義理歩兵自伝(13)

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奇しくも再び現れたジェイソンの所業を綴る自伝の章が「13」であることに少々驚きながら、
彼に幸せの頚動脈を掻っ切られるエピソードの前にひとつだけ、思い出深いシーンを書いてみたいと思います。

 
和柄のシャツのビジネスが念願のミニ成功を収めつつあった、やる気に満ちた日々。
義理浪士は次々と新案を考えては形にしようと、砂場で遊ぶ子供のように夢中になって型紙を作り、縫い物をして作業に明け暮れました。

そしてひとつだけ、反物を使ったレギュラー商品のほかにスペシャルでプレミアムなものを制作しようということになり、無地の布地の上から美しく切り抜かれた別布を当てて丁寧に縫い付けたものを使ったシャツを考案しました。
 
 
義理浪士の唯一の長所は「指先の器用なこと」。

毎日地道に縫製作業ばかりしていた義理浪士は、難易度を特に考慮することなく唐草模様に切り抜いた布を当てるデザインに決め、手描きで作ったパターン通りに切り抜いた複雑な形の薄い綿の布地を、手作業で縫い付ける作業に取り掛かりました。

2mmほど布を内側に折り込みながら、縫い糸の見えないようにまつり縫いのみで曲線にカットされた細い布を縫い付けるという作業は、とてつもなく細かく、根気のいる作業でした。
今にして思えば無謀の極みでした。

 
限定品ということだったので、量産品のように縫製会社に頼むのではなく、ハンドメイドの逸品を数点だけ作れれば良かったのですが、1人で縫うにはあまりに大変すぎたため、専門の職人さんたちを使って手作業で複雑な刺繍などを仕上げてくれる会社に製作をお願いすることにしました。

そして、中国の伝統的な刺繍をする会社、それからタイにある手縫い作業で細かい縫製をする技術のある会社に、それぞれサンプル品を送り、模倣して縫ったものを送ってもらうことになったのです。

どちらの会社も、非常に細かいアメージングな伝統的刺繍をこなすアンビリバボーな職人さんをお持ちでした。
彼らならきっとやってくれるに違いない!猛者たちの仕上げを見るのが楽しみだぜ・・・!!!
 

しばらくすると、まずは中国の会社から試作品が送られてきました。
しかしそれはあまりに義理浪士の作ったものとはかけ離れた仕上がりで、とてもお願いすることはできませんでした。

何度か縫い方の説明書きを添えてやり直してもらいましたが、結果はやはり同じ。
最後には、技術が追いつきません、とお断りされてしまいました。

 
次に、タイの会社からの試作品が届きました。
しかしそれも、同じようにポツポツと縫い目が確認でき、上から当てる布の滑らかなカーブがきれいに出せていません。
同じように何度か修正をお願いしてみるも多少の改善が見られる程度で、オーダーには至りませんでした。

「なぜだ・・なぜだ?!私にできるのだ、彼らにできないはずはないのに!」

 
すると、そのタイの会社から、日本に来て技術をレクチャーしてもらいたいという申し出がありました。
私はとても驚いて、ミーティングの日を楽しみに待ちました。
 
 
お会いしてみると、その会社は家族経営だったようで、一家が総出で訪れてくれていました。
カタコトの英語で通訳さんに話す、背の小さく華奢な日焼け色のお父さん、緊張した様子で両手を体の前で合わせてじっとそばにいるお母さん、ふたりの子供も心配そうな表情でお父さんと私たちをかわるがわる見つめていました。
 
カタコト焼小父「ういーくるんとぅーめいきーー、ひあーべりーじひかるとーーーー」 

通訳さん「ここが難しくて、できなかったんですって」
 
義理「ええと・・そこは、初めにプレスをかけてラインを出してから縫い止めるんですよ」
 
カタ小焼「ういーでぃどぅ、ばっ・・べりーじひかると」
 
通「やったのだけど、難しいんですって」
 
義理「手で出来ますよ、このように・・・」
 
カタ焼「あいやー」
 
義理「どうでしょうか、できそうですか・・・・?」
 
カタ焼「の、の、・・・・あぃむ・・・そーりー、べりーじひかると・・・・・・・ゆーはぶ ごっどはんず」 
 
通「できなくてすみません、あなたは神の手をお持ちですねって」

義理「・・・!!!!!!!」

緊張母じっと合わせ「こーとぅっかー涙」
 
かわるがわる子×2「こーとぅっかー・・」
 
カタ焼「ういーあ そーりー、べり そーりーとぅゆ、ほーぎぶあす・・」
 
通「本当に申し訳ない、どうかお許しを、だそうです」
 
義理「か・・カタ焼き・・・・!(;_;)涙」 

彼らは飛行機代を捻出して、期待に応えられないことを説明し謝るために、家族で会いに来てくれたのでした。
なんという誠意でしょうか。
ミーティングの時間はあまりに短く、私は一家にあんまり申し訳なくて胸が詰まりました。
私たちは別れる前に、互いに両手で力を込めて握手をしました。
最後まで申し訳なさそうにするカタ焼とじっと母への、あの時どんなジェスチャーを使っても伝わりきらなかった感謝の思いが、今も私の心に残っています。

