光になる時
顔合わせの日の朝は、心から憂鬱な気分で、逃げ出したくなる。
カーテンを開けると、灰色の空。
今日は顔合わせで、今から稽古が始まるのに、天気が悪いから、なんかやっぱり嫌な予感がする、、、稽古場が崩れないかな。火事にならないかな。。
今日の顔合わせが突然なくならないかな。
そんな無意味な妄想を朝から繰り返し繰り返しながら、緊張と不安をごちゃ混ぜにして出かける用意をする。
今日は立ち稽古ではないけれど、時代劇だからもしかしたら浴衣が必要かもしない。
台本が入っているか何回も確認する。
あんなに憧れている舞台。自分がどうにかなりたくて、とにかく本番に立てる日を願う日々。悔しくて泣いたオーディション会場の駐車場。
いつか舞台に立つためにジャズダンス・お茶・日本舞踊・死ぬほど高いボイストレーニングのレッスンを受けまくった。
全ては、舞台に立つために経験してきたこと。舞台に出れば、辛いことも全て報われるのに、どうしてこんなに稽古の初めの「顔合わせ」の日が怖いのだろう。
キリキリと痛む胃を抑えながら、1ヶ月ほど通うことになる稽古場へ向かった。
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私は、大学4年生で文学座という劇団の養成所に通い、卒業後、舞台女優となった。
初めて演劇に触れた文学座で最初に教えられたことは、
「舞台に立つなら、お茶を美味しく淹れられる人間になりなさい」
ということ。
これは、文学座の創設者である、昭和の大女優「杉村春子」さんが言った言葉らしい。
同じく創設者の一人であり、文学座の演出家、故・戌井市郎先生から初めての授業でそう教えられた。
「芝居は一人でやるものではない。相手があって初めてできるもの。
美味しいお茶を飲んでもらいたい。
人に、そう思えるような人間でなければ芝居をすることができない。」
そう教わった日から、私たち研究生は演出家が来るたびに、我先にと競ってお茶を淹れるようになった。
舞台をやめた後も、私はこの言葉を大切にしている。
美味しいお茶を淹れられる人間でいること。この言葉を学べただけでも、
文学座で学んだ1年はとても大きな経験だった。
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初舞台は名古屋の御園座で、ミュージカル女優の付き人をしながら出演した。
憧れの松平健さんの主演舞台。日曜の暴れん坊将軍を見て育った世代としては、健さんは私の「上様」で、稽古で健さんが現れるとまるで後光がさすように眩しくて、こんな私からは挨拶すらもおこがましくて憚られた。
そんな夢の初舞台で、私は付き人をしていた女優からイジメられるという洗礼を受けた。
御園座の楽屋では毎日怒鳴られる。舞台の上に正座をさせられたこともあった。出番直前に、耳元で「お前は、こっち側に立つ人間ではない。客席で見てる側よ。」と言われて、
舞台で自分の出番が終わった後、同じ事務所の先輩俳優の楽屋に駆け込んで号泣した。
でも、本人の前では絶対に泣くまいと誓って日々を過ごした。
私が泣きそうな顔をして付いている姿や、時々聞こえてくる怒鳴り声に、周りの出演陣も不穏な空気を感じ取る。そのうちに「新人がイジメられている」という噂が、楽屋内に静かに広まった。
中日を過ぎた頃になると、私のカツラの後ろにバナナやゼリーが置かれるようになった。
最初見た時は、なんでカツラの後ろにスーパーの袋に入ったゼリーがあるんだろ...
