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【書評】音楽史の域をこえて詩学に接近する

M.カッロッツォ、C.チマガッリ『西洋音楽の歴史 第1巻』(シーライトパブリッシング、2009)

 原著は Mario Carrozzo, Cristina Cimagalli: 'Storia della musica occidentale', vol. 1 (Roma: Armando Armando, 1997)。全3巻。すでに、第2巻(2010)と第3巻(2011)まで翻訳が出て、完結している。

 第1巻は古代ギリシアから16世紀までを扱う。その範囲を3部に分け、さらに各部を5章に分ける。全部で15章から成る。章の前半は歴史を人と音楽との関わりを中心として語り、後半は音楽そのものを考察する。前半をチマガッリ、後半をカッロッツォが分担する。網羅的あるいは羅列的というよりは、重要な面の推移をじっくり掘下げる書き方だ。つまり、音楽の諸相が時代とともにどう移り変わるかに焦点をあてる。諸相とは、例えば、音楽の制作方法、音楽教育、音楽の伝達、音楽の形式、音楽市場といった面だ。

 古代から現代にまでわたる問題のひとつに、口承と記譜の問題がある。9世紀のネウマ譜(現代の記譜法の元)はグレゴリオ聖歌を変わらぬ形で後世に伝えたいという要求から生れた。この「書き記すことに頼る」態度は音楽の複雑化を進め、多声音楽を生む。

 この点は非常に興味深い。アイルランド伝統音楽が現在も口承を中心とし単声音楽であること(いわば、上記の反例)を想起する。ここで、多声のほうが単声よりも高度であるなどとは全くいえないことには留意する必要がある。評者は、アイルランドの無伴奏ソロ歌唱(アイルランド語によるシャン・ノース歌唱)は詩と音楽との結びつきにおいて、インド古典声楽と並び、世界で最も高度な声楽であると思っている。アイルランドの場合は、歌の詩の韻律を理解していないと、旋律上の修飾音をつけることが不可能であり、その点では文学面と音楽面で完全な理解が要求される。

第1章「古代ギリシャの音楽文明」の前半について

 古代ギリシアのハルモニアの例1.1(17頁、左からドリア、フリギア、リディア)は、一般にジャズなどで知られるモードとは一致しない。ジャズだと左の音階はフリジアン、真ん中はドリアン、右はアイオニアンになる。それについての注9にある説明だと、テトラコードの内側の2音は音程が柔軟に変化し、一定ではなかったとある。その2音については、全音階、半音階、微分音階が使われたと。

 補足すると、歴史的には、この種の旋法は古代ギリシア、中世、現代(ジャズ)の3種類あり、ジャズのそれは中世のカトリク教会が用いたそれを引継いでいる。現代の観点から見ると、なぜ古代から中世への移り変わりの時点でドリアとフリギアとが入替わったのかは、大変興味ある問題だが、それは本書ではあまり触れられていない(関連する注釈的記述が53頁の「古代名」のところにある)。

 それぞれのハルモニアはエートスと結びつけて考えられた。そこから、プラトンはドリアとフリギアのみを認め、演奏はある旋律のもののみを認めた。その伝統的な旋律はノモス(法)と呼ばれるのは大変興味深い。アイルランドの現代音楽曲に「ノモス」(ショーン・オリーアダ作曲、オリーアダは現代のアイルランド伝統音楽の革新者でもある)があることはよく知られている。なお、古代ギリシアでは、旋律とリズムに関する規律(ノモス)は成文化されていた(23頁)。

 アリストテレスは音楽に対してプラトンよりも寛容だったが、ふたりとも職業としての音楽は若者に禁じた。「音楽は、教養ある若者が片手間に行うものとして有用であるべきで、決して職業的行為(つまり奴隷のすること)にまでレベルを下げてはいけない」とした(19頁)。

