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600/1096【600日記念】天の味方をお腰につけて

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で600日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

600日目が無事にやってきた!今日で百の桁が変わる。この静かな喜びも、日頃からサポートを送ってくださったり、スキをくださる読者さまのおかげ。ほんとうに、ありがとうございます!

残りが496日となり、日に日に終わりに向かっているという実感が増してくる・・だいぶ無理のあるように思えたチャレンジだったけれど、ここまで来てみると「三日坊主の怠け癖」は幽霊みたいなものだったと思う。その幽霊はそれはそれは怨念が強くて、こちらが恐れをなして負けてしまう感じだった。でも考えてみれば、生きて存在するわたしに比べ、ずいぶんと希薄な存在だ。見ようと思えば見ることができ、いないと思えば居ないみたいなものだ。チャンネルがズレてしまったら、もう受信しない周波数だ。

三日坊主チャンネルから石の上にも三年チャンネルへの切り替えが、最後まで進みますように。今日も一日に歩める一歩分をズラしにかかるぞ!!

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よっしゃ~今日は600日に届いた記念に、毎日投稿を頑張ることへの思いを書いてみようと思う!

わたしはこの毎日投稿を、三日坊主でしか居られない自分を変化させてみたくて始めた。サボることは簡単で、反対は難しい。言い訳は簡単で、黙るのは難しい。自分がその簡単な方しかできなくて、難しい方をできないのが、嫌でたまらなくなったから、逆になった気分を知ってみたかったのだった。

でも、三日坊主でなくなったからと言って、なんだというのだろう。直接的になにかの役に立ったり収入になったりするわけではないし、むしろ「三年書きます!」と言ってしまうと、できなかった時のリスクを負うばかりでもある。役にも立たず収入にもならないのなら、これはある意味で「無駄」「自己満足」と言われるものだとも思う。

ではなぜそれでもやろうと思ったのかと自分でも考えてみた。考えてみて思いあたった答えは、「それが自然だから」だ。

自然だから、と言ってしまうとわけがわからない感じだけれど、「役に立たず収入にもならないのなら、やったって仕方がない」という考え方はとても不自然だと思う。わたしたちは、そんなふうにして自分のやることを決めなくてもいいはずなのではないかな。

「どうせ結果がこうなるのだから、やったって無駄だ」というふうに考えると、この世の何もかもが無駄だと言えてしまうのではないだろうか。極論的には、どうせ死ぬのだから生きたって仕方がないということと同じだ。

たとえ収入になることだとしたって同じで、その収入からなにを得たいのだろうか。収入があれば美味しい食べ物や好きな商品を買うことができるけれど、それだって突き詰めてみると、自分の良い気分のためだ。

自分や誰かが、美味しい思いや嬉しい思いをすることで、良い気分になれるから。さすらば、わたしが三日坊主を直して得られる良い気分と、なにか違いがあるのだろうか!

どうせ良い気分のためなのだとしたら、そこに収入などの言い訳を添えなくてもいいのだと思う。花だって、「ねえねえ、毎年あとで散ってしまうのだから今年は咲かなくていいわよね」とか、「あとで枯れてしまうのだから今回は手抜きで咲けばいいわよね」などとは言わない。どうせ散るからと言ってサボる花はない。散って枯れるとわかっていても、全力で咲くものだ。

これが、自然なのだと思う。ほら、これから処刑されなくてはならない人にだって、最後になにが食べたいかと訊いたりするものではないか・・・(違

わたしは、ただ自分の気分がいい方を選ぶのが自然だったので、三年間書いてみるほうを選んだ。ただ、良い気分のために。生きていて自分がすることを、「自分の良い気分のためにする」のだと思ってみると、とてもシンプルな感覚になる。

食べること、歩くこと、仕事をすること、ゲームをすること、誰かを助けること、なにかを習うこと、ストレッチをすること・・・・

これらの選択肢を、「食べるのは必要だからする、仕事も必要だからする、ストレッチは健康のためにしなくてはならない。あとのことは自分の役に立たない、あるいは得にならないからしたって仕方がない」と思ってしまうと、わたしは心が殺伐としてきてしまう。なんだかこう、やってらんねえ気分になってくる。なんのために生きているんだとか、なんのために生まれたんだとか、自分の人生までが無駄だとかこの街は冷え切っているだとか思えてきて、アスファルトにタイヤを切りつけながら暗闇を走りぬけるシティーのハンターになってしまう。(古)

でも、もし自分の行動を「自分の良い気分のため」だけに選んでみようと考えるとどうだろう!!