と思ったけど、それは、食べる時間もないだろうと、誰かからのこっそりとしたエールだということに気がついた。
すれ違うたびに、「おつかれさーん!!」と言って、ハイタッチをしてくれるおじさんの俳優たち、
朝、全楽屋に挨拶に回ると、必ず「ハグをしよう」と言って抱きしめてくれるベテラン俳優がいた。
その方は、私のいない所で、「あんまり付き人をいじめちゃいけないよ」と本人に注意してくれていたらしい。
みんな、私には何も聞かない。私も絶対に誰にも言えない。
でも、目を合わせた人たちの顔がみんな優しくて、
「初舞台だ。頑張ろう。」
と私は自分の気持ちを奮い立たせて、毎朝劇場に通った。
何よりも、健さんと踊れるマツケンサンバが楽しかったから。
舞台の上は辛いことは何もなくて、キラキラした黄金色の衣装と、軽やかなリズムがまるで別世界で、出演者全員がニコニコして舞台上で踊っていた。
事務所の先輩はこんなことを言っていた。
「僕たちは、健さんの舞台を絶対に成功させなきゃいけない。自分の小さな問題よりも、健さんのためにもしっかりやるんだ」
そう。私は、健さんの舞台に立たせてもらっている。
健さんはお殿様のように大きな存在で、大きな愛がある人で、
その愛に応えるように『座長のために』という思いを常連メンバーみんなが持っていた。
「今までの付き人は泣いたのにお前は泣かないのね。」
彼女が放った言葉に、私の泣くまいという誓いは間違いではなかったと思った。
誰にも見られない場所で泣くことはたくさんあったけど、
それ以上に、優しさが溢れる劇場が私の初舞台だった。
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全公演が無事に終了した後、一人のベテラン俳優が私に声をかけてくれた。
「きみ、次の舞台で、僕の付き人をしながら出てくれないかい?」
その俳優は「可哀想な子がいる」という噂を聞いて気の毒に思い、
私に次の舞台にでる切符を差し出してくれた。
新国劇という「剣劇」の伝統を踏襲し、昭和の名作を上演し続ける老舗の劇団を引っ張る座長のKさんだ。
私は、Kさんの付き人をしながら巡業であちこちの公演に出演させてもらった。
芝居が終わった後、みんなで舞台をバラしてトラックに大道具小道具を運び込む。舞台が終わった興奮を身に纏って自分たちもバスに乗り込み、次の街に向かう。
夜も更けて寝静まった街に到着する。
名古屋に着いたら、明け方までやっている味噌煮込みうどんの「山本屋」へ。
ホテルに着いたら付き人仲間のNちゃんと、どうやったらうまく腰紐を相手に巻けるか練習する。
私は巡業であちらこちらの街を訪れるのが好きだった。
街に着いたらみんなで舞台を作り、終わったらバラしてまた次の街へ行く。
ホールの駐車場から見えた景色は、小高い丘に小さな鳥居のある、まるで日本昔話のような景色。
旅の一座が各地を巡って、お年寄りたちに喜んで迎えられた。
Kさんと私はまるで親子のようで、父親のように優しく時に厳しく、
一緒にいる時間が私はとても好きだった。
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Kさんから声をかけてもらった初めての舞台。私は、「夜鷹」という役をもらった。
夜鷹とは、江戸時代の最下級の娼婦で、場所がないから自分で茣蓙を持ちながら商売をする女だ。
小さい頃から暴れん坊将軍が大好きだった私は時代劇に出るのが夢で、
初めての時代劇に出るために、舞台化粧の仕方・カツラの付け方・着付け・所作を学んで初舞台に臨んだ。
着付けと言っても、役柄によって着方が違う。
例えば、夜鷹と武家の娘では生活が違うから、同じ着物でも着方が違うのだ。
そんなことも知らずに私は舞台に立とうとしていた。
舞台稽古の日。朝から劇場で舞台を作り、そのまま本番の衣装を着て稽古を行う。緊張感や疲労と戦いながら遅い時間まで稽古が続く。
突然、稽古が止まってしまった。
「なんで夜鷹がこんな着方をしてるんだ?!」大きな声が響く。
それに答えて、みんなが「お母ちゃん」と呼ぶベテランの衣装さんの怒った声が飛ぶ。
「この子、着物の着方も何にも知らんねん!!」
私のことだ。やってしまった。
舞台に向けてしっかり準備をしたはずなのに、やっぱりしくじってしまった。
私は、どうしたら良いか分からず思わず下を向いて固まった。
