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645/1096【世界をどう観る?】あなたの目のフィルター

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で645日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

645日目、数日前からちょっとしたきっかけで邦楽を聴いてみている。今祖国日本で人気だという2つのバンドの曲を聴いてみたのだが、そこで恐ろしいことに気がついた。

なんと自分は、彼らの顔を見分けるのが難しくなってしまっているのだ。はじめのうちそれらのバンドのボーカルを同じ人だと思ってしまい、2つの別のバンドを掛け持ちしておられるのだと思ったが、あれこれと調べてみてどうやらそうではないとわかった。

脳は自分にとって重要でないことに関してはメモリ消費を抑えるようになっているため、海外暮らしで日本人の顔の造作に関しての情報にメモリを費やす必要性がないままでいると、あっという間に我々アジア人の顔が同じように見えるようになってきてしまう。

こちらにいると、絶対数の少ないアジア人について個別に顔を覚える機会がほとんどなく、「アジア人だ」と判断し「ならば英語で話そうと考える」以上の必要性が日常的にないため、それに必要な特徴だけをさらって見ることばかりしてしまうからだ。慣れとは恐ろしいものだ・・・・

それから、わたしにとって邦楽はイタリアにいるモードとはまったく違う感性に身を置かねば楽しめない音楽で、これに慣れるまでにも四苦八苦した。

「やさしい」「なんか、あったかい」「ちょっとせつない」「癒やされる」「ほろっとくる」「ほっこりする」「遠慮」「胸にためた、ずっと言えなかった思い」「だまっていても、伝わってくる思い」「見守る。あくまでもそっと」「うまくは言えないけど」「嘘の笑顔」「かわいい」「謙虚」「離れてても、つながってる」「慮る」「見えないところでそう、君のために」

などなどを「良いこと、素敵なこと」としなくては楽しめないのである。なんというか、正直無理をするとこの「もどかしさLOVE」な、「不器用さLOVE」な、「素朴なひと、いいよね」的な祖国の世界観にイライラが伴ってしまう。ハイモラルだけれど、自分を黙らせるような、身体が縮まるような感覚になる。

イタリアの空気には、
「俺は言う!言うのがだめなら話す!話すのがダメならしゃべる!」
「今はわたしの話す番!次もわたしの話す番!人生は永遠にマイターン!」「え?話すための人生なのかって?いや話さないと人生ですらなくね?」
「俺の話を聞け、マジでほんとうに五分だけでいいから(大嘘)」
「”ハッキリしない意思表示”ってなに?すでに意思表示じゃなくね?」
「え???”自信”以外に表現するものってなんかあるの?!」
「この世は俺の主張でできている」
「他人、の意味??”聞き手”以外になんか意味あったっけ?」
「わたしはこう思うのよ、アンタも勝手にすればいいけどわたしの意見を聞いたほうがいいわ、いい?まずねぇ・・(エンドレス)」

などなどの成分が酸素以上の割合で溶け込んでいて(とわたしは感じる)、しかもその空気感がアグレッシブなのではなくてリラックスそのものであるため、これに慣れると祖国のモードになるのに切り替えが必要になってしまうのだ・・・・・・・

わたしは毎日投稿で日本に意識を向けて日本語を綴っているし、SNSでのやりとりも毎日しているからそのあたりの乖離が薄いだろうと思っていたけれど、自分の吸っている空気、目の前にある現実、イタリアの文化の中での暮らしが10年目を迎えていることは、自分にとって確実に大きな影響を及ぼしているのだと思った。

日本語を使うことを大切にしよう、祖国の空気や文化へのリアリティを失わずにいようと思った。この「忘れない・・ずっと。」の感じがもう、祖国の香り満点だ!このブログの毎日投稿がそこに役立っていますように。

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優雅な土曜日の執筆。・・・・なにが優雅って、別になにひとつ優雅ではない。いや、こういきなり否定すると狂っているみたいだけれど(笑)、見方によってはなにひとつ優雅などではないし、同じように、見方によっては大変優雅な時間だとも言える。ものごとをどう判断するのかは、人それぞれだ。

このことを、ふんふん、そうだよねと思ってくださったお方もおられることと思う!!

でもこれって、まっさらに、まっすぐに、ただそのことだけをシンプルに、余計なものをくっつけずに、至極単純に、そのまま、その真実を完全に純粋に受け入れて考えてみると、天地が入れ替わるほどにものすごいことではないだろうか?!

包丁は美しい調理道具であり、殺傷力の高い危険な武器でもある。見方によってはサバイバルツールであり、インテリアツールであったり、砥ぐことでストレスを発散するツールでもある。

また、そのような「道具」という地球人らしい見方から外れれば、地球人が石などを鋭くしてものを分断したり傷つけたり穴をあけたりなどしていた、原始的だったころの発想を今に継承した歴史的な意味合いの強い物体だとも言うことができる。

スマホだってそう、あなたが緊急の電話をして誰かの命を助けることのできるヒーローのツールであり、脳細胞に影響する電磁波発生機でもある。数独というゲームで脳を活性化させたり、文章を書いて誰かに思いを伝えたり曲を聴いて感動して涙を流したりすることもできる、ほぼドラえもんがそばにいるような魔法のツールだ。

そしてまた、この中にノートもペンも数独の本もiPodもCDも写真もカメラも収納していると考えると、デジタル収納ケースだと言うこともできる。スマホを使うのは収納術でもあるということだ。