 こうしたギリシア哲学者たちの音楽に対する警戒心はそれより約百年前のピタゴラス学派の考え方に影響を受けている。この学派は数の比率に基づく調和こそ、思索に値すると考えた。具体的には天体の動きや音程だ。例えば、弦の長さを半分にすると1オクターブ上(ディア・パソン)の音が出る。3分の2にすると完全5度の音程(ディア・ペンテ)が作れる、等々。音楽でいうと、純粋に理論的な音楽(音の科学)こそ、自由な人間の哲学的な思索に値すると考えた。一方、人間が耳にすることができる音(声や楽器)は世界の不完全な投影と考えられた。

 音楽と天体に関してはプラトンのエルの神話(Myth of Er 〔ギリシア語では Ἤρ エール〕)が有名だ(『国家』の最後に出てくる)。戦死後に生き返ったエルは死後の世界を語る(20頁)。

不変の運命の女神アナンケの軸によってまわされる8つのそれぞれの天球の上で、セイレーンがとても不思議な音を発していた。その8人のセイレーンが歌う8個の音は、世にも美しいハーモニーを生み出していた。(プラトン、『国家』(Repubblica)10.614-621)

 その後、西欧ではいわゆる「天球の音楽」(music of the spheres)の考え方が広まる。その発想の根本に、プラトンが記したこの神話があるのではないか。神秘主義の系譜にもつらなるけれども、死後の世界で見聞きするとされることがらの中で、聴覚方面のインスピレーションの源泉となるものかもしれない。ただし、ムーサ(記憶の女神ムネモシュネの娘)に対決を申し込んだ傲慢な歌い手、タミュロスのせいで、我々は昔の音の世界の記憶を失ってしまっている

 と、この調子でいくらでも書けるけれど、際限なく続きそうなので、第1章の前半については、いったんここで終わる。この本は、訳文が読みにくいという批判があるようだけれども、もともと、この方面の背景知識があり、興味があれば、読みにくいなどということは全くない。むしろ、非常に読みやすいし、寝食を忘れるくらい面白い。興味を持った人がさらに探究するための足がかりが随所に残してあるのも親切。脚注方式も非常にありがたい。この種の(教科書的)内容の場合、脚注か尾注かというのは作業効率に決定的な影響を与える。さらに、特筆すべきなのが、各種の表が大幅に理解を助けていることだ。表作成のお手本になりそうなくらい、うまくできている。

第1章「古代ギリシャの音楽文明」の後半

 第1章「古代ギリシャの音楽文明」の後半はこの時代の音楽に対する考察だ。この考察部分はここだけで理解するのはかなり難しい。言及している内容、参照している文献等を絶えず参考にしながら読み進めないと、とても理解できない。気軽に読める読み物では全くない。本書はイタリアの音楽院の定番テクストだということだが、この考察部分は1回の授業ではとても理解しきれないだろう。予習と復習とを相当しないと消化できない。

 「ヘレニズム期までは、詩と音楽は切り離すことのできないものであった」(23頁)とある。これは当たり前のことなんだけど、今は当たり前じゃないので、つい忘れがちになる。

 古代ギリシアにおける音楽と詩句との関係について、以下、テクニカルな考察が続く。その詳細を書いても、一般の読者に通じるかどうか不明だけれども、面白いので書く。

 ギリシア劇(悲劇)において、俳優の演技と交互にコロス(合唱・舞踏団員)は歌う。俳優は冒頭にプロロゴス(プロローグ)を演じる。それを受けてコロスは入場しながらパロドスを歌う。続いて俳優は劇の主題をあつかうエペイソディオン(エピソード)を受け持つ。コロスは応えてスタシモン(定位置についての歌)を歌う。このエペイソディオンとスタシモンとの交替が3~5回続く。最後にエクソダス(退場の歌)が歌われる。

 本書には書いてないが、アリストテレスの『詩学』によると、入場歌のパロドスがアナペスト(短短長)の韻律であるのに対し、スタシモンは、アナペストやトロカエウス(長短)以外の韻律で歌われる歌であるという違いがある。なお、例えば英語のように強弱のアクセント(stress accent)による詩の場合でも同じ用語を用いる。短短長に対応する弱弱強だと anapaest と、また長短に対応する強弱だと trochee という。

