なんだから、このまま続けよう」とか、「これ以上親に心配をかけてはいけないから頑張って続けよう」と思う自分でなくて良かったと思います。あのゾンビのコンディションでは、わたしは生きることができなかったと思うんです。親や社会を悪者にして、ひどく強い被害者意識を持ったに違いないと思います。親が嘆くから、先輩が怖いから、だからあいつらが悪いんだと思ったことでしょう。でもそれは、やめなかった自分が作った現実なんですよね。自分の選択肢を消すのはいつも自分です。

自分の心に「あいつのせいだ」と悪者に仕立てている相手がいるときは、その相手の期待も信頼もスカーッと裏切ることが王手になるのだと思います。たとえ、裏切ると相手に申し訳ない気がしても、裏切るために自分自身が思いっきり転ぶのだとしても。

そこで楽を選んでいるのなら、本当の黒幕は自分なのですよね。

私は「いま、この瞬間も私たちは祝福されている」という、世界に向けられた謎の信頼があります。壇珠さんには、そのような感覚はありますか??

はい!わたしにも、その謎の信頼があります!脳内をお花畑にする謎の花咲か爺がいます。つまるところ、結局は、どこまでいっても、どこまで堕ちても、なんだかんだ言って、ぜんぶが杞憂で、大丈夫なのだと思っています。そして謎にこの世界は自由の結果だと思っていて、この世界はこの世界そのものから祝福されていると思います。だから、イコールこの世界がそのまま祝福なのだと思います。祝福そのものや、祝福してくれるものを探さなくても、この世界そのものが祝福なのだと思っています。

ブチブチうるさく書いてしまいましたが、とにかく神さま的なものが祝福してくれているのだという根拠のないお花畑を持っています。

この世界への信頼は、そのまま自分への信頼だと思います。

世界からの期待に答えてばかりいると、自分への信頼が失われるのだと思います。逆に言えば、世界からの期待を好きなときに裏切ると、自分を信頼できるようになるのだと思います。「言うことを聞いたから、見返りをくれるよね?」と思っているあいだじゅう、人生が退屈です。世界の言うことよりも自分の言うことを聞いてくれた自分を、わたしたちは信頼するのだと思います。

わたしは犬に「お手」を教えるのが嫌いです。うまくいくと餌をあげ、失敗すると餌をあげない。これに罪悪感が伴います。犬は、この世界はお手をすれば餌をもらえるところなのだと信じるようになります。言うことを聞けば、見返りがもらえる。言うことを聞かなかったら、見返りのもらえない世界です。その犬はこの世界を、自分がお手をできなくなったら見放される世界だと信じ込む。そんな世界はぜんぜん信頼できません。

そこに、お手をしなかったのに結局餌をもらえている犬が登場したら、先の犬の世界観は破壊されますよね。は?!うそやん!!と思います。そして、その奔放な犬を、飼い主を恨む。被害者犬となってしまいます。この犬がここで楽なほうを選ぶとなると、飼い主とバチバチしたくないがためにお手をし続けてしまいます。でもそこで面白いことを考えようとすると、選択肢が出てくる。お手をしろと言われたら脚を乗せるという発想が湧く。そこで飼い主とバチバチしたことによって放り出されても、この犬にとってこの世界はすでに、「こんな俺を受け入れてくれる飼い主がどこかにいるかも知れない世界」に塗り替わっています。もう、信頼してもいいかもしれない世界になっています。

わたしは圭吾さんを、お手をしなかったのに堂々と食べることができていて、他の犬たちの世界観を破壊している人だと思います。は?!うそやん!!のキッカケであるためにきっと恨まれる対象にもなるけれど、面白さを選びたい衝動には勝てませんよね。わたしは夢という言葉があまり好きではないのでそれが人々の「夢」になるとはいいたくないのですが、人の世界観を壊して一新するキッカケである圭吾さんをすごいと思っています!!

夢というのは欲望をオブラートに包む作用があると思います。夢という言葉は、欲を持ったことを体よく美しく見せる効果があると思うんです。夢だと言えば美しい、夢だと言えば今の時点ではまだ遠いものでいい、夢を持っていればそれだけで良いこと、という感じがして嫌いです。

「いつかあなたと交わりたいという夢を持っています」と言われたら「ハァ」と思いますが、「君とぐちゃぐちゃになりたいんだ!」と言われたら、思わず疼きます。

「いつかラーメン屋を開く夢を持っています」と言われると「ふぅん」と思うのですが、「店作ってでも俺のラーメンを食わせてえ!!」と言われたら、おお!食べてみたいな!と思います。なんなら、もっとホントを出してこいよ!と思います。ラーメン食わせて、なにが欲しいんだ!と。うまいって言われたい!すごいって言われたい!ラーメン出したら微笑がえしが欲しい!尊敬と羨望の眼差しと女の欲情が欲しい!モテたい!つまりモテたいです!!おっぱいが好きです!!みたいな。おっぱいを得るのに、俺にはラーメンしかねえんです!!と言われたら、うおおお最高じゃん!!その欲望、叶えてくれーっ!!と思います。

『夢』と呼んでキープしているよりも、今すぐになんとかしたくてたまらないという思いを発したときに人は周囲を巻き込むのだと思うんです。もちろんでっかい夢があるのもいいのです。でも、夢がないという人は夢と言われると「きれい」な事を考えてしまうから、思いつかなくなるんだと思うんです。それならば、欲望を持とうとするほうが健康な気がします。だから、夢はなんですかと聞かれたら「わたしには夢がないのですが、欲望にはまみれています」と答えるのが好きです。欲ならいっぱいあります。

圭吾さんにはどんな欲がありますか。わたしの今朝の目先の欲望はこのお返事を書くことでした。そして今はこの言葉に反発したくてたまりません。

『幸福になりたければ、見返りを求めるな。ただひたすら、他のために尽くせば良い。』デール・カーネギー

『この世は興味あるもので満ち満ちている。こんな素晴らしい世界で、だらだらと人生を送るのはもったいない。』デール・カーネギー

わたしは、いきなり他のために尽くすのはハイレベルだぜ、まずは自分だぜと思います。それから、こんな素晴らしい世界で、ダラダラしたことが本当に自分を助けてくれた、贅沢な時間だったぜ!と思います。うぉりゃー!!
今日は、これほど多くの人を啓発した潜在意識の達人、デール・カーネギーに反発して、非常にバカっぽい状態で締めたいと思います。またのやり取りを楽しみにしています!!

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