かわいらしく、素朴な一家でした。思い出すたびに泣けてしまうエピソードです。
 
 
この時から義理浪士は、もしかしたら自分は世界一まつり縫いがうまいのではないかという思い上がった考えを密かに持ちはじめ、縫うことを仕事にするのはきっと自分の天命なのだと思い込むようになりました。

ホステスの他にはハッタリ撮影監督しかできることがないという苦しみとともに、義理という借金の膨らむ一方だった私の心には
「まつり縫い界で世界一(仮)」と「アロハの小成功」は、小さな自尊心を保つための貴重な拠り所となりました。

そんな義理浪士にとってこのあとのジェイソンの仕打ちは、すぐには現実として受け入れることができないほど残酷なものに思えました。
 
 

それまで上向きだったスポンサー会社の本業が短期間に経営難に陥り、
会社の体制を変えるという連絡をもらってからしばらくしてあえなく倒産。
その後まもなく、音信不通となってしまったのです。
 

在庫も、受け取るはずだった売上も、ホームページも、すべてがいっぺんに目の前から消え去りました。

心にローラースケートを履いてくるくるとターンしながらしゃかりきコロンブス気取りだった義理浪士は、これをすぐには理解できませんでした。
 

しかし、現実的にはすべてがストップし、どうにもならない状況でした。
これで自分は再び、ただの無職の女性、無職の邦人、無職のヒト科、無職の霊長類、無職の哺乳類、無職の知的生命体、いや知的じゃないスね、ただの無職の生命体になってしまったのだ・・・・・・

個人事業としてデザインに明け暮れる私のために、大卒浪士は家事や事務作業や縫製作業などをこなして影から必死に手伝ってくれていました。
そのため、当然彼も無職。
毎月デザイン料としてスポンサー会社から受け取っていた微々たる収入を食費に当てていたため、私たちは無一文でした。 
 

この時ばかりは、自分の今までの頑張りや、大卒浪士やホオジロと万歳をして喜び合った日々が忘れられず、立ち上がる元気もなくなるほど悲しみに暮れました。
 
「・・またこうしてゼロになって、、今から一体、何を頑張ればいいんだ・・・」

どうしても現実を信じたくなかった義理浪士は、しつこくしつこくホームページを表示しては、ダルシム化しながら手描きで作ったきれいな布地を見つめ、それに執着しました。
とてもじゃないが、もう一度同じものは作れない・・・第一、そのための資金どころか生活費もないじゃないか・・・ 

しばらく経つと、ホームページのドメインも、あっさりとアメリカの会社に使用されるようになりました。
何度再読込みをしても、同じページが表示されます。

 
「ほんとになくなってしまったんだな・・・・」 
 

ハッタリの恐怖でイーサン・ハントになり、お絵描き帳(B4)の恐怖でケンタウロスになり、和柄絵師のフリをする無謀さでダルシムになり、もう変身力も底尽きた義理浪士でしたが、

唯一背中に残っていたのが、唐獅子でした。
愛する健さん、あなたなら、ここでこの義理を捨てたりはしないのでしょうね・・・・・

 
大卒浪士は断ったのだ、あの窓割れアパートで、あの日自分のために内定を捨てたのだ!
それを忘れるわけにはいかない。このまま、
「んじゃ悪いスけど、どこかでバイトとかしてもらっちゃっていいスか?」
・・・口が裂けても言えるわけがない・・・!!

 

義理浪士は大卒浪士に言いました。

「ここで地道にアルバイトをしたりサラリーマンになったりもできる・・・だども、それじゃ何のために今まで頑張ったんだろうな?
俺また夜働いて生活費全部と必要なら学費も出すから、暮らしは心配しないで、今度は大卒が好きなことを見つけて、勉強して資格を取るなりどこかで修行を積むなりして、夢に向かってみたらどうかな?!」

 

ズルい方法だ、まったくの馬鹿だ・・・・
しかし、この時の義理浪士には、これ以上に稼ぐ方法も、他に大卒浪士を助ける方法も思いつきませんでした。

こうして義理浪士はお義理返上の舟を、再び夜の灯りを道しるべにして漕ぎ出したのでした・・・・・ 
 
 
つづく
 
次回は新しく入店したクラブの様子とそのメンバーたちをお送りします。
短く終えた夜の仕事のあとには、義理浪士史上最大の「ど根性ライフ」へと続きます・・

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