義理歩兵自伝(4)

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当時私が彼と暮らしていたのは、池袋駅からローカル線でひと駅のところにある、二間の小さなアパートでした。
 

冬は極寒、夏は灼熱の室内からは、砂漠のように乾き切った薄灰白のグラウンドを植栽でぐるっと囲っただけの、殺伐とした公園を見渡すことができました。
風の強い日には、そこから砂埃がじかに舞い込みまつげが白くなるほどだったため、窓を開けることができませんでした。

さらに窓ガラスが一枚割れていたため、雨や風などの自然現象は「天災」と呼ぶにふさわしい脅威でした。
電気代を惜しむ気持ちと戦いながら唯一の暖房器具であるオイルヒーターを使用すると、電子レンジを使うだけでブレーカーが落ちてしまいました。
若かった私たちは、そのたびにそれを笑いました。

このような多少劣悪な環境も、当時の私たちの身分には楽園といえるものでした。
 
 
彼が商社への内定を獲得したころには、私はその小さなアパートに、それなりの愛着が沸いていました。壊れた家具を修復したり、木材を使って収納を作ったりして、修繕と模様替えに明け暮れた思い出が部屋のすみずみまで行き渡っていました。
 
 
しかし、彼の商社への就職内定によって、私の心にはある苦しみが渦巻きはじめていました。
それはどんなに消そうと思っても消えるものではなく、
遺伝子に組み込まれているのかと思うほど強く心に根を張って、
自分自身を縛っていました。
 
 
その苦しみとはなにかというと・・・・
 
 
 
「サラリーマンの嫁にはなれん」
 
 
 
という拒否反応で(笑)、
これがまた、どうにもこうにも斬り捨てならないものだったのです。
 

 
私の父・哲学ヤクザは土建屋の社長で、

毎日作業服で仕事に行き、セメントや泥にまみれて、帰ってくる人でした。
腹に巻いたさらしに挟んだライターを取り出し、歯笛で演歌を歌いながら煙草に火をつけて、
スルメで晩酌をしながら野球を見て、ゴロンと横になるとそのまま眠ってしまう。
夢の中でも仕事をしているのか「生コン車1トンで呼んであるからよ」などと寝言をいうのが常で、真っ赤に陽に焼けた肌からはいつも、現場の厳しさがにじみ出ていました。

 
当時の私にとってはこの姿こそが、「男」というものでした。
育つ間に染み込んだこの洗脳を切り離して結婚というものを考えることが、私には不可能でした。
 
 
 
私は仕方なくこれを彼に打ち明けることに決め、 
 
 
「せっかく内定決まったけどもさ、会社に勤める人との一生ってのが、考えられねんだ・・・だから結婚は無理だ・・・所詮オレは土建屋の娘っつーことなんだ、すまねえ・・・」
 
と伝えました。

 
そのあとからの彼の様子が、これまでに見たことのないものでした。
3日ほど、あまり食べず、動かず、口もきかず、窓の外のさみしい公園を眺めては、夕陽に向かってため息をついていました。
 

 
そして、3日目の夕方に

「うん、決めたわ」
と一言言って、
 

 
こともあろうか、こともあろうか、
 
内定していた会社に電話をかけ、
「ありがたいお話でしたが、誠に勝手ながら、辞退致します。」
と言い放ってしまったのです・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
担当の方に、申し訳ないと電話口で謝る彼を茫然と突っ立ったまま見ながら、思いました。
 
 
 
自分は、大変なことを・・・して・・・しまっ・・・・た・・・・・・・・
 
 
 
 

この瞬間から私が自ら背負ったものは、ヘビー級の罪悪感でできた、自分を磔にする十字架でした。もう、手元にあれば、自ら進んでジャストサイズのいばらの冠もかぶっていたと思います。