 このスタシモンについて、本書では「抒情的な詩句」と書き、「長さや韻律が常に変化する」と書いてある(25頁)。そして、作詩法上、この「韻律が変化する詩句は歌われた」と考えられるとする。この部分の具体的な意味は不明だ。恐らく、授業だと詳しく説明されるところだろう。

 この調子で15章まで続くけれど、以下、特に気になることだけを取上げる。

第2章「キリスト教の単旋聖歌」

 第2章「キリスト教の単旋聖歌」はグレゴリオ聖歌を扱う。つまり、カトリクの典礼聖歌。英語ではふつう plainchant とか plain-song という。中世ラテン語の cantus plānus の翻訳だ。

 典礼に用いるラテン語について、「ラテン語が本来持っている音楽性」のことに触れてある(33頁)。その音楽性が何に由来するかというと、ラテン語の高低アクセント(pitch accent)だ。音節の強調が音程の高さにより表現される。この点はギリシア語と同じだ。ラテン語を雄弁家が語ると、旋律の一番高い部分とアクセントのある音節とが一致する。例えば、'Ave Maria' という句だと 'ri' がその部分だ。

 話し言葉に音楽性が内在している点について、キケロは話し言葉を「隠された歌」cantus obscurior と、マルティアヌス・カペッラは「音楽の種が埋まった土」 seminarium musices と表現した(33頁)。

 なお、アクセント accentus はギリシア語のプロソディ prosodía をなぞったものだ。前者は ad cantus (歌の側で)から、後者は prós odé (歌の側で)から来ている。

 典礼歌の歌い方には二種類ある。シラブル様式(1音節に1音が対応)と、メリスマ(フィオリトゥーラ)様式(1音節に多くの音が対応)だ。興味深いことに、アイルランド語の無伴奏歌唱(シャン・ノース歌唱)においては、前者はアルスターの歌い方に、後者はコナマーラの歌い方に対応する。

 単旋聖歌のレパートリーで、メロディーラインと典礼のテクストのアクセントとが密接に関係するのは約80%という(35頁)。そのように構造的に方向づけられているわけだが、シャン・ノース歌唱の場合には、メリスマが発生するところもアクセントと密接な関係が存在することがわかっている。そのメリスマはアイルランド語歌が進むにつれて、また詩に応じて、変化する。その変化の仕方そのものをアイルランド人は楽しむ。

 単旋聖歌の旋律とアクセントの関係で問題になるのは単語のアクセントなのだが、これは実は句のアクセントでも同様のことが起きる。句の中で最も重要な言葉(声を高くして強調される)が音楽の中でも再現されるのだ。シラブル様式であろうが、メリスマ様式であろうが、「Ave という言葉は Maria の音の高さまで跳躍するためのトランポリンのようなものである」(36頁)。興味深いことに、強勢アクセントを持つアイルランド語や英語でも、句強勢という句の中のアクセントが存在する。

 典礼のテクストはヨーロッパの各地域で、地元の歌のスタイルの影響を受けて、多様な歌の伝統を生んだ。その中にはたびたび触れたアイルランドも含まれる。つまり、ケルト聖歌(ケルト人の影響を受けた地域――アイルランド、イングランド、ブルターニュ)だ。

 第2章の後半の考察は興奮させられるくらい面白い。特に、「話の始まりと終わりは、口承によるレパートリーにおいて、より安定を持続する傾向にある箇所であるという事実は、認知能力に関する専門家からも認められている。」(40-41頁)のところと、「3つのトラクトゥスのaインキピットと、b終結部を比較したものである。この例をよく見てみると、これらの歌の始まりと終わりのフレーズは細部にわたるまで酷似している。」(43頁)のところだ。例2.4にそれを表す譜面が載っているが、この譜面が凄い。まるで、アイルランドのシャン・ノース歌唱の筆写楽譜のようだ。フレーズの形も似ている。ひょっとして、の連想が働くのは評者だけではないだろう。これほど知的刺激にみちた教科書があるだろうか。さらに、各節の旋律の細かい区分が、ラテン語の文法的区切りと見事に対応していることに、またもアイルランド語詩歌の場合との類似を発見して興奮せざるを得ない(表2.2)。