今のわたしだってそう。日本で買ったユニクロのTシャツを裏表逆に着て、前髪を左右にぴっちりと分けてピッタリとピンで留めたら想定外にダンディな感じになってしまっており、いつもの机に向かい手にハエが止まった状態で時間をチラチラ気にしながらブログを書いている45歳子持ちの母、スネに虫刺されあとが増えていて多少焦りを感じており、「あ~違う!違う違う違う!」を連発しながら趣味のお絵描きに励んでいる毛穴の広がった女性だ。

オラは早く日本に渡航して鬼滅の刃のグッズを買いたいのに、こんな辺鄙なところに閉じ込められていて涙が出てくる。外で物乞いをしているアフリカ人たちを見て、君等は船でここに来られていいわいな~(涙)などと思ってしまうのだ。どこが優雅なのだろう。

しかーし!!イタリアはヴェネツィアの美しき古都のそばで、好きな時間にブログを綴りながら、今年の夏もまたウィーンに近い山岳地方で作られるプロシュートに摘みたてのバジルをそえたものをおつまみにスプリッツ・ビアンコを楽しんでいて、人生になんの不安もなく思いのままに生きている。そのことを、優雅な暮らしをしているとも言えてしまう。

ありとあらゆる事象が、見方によって見え方が変化してしまうのだから、ではその事象に「見るものの見方に左右されない絶対的な評価」というものがあるのだろうか?そう、なにひとつないのである。これが真理だ・・・!

やばいこっちゃ、えらいこっちゃ!!
これって、超冷静に考えてみると、すごいことだと思うのだ。

なにをどう見たって、それは自分の勝手な見方にすぎないのだから。
ここは、見方によってはまったく違う世界かもしれないのだから。
あなたは、見方によってはまったく違う人物かもしれないのだから。

わたしたちはつまり、個々によって世界をまったく違ったものとして見ていて、それはそれぞれによって指紋のように違っている。
わたしたちは、目に映るすべての事象を歪ませて※観ている。そしてそれが誰とも重ならなく、誰とも分かち合えないのである。

(※歪みなく観たのは、たとえばお釈迦さまね。歪みがないというのは、ものごとに一切の優先順位がないということ。)

どんな見方もできるということは、そのもの自体には元々の色なんてない。意味などない。包丁がもし正直であるとき、「ねえ包丁」と話しかけたら「包丁って思ってるのお前の勝手じゃね?」と言ってくるのだ。「え、じゃなんなの」と聞くと「何でもないでしょ、元素的には主にFeとCだけど」と言ってくるのだ。

たとえばわたしが母だと思っているもの、それは哺乳類だ。アミノ酸だ。カルシウムだ。そこにどこまでの深い意味を見出すかは、わたしの勝手だ。

たとえばわたしは過集中を起こしてしまいがちで、それは発達障害的な弱点だとも言えるが、長所だと思うこともできる。

こうしてなにを見てもわたしたちは、意味のないものに勝手に意味付けをしている。透明の液体を「赤だ」「青だ」と言っているのだ。

その色は他でもない、わたしたちの目にかかったフィルターの色であるということを受け入れると、「えええ~~透明の世界を、自分が勝手にそう見ているだけなんかい!」という新たな観点と出会うことができる。

たとえばわたしたちが自分に下している評価、それはわたしたちがそう見ているだけにすぎない。わたしたちがありとあらゆるものに見出す評価、それもわたしたちがそう見ているだけにすぎない。

では、さあそうであるならば、わたしたちは世界をどう見よう?!

もしこのことについてマスターしている仙人と会話をしたら、きっとこうなってしまうのだ。

マスター仙人「お前はどのような者じゃ」

人類A「え~と、普通の人です。どこにでもいる凡人って感じで、自分に自信がなくて、それが悩みっちゃ悩みです。あまり特別なところがないです」

マスター仙人「それはお主ではない。出直すがよい」

人類B「わたしは自信がありますよ!けっこう人よりもデキるやつって言われてますので。それが長所かな~」

マスター仙人「それはお主ではない。出直すがよい」

人類C「わたしには自分がどういうものかを言うことができません。自分のモノの見方もひとつの幻にすぎません。仙人よ、わたしはどういう者なのでしょうか」

マスター仙人「お主がどういうものなのか、ワシが決めワシが伝えれば、お主はワシの言葉をワシの意図したとおりに受け取れるのじゃろうか。お主のその受け取り方もまた、幻ではないか?お主の思いを決めておるのは誰じゃ?出直すがよい」

人類D「わたしは人間です。刺し身とローソンのからあげクンとロックとが好きです。それが今の自分です。世界は楽しくて切ないところだと思います。そう自分で決めています。それはまた変わっていきますが、息のある限り、わたしは好きなほうを選びます」

マスター仙人「旅人よ、お主に幸あれ」

あなたはどういう人だろう。世界はどういうところだろう。
あなたはそれを、どう見ると決めるだろうか・・・・

フィルター交換で、世界が塗り替わる!という経験も、人生でも最もエキサイティングになりうるものですね。どう見ているのかに気づき、それは自分でやっていることだと気づき、それをもし好きに変えられるのなら、と考えてみることが、その扉の入口なのです!!!

というわけで今日は、

◯事象に意味はなく、そこになにを見出してもそれは自分のフィルターを通して見ているにすぎないということ
◯自分がどんなフィルターを持っているのかを知るということしか起こっていないということ
◯だから自分の見たいように見ているのだということに自覚的であろう
◯フィルターを自分で選べるのだから、選びたい方を選ぼう

という観点のシェアでございました。
それではまた、明日ねー!!

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