やってしまった、大変なことをしてしまった、私のわがままでひとりの青年の未来を奪ってしまった・・・・・・

そう思いました。
そこにひとつの「矛盾」が、何年もあとになって気がついた時には視界がブレて立っていられなかったほどのショックを自分に与えることになる大きな矛盾があることにも、気づかずに・・・
 

 
 
こうして私と彼は、ただの、若い、生活にも未来にもなんの保証もない「無職の平民」となりました。

私はひどく責任を感じ、悩み、彼にひとつの申し出をしました。

 
私が働いて、生活費と、それから事業を始めるための資金を稼ごうと思う。
それまでは、どんな仕事ができるのかを検討しながらそれを支えて欲しい。
好きなことが見つかったら、将来は一緒に小さな事業をやっていってみないか、 
と、↑これをぜんぶ、秋田弁で。
 
 
自分に、自動車の教習さえまともに受けられなかった自分に、何ができるのかなんてさっぱりわかりませんでした。
しかし、私は、若かった・・・・
彼との未来をつかもうと考えると、胸は希望に溢れ、根拠のない自信とやる気にみなぎって、その重い責任感すらも夢という風船を膨らませる覇気となりました。
 

すぐさま仕事先を探すために情報誌をチェックする毎日が始まりました。
身の回りに見つかる、あらゆる募集広告に目を通しました。
学生の身分を終えた彼には、もう実家からの仕送りはありません。
来月の食費、アパート代、光熱費、そして事業資金。
これらを捻出するためには、単なるアルバイトではなく、すぐにでもそれなりの給料を得られる仕事先に就かなくてはなりませんでした。
 
 
 
そんなある日、新宿を歩いて電信柱に無造作に貼られている募集広告にすらひとつひとつ血眼でかじりついて見ている私に、ひとりの男が近づいて声をかけてきました。
 
「すみません、お姉さん。ちょっといいですか?」
 
はい・・?と返事をして見てみると、黒いスーツを着た背の小さい、顔を含め、露出している皮膚すべてが脂ぎっている若い男性が立っていました。
 
「ちょっと、僕あちらからお姉さんを見つけて、びっくりして。今僕ね、クラブのホステスさんのスカウトの仕事をしてるんですけど、ほんとお姉さん、ピッタリだから声かけたんですよ」
 

「はぁ・・・(びっくりするほどホステスさん向きなのか私は・・?!)」
 
「キャバクラじゃないですよ?高級クラブです。お店の中、見てみませんか?」 

「キャバクラってなんですか?クラブはお酒を飲むところですよね・・・」 
 
「本当に見たらびっくりするような綺麗なところなんでね、せっかくだから中を見ていってくださいよ」
 
「でも、ホステスさんはできませんけど、、、、」

「かまいませんよ、今お店にすごい人が来てるんで、見るだけでも楽しいですから」
 
「そうですか・・・・じゃあ見るだけでも」
 
 
彼は私の歩く方にいつまでもついてきて誘うので、NOと言えない日本人だった私は、そんなに綺麗な所なら見せてもらって帰ろうと考え、彼についていきました。
 
 
まだ夕方の4時ころで、お店の始まっていない時間帯でしたが、そこにはある有名な事業家が来ていて、お店のオーナーと大切な話をしているようでした。
 
そこへその背の小さなスカウトマンは近づいていって、
今スカウトしてきた方をお見せしたいんですが、ママさんいますか?と別の黒服に報告しました。私は、ホステスさんはできないと言ったのに・・・スカウトしたなんて言って、彼は私が断ったらあとから怒られないのだろうか・・・と、余計な心配をしました。
 
 
店内は、確かにびっくりするほど広くて綺麗でした。
何もかもが高級に見え、私は目がくらんでしまって、その中にいるだけでもソワソワがマックスで、皮膚が縮みました。
  
 
すると、60代くらいの、誰が見ても夜の世界の人だとわかるような派手な身なりの女性が現れて、背小スカウトマンに聞きました。
「あら、あなたがお連れしたのって、この方?」

