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玄奘、サマルカンドで論戦

 玄奘たち一行は、サマルカンドに到着した。唐で康国とも言う。
 ソグド人の中心都市で、古くからこの一帯は、ソグディアナと言った。
 古典ギリシャ語でΜαρακάνδα(マラカンダ)とも言い、アレクサンドロス三世が東方遠征で占領した。胡姫ロクサネをこの地方で見つけて、二人目の妻とした。
 東西要衝の要で、東方イラン系の都市国家が集まり、サマルカンドの支配者が、ソグド人の王を名乗る事がある。ムスリム化は始まっておらず、まだ祆教が主流だ。景教と仏教の寺もある。少数だがギリシャ人もいる。グレコ・バクトリア王国の末裔だ。
 アレクサンドロスのἈνάβασις(アナバシス、東方遠征)と同じルートで、玄奘も北西インドに入る事になる。あと少しであるが、ヒンドゥークシュ山脈がある。
 ペルシア語で「インド人殺し」の異名を取る山だ。難所と言える。アレクサンドロス以外でも、ティムール帝(注164)がこの山を越えている。中国僧では、法顕、玄奘が通過している。特に法顕は、旅に同行した仲間の僧をここで失っている。
 玄奘たちは、仏教の寺に行ったが、もぬけの殻だった。寺は荒れている。僧はいないし、在家もいない様子だった。この地では仏法が途絶えていた。玄奘はとりあえず、寺を使わせてもらおうとしたが、ソグド人の王から、客人として招待を受けた。
 「……この国は、あまりよい評判を聞きません」
 若い従者は言った。結局、帰り損ねて、同行する事にした。
 玄奘たち三人は、とりあえず、ソグド人の王に会いに行った。
 だが宮殿の中庭で、奇妙な光景を見かけた。
 白い神官服を着た壮年男性がいた。祆教の者だろう。指示出しをしている。足元には衛兵たちに抑え込まれた若い男がいる。首からロザリオを下げていた。景教の者だろう。どうやら、衛兵たちは、斧で若い男の手首を切り落とそうとしているようだ。
 「待たれい――これは一体何事か?」
 玄奘は声を掛けた。皆が振り返る。沙悟浄が現界して同時通訳を始める。
 「……見ての通り罪人だ。手首を切り落として、炎で浄化する」
 祆教の司祭が答えた。手にたいまつを持っている。
 「その男はどのような罪を犯した?」
 玄奘が、白い神官服を着た男の前に立った。
 「……盗みだ。だから手を焼く」
 中庭には祠堂があった。胡律(ソグド人の法典)が置いてある。
 「それは本当か?」
 玄奘が尋ねると、その若い男は、目に涙を一杯に浮かべていた。
 「どうしてそんな事を?」
 玄奘がさらに尋ねると、祆教の祭司は遮った。
 「……もう分かっただろう。妨げるな」
 「……いいえ、この人は盗んでいないです。むしろ、与えています」
 女の童が突如、ロザリオを下げた若い男を指差してそう言った。
 「どういう事だ?」
 玄奘が尋ねると、若い男は答えた。
 「……アレは私が与えたのです。彼らは盗んでいない」
 「詳しく聞かせてくれ」
 「……妨げるな。盗みを犯した者はいる。罪人を庇う者も」
 白い神官服を着た男は、衛兵に刑の執行をさせようとした。
 「待たれい!」
 玄奘が一喝すると、全員がフリーズした。金縛りか。
 「詳しく話を聞かせてくれ」
 玄奘が錫杖でシャリーンと床を突くと、全員解放された。
 「……男たちが私たちの教会に来たので、金の燭台を与えました」
 「なぜ?」
 「……彼らがそれを欲したからです」
 玄奘は暫くの間、沈黙した。状況を推定する。
 「金の燭台は彼らに取られたのではないか?」
 「……いいえ、むしろ私が与えたのです」
 ロザリオを下げた若い男は、微笑みながらそう言った。
 ……こういう事は長安でもあったな。景教の逆説だ。
 長安にも景教の寺があり、玄奘はパンフレットを読んでいる。イエスなる者がいて、神変を連発する奇跡の物語だ。新約聖書のダイジェストであるが、漢文に訳されているので読めた。景教の人たちが、善行を為そうとしているのは理解できた。
 だがやり方が、いつも変わっていた。意表を突くやり方だ。イエスは圧倒的な逆説の人であり、真実を暴くそのやり方が、人々に驚きを与えていた。創始者はいい。特権だ。だがその弟子が真似をすると、ただの騒ぎになる。長安でも似た事件はあった。
 「彼らの罪を許すのはよいが、本当に彼らのためになるのか?」
 「……それで良いのです。長い時間、どこかで気が付く」
 ロザリオを下げた若い男は言った。そうかもしれないが、気の長い話だ。
 「……とにかく、こやつは、盗みの罪を背負うと言っている」