 脱線。文の始まりと終わりとに重要なものが置かれるということと、上記の口承される話のこととは興味深いパラレルを成す。ところが、このことを逆手にとった戦略もまた存在する。つまり、始まりと終わりとに注意を向けさせておいて、真の(隠されたメッセージ)をその間にもぐりこませるという伝達手段があるのだ。そのメッセージを知られることが危険につながる場合(例えば英国支配下のアイルランドの独立運動など)に、それが用いられることはよく知られている。そのもぐりこませ方が巧妙になればなるほど、そのメッセージの深刻度、緊急性、重要度などが推し量れる。その例は、子守唄などにも見られる。妖精に誘拐された人が、肉親への救出要請を子守唄にカモフラージュして伝えるような場合だ。アイルランド語やスコットランド・ゲール語では、その種のものが伝承されている。

 2章後半の例のようなトラクトゥスの口承において、その中核にあるのはカントールによる記憶と即興とであることが、具体的に非常によくわかる。おそらく、この伝承の方法は、メリスマを用いる他の口承の声楽にも参考になるだろう。ただし、この創造性あふれた口頭による伝承は8-9世紀に大きな転機を迎える。聖歌の固定化の動きが始まり、即興は放棄されるのだ。そして、書くこと、記譜を必要とする時代が始まる。その次第は第3章「9世紀の大革新」で語られる。第3章はあまりにも重要なことを述べており、短く要約することができないが、現代のさまざまな音楽に関わりがある人、特にモード(旋法)を演唱の中心的位置に置いている人は必読だと思う。

その他

 本書は、ここまでで音楽の歴史に本質的興味をいだいた人に応えるべく、さらに知的刺激にあふれた記述を続けてゆく。第5章「中世の典礼音楽以外の単声音楽」は、評者の専門領域のひとつ、トゥルバドゥールを扱っており、ここにくわしく触れることは無用な専門用語の羅列になるだろうから、ここにある表記は概して北仏(フランス語)のもので、トゥルバドゥールの属する南仏のプロヴァンス語の表記ではないことだけを断っておきたい。ここで考察対象となるデ・ヴェンタドルン(Bernart de Ventadorn)の歌「ひばりが動くのを見るとき」 'Quan vei la laudeta' (Can vei la lauzeta mover)は、評者の長年の愛唱歌であり、完全に体の中に入っている。それに対する分析はすこぶる興味深い。丁寧なことに、巻末にはこの歌のテクストがイタリア語訳と日本語訳附きで収録されている。

 巻末にはこの他に、用語解説があり、本文でわからなかったことばも、たいていはここで解決する。(人名について姓でなく名で始まるという、ふつうとは違う配列も含まれるが)索引もあり、これは助かる。ただ、これほどの本になれば、索引はもっと詳しくてもよかった。

 全体として、各章の前半は一般向き、後半は専門的な関心をいだく人向きとは言えるかもしれない。だけど、およそ音楽に関心のある人なら、すみずみまで、繰返し読みたくなる本だ。音楽的興奮にあふれた書といえる。

 最後に、本書が音楽史の域をこえ、詩学に達するという意味を書いておきたい。旋律とテクストとの関係についての洞察が非常にすぐれていると言いたいのだ。詩の原理について考えている人間にも省察をうながすようなレベルと言える。それは例えば「グレゴリオ聖歌がラテン語の拡張であるとすれば、トロープスとセクエンツィアはグレゴリオ聖歌の拡張である」のような文章によく表れている(56頁)。トロープは今日ではもっぱら詩学の分野で考えられるものだけれども、その歴史の当初には、こうした音楽との密接な関係があったのだということを我々に想い起こさせてくれる。その意味でも貴重な本だ。その方面の考察は、第14章「16世紀のマドリガーレ」でのピエトロ・ベンボをめぐる記述でさらに興味深い展開を見せる。

 残念なことに誤植が見られる。少しだけ指摘する。「精霊よ」は「聖霊よ」の誤り(56頁注10)。同じ注の「スタバート」は「スターバト」の誤り。「立ちて」(223頁)は「立ち上がってください」(詩篇74.22から)の誤り。



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