背小スカ「はいっ・・・!」
 
夜派手「すごいじゃないの」
 
背小スカ「はい!いい感じだと思いまして!」
 

このような、縦関係のはっきりわかる会話を交わして、その女性は私にこう言いました。

夜派手「あなた、水商売の経験、ないでしょう」 
 
私「は、、、、はい、、、あの、、お店を見せてもらいに来ただけなんです、、」
 
夜派手「いいのよそれは。ちょっと紹介させて欲しいの」
 
言われたことを額面通りにしか取れない私は、いいのよそれは。の意味を考えて戸惑いながら、この展開にもものすごく戸惑いながら、夜派手の言われるがままに、店内の窓際の席で派手なスーツを着た男性と話しながら大きな葉巻を吸っている大物事業家のそばまでついていきました。
 
 
大物葉巻「おお、ママさん、悪いねえ早くから」
 
夜派手「とんでもございませんのよ。あのね、○○さん、この子今日ご挨拶に来た新人さんなの。ぜひ○○さんにもご紹介させていただきたくって」
 
大物葉巻「そうか、いいかい、ママさんについていけば大丈夫だからね。素晴らしい方だから。まあ座って座って、きっとこの子は売れるね、ママ」
 
派手スー「かなりいいねえ!君、○○さんにご挨拶して」
 
私「は、は、は、はじめまして・・・・・」
 
夜派手「○○さんはうちでも大事なお客様なのよ。初めての日にお会いできただけでもラッキーなのよ。あら、あなたはもういいから」
 
背小スカ「あっ、はい・・あの、あとでお着替えされますよね?」
 
夜派手「この子には、すぐに私がお化粧もドレスも選びますから」
 
 
なんだなんだなんだこの世界は、ここにいる人間たちは!
それにとにかくこの展開は異様だ、どう考えてもまずい・・・私の意志など誰も気にしていないじゃないか・・・
どうしよう、見に来ただけなのに、どうしよう、どうしよう、どうやって抜け出そう・・・・
 
 
 
この時の私は、計測したら5センチくらいは背が縮まっていたに違いありません。
その場に居合わせる人たちの、図ったかのように同じ雰囲気で私の気持ちを無視して話を進める余裕が、恐ろしくてたまりませんでした。 
 

 
その後、化粧を指導され、ドレスを着せられ、そのママさんと呼ばれる派手な女性が喜々として私を着せ替え人形にして楽しむ間、ほんの短い間でしたが私は、頭からかぶった恐怖心の隙間から、そのママさんの優しさを見た気がしました。彼女は楽しそうでした。
「がんばって、まあるく弓型に描くのよ、わかるかしら、まあるくね。あなたの顔が、もっと映えるように、やさしい眉にしたいのよ、できるかしら、やってみて!あなたきっと、売れっ子になるわ!!」
 

結局最後に私は、背小スカウトマンが怒られることを心配して、ホステスさんになる気はなかったのに店内見たさにノコノコと来てしまったと言って謝り、私の手を両手で包んで「仕事したい時はいつでも来てちょうだいね」と惜しんでくれたママさんにお礼を言って、小一時間ほどでお店をあとにしました。背小スカウトマンをかばった自分の背中に、このときも唐獅子がいるような気がしました。
 

 
この時の経験が、私の意識をひっくり返してしまいました。
私は、とにかく稼がねばならない。
そして、いざとなったら「夜の仕事」という選択肢もあるのだ。
 
 
今まで目にもくれなかったホステス募集の広告に、目を通し始めたのはこの時からでした。

このあと私は、責任感の舟を世間知らずのオールで漕いで、夜の世界へ入っていきました。
しかし私は、すぐにもそこは、あの夜派手ママさんにほんの少しだけ見出した優しさは甘ったれた子供の幻だったのだと、往復ビンタで知らされるような魑魅魍魎の世界だったのだと知ることになるのでした・・・・
 
 
つづく

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