着付けの練習もしたのに、私は何ができていなかったのだろう、、、
いたたまれない気持ちになって、頭が真っ白になった。
声が出ない。どうしよう。なんと言えば良いのだろう。
その時、Kさんの大きな怒った声が劇場に響いた。
「この子は初舞台なんだよ!初めからできる人なんかいないんだからみんなで教えてあげてくれよ!!」
Kさんの大きな声は、世界一優しくてありがたくて、
私は涙が出そうになるのをこらえながら、
「ごめんなさい。よろしくお願いします。」と小さく頭を下げた。
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次の日の朝、楽屋口が開くと同時に劇場に到着して、
まずはKさんの楽屋に掃除機をかける。
それから自分の使っている大部屋の掃除。
掃除が終わると、お衣装さんに「着物の練習をさせてください」と言って、一通り自分の着る着物に袖を通す。
私のことを叱った衣装の「お母ちゃん」は、そんな私を横目で見ながら黙って作業をしている。
Kさんが楽屋に到着したらすっ飛んで行って、暖かい緑茶を淹れるようにしていた。
毎朝、毎朝、同じことを繰り返した。
お母ちゃんは、時々私にアドバイスをしてくれるようになった。
先輩女優は歩き方を教えてくれる。
「夜鷹っていうのはね、こうやって歩くの。
お商売をしてるからね、アソコが痛いのよ。お股を開きながら歩く感じを覚えなさい。
着物はね、キッチリと着ないの。着てるそばからグダグダに崩しながら着なさい。
お化粧はね、ドロドロでいいの。キッチリお化粧した顔じゃないのよ。」
こうして、私は少しずつ自分の役に近づいて行った。
千秋楽の日。
いつものように掃除をして、自分一人で着物の練習をした。
その後、私が舞台化粧をしていると、お母ちゃんが楽屋に入って来た。
「あんた、これ、食べるか?」
お母ちゃんが私に持ってきてくれたのは、朝マックだった。
「お母ちゃん、ありがとうございます。
千秋楽、おめでとうございます。」
そう言って、二人で朝マックを食べた。
お母ちゃんは、怖いけど本当は優しい人だった。
毎日、私が自主練をするのを見ていてくれて、認めてくれたんだ。
少し冷えたマックを食べながら、
私は、自分が一歩、舞台人に近づけたような気がした。
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初めての劇場に楽屋入りをする時、
初めての舞台に自分が足をのせる時、
私は人に見つからないようにこっそり柏手を打って、
劇場の神様に挨拶をする。
神様、この舞台に立たせてくれてありがとうございます。
客席の隅々を見渡して、一番遠くの席を見ながら、心の中で祈る。
この、一番後ろの席の人まで、私の声が届きますように。
みんながお芝居で喜んでくれますように。
これは、私が舞台に立つ前の儀式のようなものだ。
楽屋を掃除して、Kさんが使う小道具や化粧道具、衣装、カツラの準備をする。なんどもなんども確認して、決して間違えがないように確認する。
その後、舞台の上で、ストレッチをして声を出す。
もう、ベテラン俳優のOさんは、その時には舞台上で発声練習をしている。
この人は、ベテラン俳優だけど、絶対に毎日欠かさず真面目な顔でヘンテコな早口言葉をして、劇場の中を走り回る。
舞台を愛する真摯な姿だ。
本番が始まると、私はKさんの動きを書いたメモを胸のポケットに入れ確認しながら走り回る。
上手から出た後は、下手袖に化粧道具を運ぶ。
小道具があるかチェック。
Kさんが袖に戻ってきた。
着替えを手伝う。嵐のように着替えて、Kさんが下手から舞台に出た。
良かった!無事に出た。
Kさんの使った化粧道具を次の早替え小屋に運ぶ。
その後すぐに、私は、自分の出番の上手の舞台袖へ走る。
出番の30秒前。
私はこの時間が大好きだ。
今から、私のためだけの時間。
たった30秒。この時間がすごく愛おしくて、大切な時間だ。
呼吸を整える。
心臓のドキドキが耳に響く。
体の奥まで息を吸い込んで、フワーッと吐き出す。
袖から舞台上を覗くと、私の「お父ちゃん」役を演じるKさんが光に包まれている。
さぁ、今からが私の時間だ。
奮い立たせる。
光差す舞台へ、足を一歩踏み出す。
私は今から、光になる。
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