食べるのを、良い気分になるからする。
歩くのを、良い気分になるためにする。
仕事だって、たとえば収入を得て暮らしを立てるほうが、道端で物乞いをする無力感よりも気分が良いからする。
ストレッチも気持ちのいい感覚を味わうためにする。
誰かに親切にするのだって、意地悪なことをして罪悪感を抱くよりも気分が良いからする。
辛い筋トレを、強くなるのが気分が良いからする。

ただ、自分の良い気分のために・・!!

それでいいじゃないかとスパッと心を決めてしまうと、小さな迷いが霧のように消えていくのを感じる。

無駄に見えることをしていい。お花のように生きていい。良い気分のためだけに選んでいい。わたしにとって、これがとても救われる感覚になっている。シンプル・ライフだと思う。

人生には自分に都合の良いことばかりではない。わたしは、誰にだってあれこれと大変なことがあるものだと思う。世はなんだかんだと言ったって、やはりなかなか苦の多いところだ。それはいいのだ。でもだからこそ、自分のすることを選ぶ基準だけでも、「自分の良い気分のため」にしてみる。

ここで、誰かを見捨てるより助け合ったほうが「良い気分」ではないか?
ここで、無理やり食べ切るよりも残したほうが「良い気分」ではないか?
痛いところまで無理やりストレッチしなくても、ここで止めたほうが「良い気分」ではないか?
ここで諦めるよりも、頑張ったほうが「良い気分」ではないか?
ここで無理をするよりも、手を離したほうが「良い気分」ではないか?

三日坊主でいるよりも、継続できたほうが「良い気分」ではないか?
わたしは、継続できたほうが気分がいいから、それを選んだ。

どんどんそちらを選んでいってみるのだ。
強いワクワクでなくていい。
シンプルに「良い気分になれるほう」を選んでみる。
自分なりに、自分で決めて。

蝶が花の蜜に自然と集まるように、良い気分の方に寄ってみる。それは時にはこれまでよりもとても楽で、時には周囲を嵐に巻き込むほどの重大な決断を含み、時にはコツコツと地味な努力で修行することもあるだろうけれど、すべては己の「良い気分」のためだと割り切れるように。

そこがブレなければ、あなたは道に迷わない。なにを選んでも「自分の喜びのため」だとキッパリと言い切れる人は、かっこよくて素敵で、天すら味方してくれる。なんとシンプルなことだろう!!

自分で、自分の良い気分のためだと思えるのならば、

社会の常識を優先してもいいし、
自分の欲を優先してもいいし、
頑張っても頑張らなくてもいいし、
収入になることでも、ならないことでもいいのだと思う。

なにを優先するのかを、その都度ひとつ、自分で決めればいい。
こうして自分で決めたことなら、もう誰のせいにもしなくていい。
チッ・・あいつのせいで!という被害者にも、もうならなくていい。

好きな趣味を収入にするなどということよりも、こんなふうに生きることを、好きなように生きているというのだとわたしは思う。

好きなことをするというのは、さまざまなシーンで、なにを一番に優先するのかを自分で決めてそれをするという、至極シンプルなことだと思うのだ。
気分の良いほうが、天の道しるべ。

迷いに出会ったとき、これを覚えていられれば大丈夫だ!
よければ、これをあなたのお腰にきびだんごのように据えて、お好きなときに役立てておくんなましね。

というわけで今日は、「好きなことをする」のわたしなりのとてもシンプルな解釈のシェアでございました。響き合えるお方がおられますように。
それではまた、明日ねー!

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