義理歩兵自伝(1)
2016年1月からのブログでの連載以降、これまでに最高で1日に1万PV超を記録し著者の人生を変えたノンフィクション自伝を、こちらNOTEでも公開することとなりました。
この自伝でわたしが書いたのは、ひたすら間抜けな人間がなんとかして生き延びてきた、情けなくて滑稽でひょうきんな姿です。
わたしの記憶の中にある本当のことのみを書きました。
それにも関わらず、読んでくださった多くの方からたくさんの激励や感動のメッセージをいただいて、この世の優しさを目の当たりにしました。
つくづく、書いてよかったと思っています。
一般社会で褒められるような要素は皆無の人生ですが、よければお付き合いください!
(注※著者があまりにアホすぎる場面が乱発するため、読まれると吹き出す可能性がございます。電車の中などで読まれる際にはくれぐれもご注意ください(笑))
それでは、どうぞ。
私は神奈川県生まれの神奈川県育ちです。
両親は秋田県から神奈川に移り、
結婚して母方の祖父母とともに暮らし始め、私が生まれました。
家族はみな秋田の言葉で話していたため、
私は母のことを、おっかあ、
父のことを、おっとう、
祖父のことを、じさま、
祖母のことを、ばさま、
と呼んでいました。
祖父母は他界していますが、両親のことも今でもそう呼んでいます。
標準語よりも先に、秋田の訛りを覚えました。
私は関東で育ったので、普通に標準語で話している分には
親が東北人だとは誰にもわかりません。
しかし母は標準語を話すことができず、
自分が田舎から出てきたズーズー弁の田舎者、
ということを、たいそう恥じて、非常に根強い劣等感を抱いていました。
東北訛りがあると、「し」と「す」の発音の違いがほとんどなく、
どちらも「し」と「す」のちょうど真ん中のような音で話します。
「ち」と「つ」もほとんど違いがなくて、ちょうどそれらの間の音に聞こえます。
そして、「き」がちょっと「きし」のように、
「ひ」は「し」のように発音され、
さまざまな音に濁点が、名詞の最後に「こ」がつけられることが多く、
「ない」→「ね」 のように短く略された音が多分に使われます。
「~に」「~は」などの接続詞も標準語とは違います。
これらを駆使すると、字幕が必要なほど標準語とはかけ離れた言葉に聞こえます。
「すみません」も、ちょっと
「しみません」みたいになってしまいますし、※難易度★☆☆☆☆
「吉幾三」も「よすいぐぞう」に、※難易度★★☆☆☆
「CD」は「すーでー」に、※難易度★★☆☆☆
「どこに」は「どごぬぃ」※難易度★★★☆☆
のように、なってしまいます。
したがって、
「すみませんが、吉幾三のCDはどこにありますか」と聞こうとして力の限り標準語に近づけて言ってみようとすると、
「しみませんけんども、よすいぐぞうのすーでーどごぬぃあるんだすべが・・」
のようになり、
「はっ・・・?」
と聞き返されてしまったりします。
こうしたことを母は、恥だな・・、とよく言っていました。
私も小さい頃、母と買い物に行って母が店員さんと話したりするときは、
ソワソワと恥ずかしさと心配とで一杯になったものでした。
これに加えて母は、勉強を何もしてこなかったようで、
驚くほど学識のない人でした。
それがかなり痛いレベルで、
「最も」を「さいも」と読んでいました・・・・・・・・ヽ(;▽;)ノ
自分=恥、と絶対的に思い込んでいる母でした。
しかし私はそれに対して驚愕しつつも不憫に思うことはなく、
知識がないということを極めていると思い、珍しいものに対して抱きがちな
「このままであってほしい」という気持ちを持っていました。
そのためか、母と私は親子の関係がいち早く逆転してしまいました。
母は畑仕事と家事と縫い物が得意で、
草むしりが終わるといつも、
「みつえ!(みちえ、と言ったつもり)ほれ、草むしったど!みんな取ってきれいにしたど!!」
などとものすごく得意げに報告してくるので、
「すごいな、がんばったな!!」
と言って褒めてあげていました。
そういう時の母は、すごく嬉しそうで、幸せいっぱいという様子でした。
母「これで、さづま芋植えるんだ・・・!」
私「んだが!楽しみだすな・・・!」
母「冬に焼ぎいもにするんだ!」
私「すごいな、偉いな・・・!」
母「シシシ・・(//∇//)」
母「みつえ、山に山芋堀りに行がねが?」
私「お、おう!行ぐべぇ!」
母「いいが、根性で長げぇの取るべぇ!」
私「当だりめよ!」
母「(私の手をとって歓喜し、)長女よ、いいが、泥だらげになっても負げるなよ!!」
私「オラなば負げねよ・・!」
と、母とはこのような感じの関係でした。
私は母から、子供っぽさと、田舎者っぽさと同時に、強烈な、漆黒のブラックホールのような劣等感と、楽しいことには100%夢中になる、という要素を無条件にコピーし(てしまい)ました。
しかし父はそれとは反対で、
子供の頃の学校の成績はすべて最高で、
しかもひどくヤクザな人物でした。
父の兄弟や姉妹にも、全身に刺青があるものや、
暴力団関係者とスナックを経営しているものなど
どぎつい人物が多く、
父も血を流して帰ってくることも一度や二度ではありませんでした。
拷問を受けたのか足の親指の爪に釘を打たれて、
靴の中にたくさん血をためて帰ってきた時にも
釘を抜き取る際に何度も痛くないのかと聞いてみましたが、
「俺の痛いとミユの痛いは違うから、答えようがねえなあ」
(当時からミユというあだ名でした)
とか
「痛くなんかないんだよ、怪我=痛い、と思うから痛くなるんだよー、ははははは」
などと言ってはぐらかされ、まともに答えてもらえませんでした。
当時の父からは、お腹に巻いた、真っ白いさらしに挟んだタバコを取り出して吸っている姿ばかりが思い出されます。
「医者を信じちゃあダメだな、警察もダメだよ?全部嘘だからねぇ(笑)」
「自分がいつか宇宙人に食料にされるかもしれないと思って生きてごらんよ」
「人の言ったことはぜんぶ真逆にして捉えたほうがいいんだ」
「人はよ、気持ち悪いだとか怖いだとか言ってるもののことが一番好きなんだ」
「人は忘却の生き物だから、過去を思い出して何言ったって、誰にも本当かわからねえよ?」
などと、父から口癖のように言われて育ちました。
私は幼かったので、それらを真剣に聞いていました。
父は私にとって、誇らしいと同時に恐ろしい人物でした。
どう世の中を見ているのか、その視点自体が「得体の知れないもの」でした。
そんな父からは、常識を疑う心と、いざとなったら血の抗争に発展させるしかないという片道的・破壊的な思考回路とをコピーし(ちまっ)たように思います。
ちなみに、同居だった母方の祖父は優しくてピュアな子供のような人でしたがひどいアル中で、しかも原始人のような人物だったため、動くものを見ればなんでも捕えて食料にしていました。
祖母はリウマチで脚が悪く、走ることはおろか歩くことも大変で、手の指もすべて曲がっていたため障がい者として認定されていて、常に生きる辛さを訴えて毒を吐きだしていて、なぜか週刊誌の中のエロい小説が好きな人でした。
このような非常に危険な祖父母からも無防備に影響を受け続け、
そうして彼らの間で育った私は、やはりというかなんというか、変わった子供になってしまいました。
家族の特徴だげで、ずいぶん綴ってしまったど・・・!
長くなったので、次回へつづく!
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