義理歩兵自伝(3)
数ヶ月にわたってニート状態の私でしたが、
その後某会社の営業職に就いてみました。
すると、意外にも営業成績がよかったため、たまに表彰されるなどして調子に乗るも、人間関係をうまく築くことができずに苦戦しました。
原因は、「言われたことを極端に鵜呑みにする」ため言動が異常で、周囲に迷惑をかけることでした。
(と、最近になってわかるようになりました・・これは痛い・・・)
こうして書いていても数々の黒歴史が思い出され胸に刺さり、
一行書くのに10回くらい下を向いてしまうので、進みが亀のようです。
たとえば自動車の教習所に行った時にも、
初めにまず、言われたことだけをやるように、言われていないことはまだやらないようにと説明されて教習に入りました。
順調に教習が進んでいたある日のこと・・・
教官「はい、じゃあ今日は坂道発進ね」
私「あ、はい!」
教官「じゃあエンジンかけて、一速に入れて、ではそこの坂道のところまで行ってみましょう」
私「はっ!」
教官「あのね・・一速って言ったけど、スピード出てきたら二速、三速とギア変えてね・・」
私「はっ、すみません」
教官「坂道うまいね~、では坂を下りてください」
私「はっ!」
こうして坂道を下りて次の命令を待っていると
教官「あのさあ、どうしてそうやって言われたことだけをやるの?」
私「えっ・・」
教官「運転するのは自分なんだよ?わかってる?言われたことだけをやっていないで、自分で機転を利かせて、習ってきたことをやっていかないと。坂道終わったからといって、停車することないでしょう!いや、こんな人見たことないよ参ったな~・・ふぅ~~~~!」
私「(!!!!!!)あ、、その・・・言われたことだけを、、やるようにと、、はじめに言われていたので、、、」
教官「いや、、だからそれが額面通りすぎておかしいから(苦笑」
私「・・・・・・・・・・(なにこれ死にたい・・)」」
と、このような具合で、極端に融通が利かないことが原因で、行く先々で数々の問題を起こしました。
上のエピソードを思い出すと、今も無言で剣山におでこを打ち続けたくなります。
しかし、こうして指摘されて「融通を利かせなくては!」と考えても、
他者の言動のどこにどのようにその「暗黙の了解」が潜んでいるのか、
どこから行間を読めばよいのか、がわかりませんでした。
嫌味や皮肉にも、他の人からこっそりあとで意図を解説してもらうまで気がつきもしなかったりと、恥を重ね、周囲の嘲笑を誘ってばかりいました。
馬と鹿を連続で書いてみると、わたし、と読めました。
これに打ちのめされた私は、このことによって(笑)、社会は厳しいものだと痛感しました。
仕事するのも嫌になっちまうな~いいよなあバカボンのパパは・・・・
自分にも楽しい気持ちで取り組めるフィールドはないのだろうか・・・・
私だって、これでいいのだ!って言ってみたいもんだよまったくよぅ・・・・・
そんなことばかりを考えていた社会の落ちこぼれだった私はある日、高校時代からの彼氏に電話をしました。
その日、電話をすると言ってくれていたのに、一向に電話が鳴らなかったからです。
すると、彼のお母さんが電話に出て、こう言いました。
「え?あなた、何も聞いていないの?あの子、今日イギリスに発ったのよ・・・・」
私が学校がつまらなくなっても、社会に出てうまくいかなくても、それまでは彼がいてくれることで希望が持てました。若かった私には、永遠に続くと思えた恋でした。
心から信じていました、月並みな表現だけれど、未来もずっと一緒だと。
この、突然にして恋人の居なくなる衝撃・・・・
通じていると思っていた相手が、水面下でこの惨劇を用意していたのだと思うと、それは耐え難い苦痛でした。なにより、気がつかなかった自分が、あまりに間抜けだと思えました。
バカボンのパパになりたくとも、ボンのパパ、の部分が欠けていたのだと気づき、自己否定も極点に達しました。
こうして、枯葉のごとく、存在の耐えられない軽さに悩んでいた私は、ほどなくひとりの青年に出会いました。彼は私よりひとつ年上の立教大学の学生さんで、いかにも遊び人風の人でした。
私はなんとなく彼に好感を持ったため、電話でよく話すようになりました。
そしてデートに行くようになって、彼がしばらく海外旅行に行って現地から長々と手紙を送ってくれたことが本当に嬉しく、彼と付き合うようになりました。
1年弱経つ頃には、私たちは彼のアパートで一緒に住むようになっていました。
いかにも遊び人風の彼は、蓋を開けてみると本当に遊び人だったため、ちょうどその頃、学校にもあまり真面目に行かずに留年が決定してしまっていて、卒業に向けて努力しなくてはならない状況でした。
私は彼のために潜りで大学へ通い、授業に出て、ノートを取り、本を読み、宿題をやって、久々に勉強に燃えました。
テストの前には問題を作って仮テストを作成し、彼に解いてもらって、順調に単位を取得してもらいました。
彼は恭子さん、私は美香さんでした。
あんなに人をサポートしたのは、人生後にも先にもこのときだけです。
楽しい、楽しい、楽しい日々でした。
私はいつも彼を驚かせたくて、夜な夜なコンクリートブロックを調達してきて彼のいない間に台所の棚を作成して見せたりしました。
彼「あれ?なんか家の中が違う!」
私「ふっふっふ・・・見なよ台所を!」
彼「ぬおおおおおおすげえ!お前すごいじゃん!」
私「シシシ・・・(//∇//)(私に褒められた草むしり直後のホオアカ無知畑と相似度100%)」
こうして若さ愚かさ全開で、一緒に青春の日々を歩みながらも
彼はきちんと卒業を獲得することができました。
しかし!!!!!!
卒業に向けて彼が行っていた、就職活動。
これがことごとく失敗し、もう後がないというところまで来てしまっていました。
残るは、有名商社1社のみ。
ここに内定が決まらなければ、惨敗に終わる、という危機にありました。
それなのに、その会社に志望する動機を作文にしてまとめたものを持って行かなくてはならないという日の前夜、なんとあろうことか彼は鉛筆を持ったまま、一言も書かずにグースカと眠ってしまうではありませんか!
これは・・・まずい・・・・・
不正だと思いながらも、恭子さんを放っておける美香さんではありません。
私は彼の代わりに筆を取って、徹夜で作文を書き始めました。
今でも覚えています。その書き出しが、
「男として生まれた以上、・・・」だったのを・・・(笑)
私の背中の唐獅子は、大人になったこの時にも消えていなかったのです・・・
次の朝早く、私に起こされて、眠い目をこすってスーツを着て、私にネクタイをしめてもらって、彼はその作文を持って面接に行ったのでした。
結果、見事に内定取得。
自分で書いたものではないものを持って、堂々と商社の面接に行ける彼が図々しくて驚きましたが、何はともあれ彼はこれで、立教大学を卒業することも、有名商社の内定を取ることもできて、順風満帆な未来の扉を開けました。
しかし、その時私たちに差し込んでいた未来の光は、
哲学ヤクザの娘の私がそこにとんでもない水を差すまでの、つかの間の幻光にすぎませんでした・・・・・・・・・・
つづく
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