 祆教の祭司は言った。衛兵たちはロザリオを下げた若い男を押えている。
 「……そして悪は善の光で滅ぼさねばならない」
 「だがその男が盗んだ訳ではないだろう」
 玄奘が当然の指摘をすると、白い神官服を着た男は答えた。
 「……罪は罪。そして賊を庇うのは、同じ賊だからだ」
 「少なくとも、その男は与えたと言っている」
 玄奘は、この若い男が手首を落とされる謂れはないと考えた。
 「……現場で金の燭台が奪われた。確実に罪は発生している」
 祆教の祭司は指摘した。確かにそれは事実だ。
 「……だからこの者か、彼らが裁かれなければならない」
 どうやら、罪を裁く事が目的のようだった。それが誰か問わない。
 「この者たちの間で、贈与の関係は成り立っている」
 あまりいい言い方ではないが、玄奘が取りなそうとした。
 「……いや、それは偽りだ。罪は罪。悪を見逃してはならない」
 祆教の祭司は再度指摘した。確かにその通りだ。
 「だが刑量が妥当ではない。手首を落とすのはやり過ぎだ」
 玄奘は少なくとも、この男が裁かれるのは防ぐつもりだった。
 「……なぜ口を出す?お前は部外者だろう」
 「拙僧は仏道を行じる。そしてこの宮殿に招かれた」
 仏道にかけて、見て見ぬふりはできない。これは不当だ。
 「……招かれた?王にか?」
 「そうだ。この件は、王にも問い質したい」
 玄奘がそう言うと、謁見の間に場を移して、議論する事になった。
 「……玄奘よ。なぜ裁きを止める?」
 ソグド人の王は、玉座から下問した。
 「その男は罪を犯していないからです」
 ソグド人の王は、祆教の祭司を見た。
 「……現場で金の燭台が盗まれております。罪は発生しています」
 するとロザリオを下げた若い男が、すかさず言った。
 「……金の燭台は盗まれていない。私が与えたのです」
 王様は混乱した。三者三様に、バラバラな事を言っている。
 「……もう少し分かるように話せ」
 当然だった。意味が分からない。玄奘が現状を整理した。
 「景教の教会に、男たちが来て、金の燭台を取って行ったのです。それをこの景教の者が、金の燭台を男たちに与えたのだと言って庇ったのです。だが祆教の祭司が、現場で盗みは起きていると指摘して、男たちを庇った景教の者を裁こうとしているのです」
 そう説明し終わると、他の二人から、特に異論は出なかった。
 「……であれば、金の燭台を持って行った男たちを探せ」
 ソグド人の王は命じた。すると、祆教の祭司が言った。
 「……この男が庇ったせいで、行方が分かりません」
 ロザリオを下げた若い男は、微笑んでいる。
 「……そうか。であれば、仕方ないな。この男を裁け」
 「王よ、待たれい」
 どうしてそうなるのか?この国はおかしい。
 「なぜ、この男を裁くのですか?」
 「……逆に問おう。この件で誰が罪を背負うのか?他に誰もいない」
 「許せばよいのです」
 玄奘は言った。景教のこの者は、とっくにそうしている。
 「……それだと罪が逃げてしまう。悪事がまた起こる」
 祆教の祭司がそう言うと、玄奘が指摘した。
 「被害者が許しているのに、なぜ被害者が罪人として裁かれる?」
 「……誰かが罪を背負わないと、罪が逃げて、悪事が起きる」
 「許されない罪はない。だが反省なくして、それもない」
 「……反省?反省とは何だ?」
 祆教の祭司が首を傾げている。祆教には反省の教えがない。
 「仏道において、過去を清算する秘法だ。だから救われる」
 玄奘がそう答えると、ソグド人の王は唸った。
 「……犯した罪が清算されるのか?それは凄いな」
 「仏道においてはそれが可能です。八正道の実践によって」
 「……興味がある。聞かせてくれ」
 ソグド人の王がそう言うと、玄奘は景教の男の解放を求めた。
 「……分かった。その男は解放しよう」
 ロザリオを下げた若い男は微笑んでいた。お礼を言う。
 こうなる事が分かっていたのか?玄奘は景教の男を見送った。
 それが玄奘、サマルカンドで論戦だった。天竺は近い。

注164 تيمور‎ Tīmūr(1336~1405年) チャガタイ・ハン国のティムール朝創始者

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺045

『玄奘、バーミヤンを拝観』 11/20話 玄奘の旅 以下リンク

『玄奘、西天取経の旅に出る』 1/20話 玄奘の旅 以下リンク


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